56 -エルネア帝国

 月光国と同盟関係にあり友好国の間柄な『エルネア帝国』。

 新月丸は怪我人2名とケケイシを連れて、ここへ飛んだ。


 建国後、1200年ほど経過している大国で、新月丸とこの国の皇帝は友人としてとても仲がよい。日頃からお互い頻繁に行き来しており、それは両国の国民も広く知っている周知の事実だ。


 2人ともコソコソとお忍びで行き来するわけではなく、堂々と行き来をしている。月光国の定食屋で並んで『大盛りダブルカツカレー』を食べている姿を目撃した者はけっこう、多い。


 街は道も建物も美しく整い、各種公的機関が街中に配置され、ここに住みたがる他国民はずっと増加傾向にある。アスパー・ギドから逃げ出し、エルネアまで辿り着ける人は少なかったから人数としては多くないが、月光国になる前の帝国時代——数年前まで難民申請する者は年に数名いた。


 エルネア帝国の全体的な感じは、現世で当たり前に使われる電気製品や機械の類がないだけで、作り自体はどこか似ている。


 彼方あちら此方こちらの違いの1つは、電気や油で機械を動かし便利に生活するか、魔素で便利魔法や家庭魔法を発動させ便利に生活するか。その差がとても大きい。両方の世界を毎日、行き来している新月丸は、そこに関して一長一短な側面がある、と評している。


 争いに友人を巻き込みたくないので、ハーララへ向かう際には声をかけなかったが、怪我人の治療を考えた今、考えは異なる。ここを頼ったほうが助かる確率は大きく上がるからだ。それに、医療的な面で頼っても、ハーララから連れ出した者の治療をエルネアで行った、と調べる方法がないので巻き込んでしまう心配がない。


 まして、通常の入国ではなく皇帝と親しい極々一部の者のみが直接、瞬間転移テレポーテーションで移動しているのは調べられない。痕跡がまったく、残らないからだ。


 新月丸が瞬間転移テレポーテーションしたのはエルネア帝国で最も大きな国営の医療施設だ。ここの医師長こそがリンジーの師である。先ほどまで月光の医療施設、そこの集中治療室で師に指示を仰ぎながらリンジーは治療を進めていた。


 移動先は医療施設の中にある、医師長部屋。

 ここに直接来れるのは、ほんの一握りの関係者だけだ。


「ババア……いるか?」


 他国と比べてもトップに立てる医療技術を持つ医師長の呼び名が『ババア』である。他人が聞いたのなら、ひどい呼び名だし無礼極まりないと捉えるだろう。けれど、一部の極めて親しい連中の間で、それが普通の呼び名として定着している。もう少し穏やかに「おばば」と呼ぶ者も多い。


 ババアと呼ばれた医師はとても小さく成人男性として、とても小柄な新月丸よりさらに背が低い。現世の日本にある下町、と呼ばれる地域でほうきを持ち、家の前を掃いていたのなら、とても似合う外見だ。中年よりは老人に近いが老婆と言うには、そこまで老けてない。


「もしかしたら怪我人を連れてくるかもしれない、と言ってた件だね?」

「それだ。当初1名の予定だったが2名になっちまった」


 そう言って、医師長部屋の隅にある診察用ベッドに2人を置く。


 医師長部屋は広く、ほとんどの治療をここだけでできるほどに設備も豊富である。イメージとしては大病院の中に医師長が営む個人経営の病院がある感じだ。


 広いワンフロアには大抵の治療ができる設備が備わっているので、ここへは訳ありの患者を極親しい人の頼みで診たり、一般病院で手に追えない者が運び込まれる『医療の砦』としての役割を担う場所となっている。


 ここには9つの救急診療用の簡易ベッドが置かれており、落ち着いている今のエルネアで、その全てが一気に埋まることはない。


 でも、いざというときベッドの数に余裕があったほうが使いやすい、という理由で国が落ち着く前の個数を維持しており、診療以外ここで寝泊まりする弟子兼看護師の宿泊施設として頻繁に使われている。後者での使用では連日、大半が埋まるので今も必要な設備だ。


 新月丸がババアと呼んだ、医師のフルネームを知る者はエルネア帝国皇帝を含めていない。噂によれば、イニシャルにすると「M・M・M」でそこそこ、長い名前らしい。


「成人男性患者は先に伝えた通りの状態で。ミュラー先生に聞きながら治療を少し進めてあります。でも少女のほうは手付かずで、医師ではない者が応急処置をしただけ。陰部に激しい裂傷と深い火傷、そこからの出血が多くあり、更には膿んでいると聞いています」


 リンジーは横たわっている患者の極簡単な説明を師に伝える。


 報告を聞きながらミュラーは寝かせた2人を見比べ


「女から先に治療する必要があるね……こっちのほうが命の危険がとても高い」


 と素早く判断し、周りにいる者へ聞こえるように言った。


 男は少しではあるがケケイシがした回復措置とリンジーによる治療が先にされており、女の容体より安定している。近くに控えていた弟子の1人に当面の処置を指示し、それを受けた弟子は手慣れたようすで、テキパキと動いた。


 女……少女はケケイシに出会う前から傷を負い、それを隠し続けている。ハーララ脱出前に治療が受けられるはずもなく、最近されたと思われる応急処置も出血を少し弱められる程度。治す効果は全くないので、急ぎの治療を要する危険な状態にあった。


 今夜、ここに泊まっていた弟子が治療補佐として数名呼ばれ、リンジーもそこに加わる。


「後は私に任せ、お前は国に帰れ」


 新月丸にそう言うと、ミュラーは昏睡している少女の衣服を全て取り去るよう、女の弟子に命じ治療に使う道具の用意を始めた。


 ケケイシは……というと、途中からあらわれた獣人診療に明るい、同じ獣人族の医師に連れられ、すでに別室へ移動している。獣人族の医師はまだ、とても少なく師となれる者もミュラーしかいない。だから獣人の治療はもっぱら、エルネア帝国の病院に頼っている。


「ありがとう。俺にできることがあれば、いつでも声をかけてくれ」


 ミュラーは視界の端で新月丸を見送り、さっそく治療に取りかかった——


 怪我人をここに任せてしまえば、基本的に新月丸ができることはない。新月丸の力が必要だったのは敵に知られないよう、ここへ運ぶことである。特殊な薬を作る際に必要な材料を届けることはあるが、それもつい最近に届けたばかりで在庫はまだ、ふんだんにあるだろう。


 ——自国に戻ると、街の下見から帰ってきたクレアとタロウ、そして嫌雪けんせつが執務室で茶を飲んでいた。戻ってきた新月丸にも茶を勧めてくれたので、ありがたくもらうことにする。


 クレアとタロウは「おつかれさまです」と短く挨拶をし、新月丸の茶が用意されてから、話をしたいらしい。


 茶を淹れながら嫌雪は「容体はどうでしたか?」と運ばれていった怪我人の容体を新月丸に聞く。


「ケケイシが連れてきた少女のほうが命の危険が高いそうだ。男は現地でケケイシが可能な限りの治療をしているし、戻ってきてもリンジーが診ていたから命の危険はないと言っていたぞ」


 それを伝えた後に


「ケケイシもああ見えて、相当な怪我を負っているからあっちで治療してもらっているが、命の危険というわけじゃないから、すぐに戻ってくるはずだ」


 と言葉を加えた。そして——


「街への被害は一切、なかっただろ?」


 嫌雪から暖かいミックスフルーツティーをもらって一口飲み、クレアとタロウに新月丸から話を切り出す。


「……城も激しく攻撃され、街も大きな炎を放たれたとのことですが、炎が建物や人に触れた途端、消えてしまって何も起きなかったと皆、口を揃えてそのように言うのです」


 話を聞きながら、紅茶をおいしそうにすする王を見てクレアは質問をした。


「王は国に何をしていったのですか?」


 ティールから力の強さと種類を少し、聞いたものの数値も属性も、あまりに異質過ぎ、話をすんなり飲み込めない。王を心から信じたいがゆえに、帰ってきたら直接、問うと決めていた。


 聞いた限りでは、強いとかそういう簡単なものではなく『魔王』とか、それこそ『神』と呼ばれるものに近い力だ。自国の王が強いのは素晴らしいけど、想像の枠を超えた強さは、少々の恐怖と警戒をもたらす。


 万が一、何かのきっかけで暴君となった時、それを誰も止められないからだ。


 目の前にいる王を信用していないわけじゃないけれど、クレアはこの世界の歴史を深く学んでいる。その中には強く頼り甲斐のある王や皇帝が急に、手のひらを返したように暴君へと変ずる事例が見られ、月光国が絶対にそうならないとは言えない。それを考えると、どうしても王から直接、話を聞きたくなったのだった。


「ティールから少し、聞いたんじゃないのか?」


 口調にはいつも通りの穏やかでのんびりした感じがある。


「はい、少しは聞きました……でも…………その………………」


 ずけずけと聞きたいが、ずけずけと聞きにくい。そんなクレアの気持ちをおもんぱかったのか、タロウがすぱっと聞いた。


「私は王に仕えられ、よかったと思います。けれど、上限不明という魔素値を聞き、使う力もまた通常ではありえないもの。万が一、王がご乱心なされたり国へ対する気持ちに変化があったとき、我々はどうすべきなのかを考えるためにも、もう少し詳しくお教えいただきたいのです」


 もらった紅茶を飲み干すと、新月丸は「そうかそうか」とやはり、のんびりした口調で返してきた。


「まぁ、そうだよなぁ……気になるだろうなぁ……」


 そう言うと話を続ける——


 その前にリックへ念話テレパシーで「今夜はちょっと遅くてもそっちへ行く」と伝えた。

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