第15話 - 時間通りの集合模様

「センセ早いじゃん、学校はどうしたんスか?」


 古びたアパートの一件をどうにか乗り越えた翌日。今回こそは寝坊をせず、指定の時間より早く訪れた本庁のロビーには、同じく集合時間よりも早く来ていた教師がいた。手持ち無沙汰なのか、壁へ掲げられた憲章の数々を眺めている横顔へ声をかけると、彼はすぐにその作業を中断した。


「おはよう。それが……今朝、校長から電話があってな。溜まった休暇を消費しろと言われた。期間からして、ちょっとした休職状態だな」


 眼鏡のブリッジを人差し指の腹で押し上げる仕草が、すこぶるインテリっぽい。彼もまた、昨日用意された数着のうちの一つである、新品のスーツを身に纏っていた。


「ふーん? 珍し、教師でもそんなのあるんだ」

「前例は無いと思うぞ。俺だって驚いてる」


 それにしても、経費で洗い替えまでスーツを一通り整えてくれるだなんて、就職先は随分と財布が厚い部署らしい。正式な名前すら教えられていないまま、先駆けて業務を体験させるといった流れは、やはり非常識だと思うが。


 春眠暁を覚えずといった有様で、大口を開けて欠伸をすると、やれやれといった風に、黒と赤のパッケージ包装がなされた強いミント味のタブレットを数粒分けられた。一気に噛み砕くと、鼻の奥まで辛さが染みる。眠気は醒めたが、生理的な涙で視界が滲んだ。


「かっらい……」

「そういうモンだ」


 舌を清涼感に馴染ませていると、定刻の五分前に東堂が廊下からやって来た。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、とは女人の風体を褒め称えるための代名詞だが、この人に限っては男性でも当てはまるように感じる。通りがけに受付へと投げた会釈だけで、カウンターの向こう側に座っているうら若い女性の方々が、にわかに頬を紅潮させた。音のない歓声を引き起こした当人はと言うと、そちらへは一切余計な気は回さず、真っ直ぐにこちらへと進んで来ているのだから、その様子を眺めている側は胃にもたれる。もしも、この状況に置かれた彼へ黄色い声を上げるアルバイトがあったとしても、自分はノルマを果たせそうにない。


「お早うございます。今日も上に用があるので、こちらへ」


 にこやかに日常として処理した美形は、エレベーターがある奥へとすたすた歩き始めたので、二人揃って着いていった。


「昨日は疲れたでしょう」


 奇抜なシステムの自動ドアを再び抜けて乗り込んだ銀の箱、入ってすぐ左手のボタンを押し終わった彼が、緩く微笑む。


「もー、ふくらはぎがパンパンっスよぅ」


 気圧の差が、段階を踏んで鼓膜を圧迫していく。生唾を飲み込んで、気休めの耳抜きをした。浮遊感はどうってこともないが、この幕が張って破れんばかりの感覚はどの箱でも好きになれそうにない。


「そうだよねえ。大体の成り行きは狐塚さんから聞いたんだけど……変わったこととか、気付いたことはあったかな」

「変わったこと?」


 相方はしばし考えてから、横へ首を振った。己もそれに倣おうとして、ふと、赤い少年が脳裏に過る。


『あの、どうかしたんですか?』


「そういや、髪の赤い中学生がいて。何事ですか? みたいな感じで話しかけられたっけ」


 寄り道をしたのだと語っていた、身なりの良い中学生。すぐ近くに夏祭りが迫っていた街並みの中で、夕焼け色の短髪が揺れていた。


「へえ、赤か。どんな子?」

「うーん、大人びてるっつーか……器用、って感じの……よく分かんないかも」


 いざ説明しようとしても、聞き取れなかった名前を始めとした、彼の身の上を言い表す項目は空欄ばかりだ。埋まっている情報は、有名私立の中学校へ通っているらしいこと、母親と仲がいいらしいこと、両耳にピアスを飾っていたこと、それくらい。会話も、大体はこちらが答える形で、何かをカミングアウトされた訳でもなく。本当にただの雑談だったはずで――


『それでは、また』


「……あと、また、って言ってた気がする。別れ際にさ」


 ほんの些細な引っ掛かり。さよならの代わりに置いていった挨拶だったかもしれない一言が、妙に耳へ残っている。


「お前それ……応じたらアウトな霊とかじゃないだろうな」

「こえーこと言うなよ! 足あったし!」

「足のある幽霊もいるよ」

「ウッソ、東堂サンまで加勢する?」


 想定外の援護につい変顔を作ってしまった。罠だ。とびきり顔が優秀な相手へ間抜け面を晒すという、巧妙なトラップ。


「ふふっ、ホントホント。座敷童子だって、足はあるでしょう」

「実物は知らねっスけど……アレ、幽霊なんだ」

「兼、妖怪かなあ」


 軽い笑いと豆知識で流す対人スキルを見せつけられた瞬間に、足場の上昇が止まった。左右の外側に向かって頂点の一つが配置されている、横並びの三角形二つをあしらった「開く」ボタンを押し込んでいる彼のエスコートに従って、新人二人が先に降りた。追って、エレベーターボーイもどきをしていた彼も並ぶが、容れ物だった運搬器具は、いつまでも階下へ落ちる気配がない。


「まだ英のお二人は来ていないから、少し待つけど」


 不慣れな二人をサポートするため、列の先頭を買って出た東堂に廊下の道順を案内された新顔たちは、部屋の中へと従順に足を踏み入れた。

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