第2話 - 黒服の美青年

 見事に寝坊した。

 政府から通達があった健康診断とやらの開始時刻を、三十分以上過ぎてからの目覚め、二日酔い付き。昨夜、日を跨いでも煽り続けた梅酒にビールにウイスキーにカクテルに、挙げ始めたらキリがないアルコールのちゃんぽんで、胃の中は混乱を極めている。いつも無駄に胃腸を酷使している自分を馬鹿にしているのか、どことなく冷ややかな顔をしている気がする「何か」を睨む。畜生、姿もないくせして言いたい放題な目をしやがって。しかしながら、正直、その気持ちは理解して余りある。これは、鮮やかなまでのフラグ回収という奴である。

 意図的にボイコットしたわけでもないのに、カツアゲよろしく警察に乗り込んで来られたらそれこそたまったものではないので、慌てて書類の端に載っていた番号へ電話をかける。二回目のコールが終わる前に受話器を取ったのは穏やかそうな声の持ち主で、こっそりと安堵した。酒で焼けた喉がみっともないが、もうどうしようもない。いっそ、叶わない禁酒宣言でもするか。

「大丈夫ですので、お気をつけていらして下さい」

 遅参の段、御免なれ。伊達政宗の逸話よろしく死装束で馳せ参じる気概は毛頭ないものの、御用改めなどという最悪の事態は回避できたらしい。外に出ても通報されない程度に身なりを整えて、履き心地が気に入っている運動靴の紐を結んで駆け出して、鍵を締め忘れたことに思い当って玄関まで遡った。どうにも、今日は調子が悪い。

 這う這うの体で指定された建造物、武蔵国本庁のロビーへと到着すると、受付で封筒の提示を促された。流石に必携の持ち物はポケットにねじ込んできていたので、少し余計な折り目の付いたそれを渡す。タッチパネルをいくつか操作したかと思えば、通路の先へ進むように指示される。まだ二日酔いから覚める気配がない身体にとっては、走った後の酸素不足が大変苦しい。言われた通りの場所に向かってのろのろと歩いていると、行き止まりだと思っていた廊下の先が、中央から切れ目が入ったかのように左右へスライドして、誰か一人を吐き出してから、すぐに閉じられた。中から出てきた人物は、こちらへ直進してきている。遠くからでも見てとれる、三つ揃いの黒スーツに同色のネクタイを几帳面に結んだ、モデルかと見紛うプロポーションの美青年。ちょっとないくらいどころか、一日署長などの催しで招かれた芸能人ではないのかというほどに整った造形は、近くに来てみるとほとんど自分と同じ身長だったのだから、オーラや雰囲気というものは大事だなと場違いに思った。腰の高さも全然違う。

 ただ、その衣装は喪服のようでもあった。

「お待たせ致しました。担当の東堂です」

 上品に微笑んだ姿は絵画もかくや。やや薄い唇から溢れた言の葉は、電話越しに聞いたそれと正しく一致する。世の中には顔面格差が往々にして生じ、時に理不尽を招くことすらあるが、この顔になら叩きのめされても納得せざるを得ない。

「へ、ぇ……」

「上の階にて検査を行いますので、このまま進んで頂いて――」

 まじまじと近距離で見ても、結婚式に呼べば花嫁が一目惚れする勢いだなという印象に変化はなく。襟に飾られた金の小さなピンバッチが黒地によく映えている。

「あの……もし? ご気分が優れませんか」

 憂いを重ねた瞼がまた色ひとしお。傾国という言葉が脳裏に浮かんで、今は美術鑑賞に来たのではないと正気に戻る。

「あ、いや、アンタ、随分と綺麗な顔してんなァって」

 つい、素直な感想が、口から飛び出してしまった。初対面の相手な上、こちらがしょうもない理由で遅刻をして、わざわざ迎えに来させたお役人に、なんて言い草だろう。慌てて取り繕おうとしたが、彼はほんのり照れて恥じらってみせつつも、その土台には慣れたあしらい方が身についていたから、こうして失言したのはどうも自分だけではないらしい。

「恐れ入ります」

 一言だけで凪いで躱して、ごく小さな首の傾きと、上向いた掌が地面と水平に横切った彼のジェスチャーを合図に、お互いに止まっていた足を進ませる。向かう先は彼がやってきた鉛の壁で、すらりと筆を引いた青年の鼻筋が銀へぶつかる前に、やはり扉は現れた。開かれた切れ目は、二人を己が内部へ抱き込んだ後、再び壁の仕事へ従事している。

 数歩先には、日常でもよく見かける、一般的なエレベーターがある。四角の上にずらり並んだ階数表示は、この建物が縦に大層長いのだと教えてくれた。その麓に立ち、重い箱が降りてくるまで待っている案内人をそのままに、音を殺して後ずさってみる。閉じたばかりの扉へ手の甲で触れてみても、ひやりとした金属の冷たさがあるだけ。勝手に開きもしないから、自動ドアではないのだろう。けれど、先程指紋や網膜の認証をする素振りはなかったはず――

 視線を感じて盗み見れば、造り物めいて整った男が、こちらを向いて待っている。急かさない、あくまで柔和な笑みにぞっとしたのは、なぜだろう。愛想笑いを浮かべると、改めて微笑まれる。危険人物でありはしないかと、遅れた本能が顔を出した。

 今更危機感を持ったところで対処はできず、借りてきた猫のように連行された最上階。ボタンの明滅を合図にして開けた視界は、オフィスの廊下然としていた。病院とはまた違った雰囲気の光景に、招かれた目的を見失いそうになったが、視界の端に入り込んだ白衣の男性で信用を取り戻す。東堂が軽く手招きすれば、短い白髪と、向かって右の頬に貼り付けられた長方形寄りの白いガーゼが特徴的な、骨太な体躯の医師らしき男性が無抵抗にやってきた。闊歩と形容するにはやや規則的な足音が、鈍くフロアに響く。

「彼は柊、見たままの人物です」

「……お医者サマってことスか。どうも」

 東堂と違い、この柊という男は少々無愛想のきらいがあるのか、にこりともしない会釈での返答だ。なんとなく、真面目の塊な気配がする。

「よろしくね」

「ああ」

 同僚に向ける朗らかなトーンを置き手紙に、付添の美青年は奥へと消え、目の前には無口な医師が残った。医師と言うより、軍人の方がしっくりくるなと邪推しながら、次の順路として指定された部屋へと進み行った。

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