本章

第1話 - 薄青の招待状

 春うららかに鳥が囀り、抜けるような青空の下で下校途中の新小学一年生が追いかけっこをしたり白線踏みをしたりと賑やかな騒音に、掛け布団を手繰り寄せて耳を塞ぐ。しかし、凄まじく盛り上がっているらしい子どもたちは近隣住民の迷惑を全く顧みずにきゃいきゃいわあわあとヒートアップする一方で、たかが綿では音を遮ることもできず、二日酔いの鼓膜と脳髄へ、幼い時分特有の甲高い奇声が無数に刺さる。


「……うっるせー……」


 まるで、惰眠を貪っていることすら咎められているようで、腹が立つ。至って健康的な生活を謳歌するのは実に結構なことであるが、他人を侵害するというのはいただけない。青少年保護法がどうした、二日酔い保護法も整備しろ。安アパートの防音設備に期待はハナからしていないが、こうも脳を揺らされては心がかさつくどころか、文字通り出血大サービスである。いくら湿気の高い国だとはいえ、肉体の内側の湿度までは統一されていない。特に、昨夜も度数の高い缶を水のように空け、片付けもせぬままに眠りこけた絶賛長期休暇中で独り身の大学四年生などは猶更に廃れている。そう、まさにオレのようなケースだ。


 上下グレーのスウェットが四肢にもたついて、ようやく布団の海から抜け出したというのに歩みは亀。ペットボトル詰めのミネラルウォーターの封を切って、十秒とせずに飲み干した。大口を空けてあくびをしていると、部屋の隅と視線が合う。


 あらかじめ断っておくが、これは比喩表現ではないし、自分は精神に異常をきたしていない(はずの)人間だ。


 幼い頃から、空白、空気しかないはずの部分に「いる」と感じることは少なくなかった。その姿は鮮明には見えないし、ましてや会話など意思疎通は不可能、いや、そもそも会話をしようなどというメルヘンな考えは抱けなかった。それらが「いる」場所が僅かに歪むだけで、顔形がはっきりとは見えない何かに興じるよりも、明確な敵として認識し、相手もこちらを忌み嫌っているような、一つ屋根の下で半分だけ血が繋がった女の挙動に注意する必要があったからだ。オレが物心つく前に離婚したという、顔も知らない父親にどんどんと似てきた存在を、さも害虫のように見下ろす視線がまさに獣のようだったと、生きているうちに鏡を掲げてやればよかった。背丈が伸び、人間もどきと化した母親をさらに上から眺めるようになり、うんざり具合も佳境となった頃、早朝と夜間のアルバイトで稼いだ資金で一人暮らしを始めてから、独りになった女は死んだ。死因は、急性アルコール中毒だったらしい。借金まみれの遺産は、全て放棄した。


 世界のどこにももうアレはいないのか、という事実を飲み込むと、なるほどこれといった感慨深さもなく、自覚していた以上に心が離れていたのだと察する。まるで、最初から他人だったかのように。生活も落ち着くと、ようやく不可思議な現象にも目を向ける元気が出てきて、今部屋で見つめあっている謎の存在ですら、外を駆けずり回る幼子よりも、よっぽど好感がもてる。五月蠅くないし、飯も不要なペットもどき。そう捉えれば、なんともいい観葉植物変わりだ。まあ、そうは言っても観えないのだが。


 ご自慢の長い脚で洗濯物を掻き分けながらポストを探ると、お決まりの宅配クーポン、風俗店のチラシ、学校で登録させられた就職支援サービスのゴシックと、どれも代り映えのない不要物ばかり。一番上に重ねられた、青ででかでかと書かれているゴシック体の文字列とロゴマークを鼻で笑い、ビニール袋で受け皿を作ってあるゴミ箱へと突っ込むため、それらをまとめて半分に折ろうと試みた。すると、厚紙の合間に薄青の細い封筒が挟まっていることに気付く。ちらりと覗く、重要、と印字された赤を見てしまっては、そのまま燃やすのも目覚めが悪い。仕方なしに引き抜いて、縁を手で破く。ペーパーナイフなんて洒落たものはないし、数歩の距離にある鋏を取りに行くのは面倒だった。


「健康診断……」


 明朝体で書かれた硬い文章から察するに、この書類は国のお触れで、二十歳を過ぎた人物へランダムに送られているらしく、かつ、半ば強制の招集らしい。各年代における平均的な身体のデータを集計するためだとか。傾けると見える菊の文様がいかにも権力、といった風で、読んでいるだけでつまらない気分になってきた。ようやく外も静かになったというに。なお、正当な理由なくボイコットした場合は自宅か職場に突撃されるそうだ。


「……脅しでは?」


 呆れた笑いが漏れるが、平穏な営みを無駄に波立たせるのもあまり賢くないように感じて、結局は記載の日付をカレンダーへ雑にメモした。武蔵国本庁、午後一時、健康診断。来週の予定を滑り込ませるとは、中々に強気なお手紙である。しかも、曜日を見ればなんと平日だ。忙しい身空では休み一つ取るのもひと苦労だろうと他人事に思いながら、やかんへ水を入れてコンロにかけ、インスタントのカップラーメンにかかっている透明なフィルムを剥いだ。同じゴシック体でも、赤の太文字で「大盛」と書かれているのは印象が随分違う。潔さや、清々しさすらあるのではなかろうか。


 広く普及したSNSのアプリに、デフォルトで設定されている通知のメロディーが耳に届く。割り箸を漁りながら確認すると、中学の部活仲間からのメッセージで、呑みへの誘いだ。上機嫌で了承の返事をすると、向こうからも時を待たずに返ってきた。とんとん拍子に決まった夜半の用事を楽しみに、鼻歌などをたしなんでみる。


 三分経った麺を啜りながら初めて日付を確認すると、飲み会の日取りは、つい数分前にカレンダーへ書き足した健康診断の前日だった。念のため、封筒の中に入っていた三つ折りの要項を確認してみると、前日や当日の飲食であったり、過ごし方についての注意は特段記載されていない。お題目の実施は午後からで、ゆっくり眠った今日と同じくらいの時刻に起きられれば余裕で間に合う召集でもあったため、旧友と合う予定は続投する次第とした。

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