2. 斜陽の世界、深い眠り

 目の前には、白くうっすらと光るボタンが縦にずらりと並んでいる。ボタンを押すまでもなく、母さんの病室がある十二階のボタンが緑色に光る。


 ――あのとき俺は、アルコールのにおいがする病院のエレベーターに乗っていた。


 俺のとなりには父さんがいた。白いシャツに灰色のスーツ、胸元には省庁の職員であることを示すバッジ。角ばった顎と神経質そうな目つきをしている。


「また、潜ってばかりなのか?」


 そう言う父さんに俺はうなずいて、


「うん。まあね」

「そうか。ほどほどにしておけよ。でないと……」

「ああ、わかってる。けどさ、俺、それなりに勝ってるよ」


 それはあまりにも控えめな言いかただ。俺はヘヴン・クラウド内のデュエル決闘リーグで優勝したばかりだった。


「そうか、よかったな」


 と、父さんは興味がなさそうに言った。『近所のレストランの割引クーポンをもらったんだ』と言っても、同じ反応が返ってきただろう。父さんにとって、その程度のことだった。


 エレベーターは間延びした音をたてて止まった。十二階についた。ドアの先には、白いリノリウムの床が続く通路に、部屋の入り口が並んでいた。白いボディの医療ロボットが動きまわっていた。



 手狭ではあるが、きれいな個室に母さんは寝ていた。その病室には、ベッドではなく、ヘヴン・クラウドへのダイブに使う、白いダイビング・カプセルが置かれていた。家庭用のものよりも大きく、カプセルの外面の表示も複雑だった。横のディスプレイには、穏やかな表情で眠る、母さんの顔が映し出されていた。


 父さんはカプセルに近づき、表面の表示を見てから、「問題なさそうだな」とつぶやいた。俺は尋ねた。


「なんとか、なりそうなの? 研究は……」


 父さんは表情を曇らせて、「まだまだだな」と答えた。


 母さんがいわゆる『ディープ・ダイブ』になって眠りはじめてから、四年が経つ。父さんはいまだに、解決のための研究を続けているが、とにかく時間がかかっている。


 その四年のあいだに、いろいろなことがあった。そうだ、あまりに重たい四年間だった。



 病院を出てから、俺はタクシー乗り場に向かった。夕刻が近づいていた。父さんと家は別々だ。そのとき父さんは、


「なあ、お墓に行っとくか? ミオの……」

「いや、俺はいいよ」


 そう答えてから、俺は停まっている、青いタクシーに近づいていった。


 俺は心の中で『お墓に行っとくか?』という言葉を反芻した。冗談じゃない。なぜ、ミオの墓に行かなければならない? 墓とは死者のためのものだ。


 ……二年前。


 二年前の冬のあの日、ミオはゴーストアバターになった。この安全だらけの現実世界で、なぜあんなことが。


 狂ったやつに、車で轢かれて。あいつに……。十万回は、あいつの不幸を願った。それが百万回でも、まったくたりない。ディープ・ダイブになりかけのクソ野郎。なにをヤケになったか、自動運転をわざわざオフにした車で暴走して……。クソ野郎が。一千万回死ねばいい。


 あの葬式の日に見送ったのは、ミオの抜け殻かそんなもののような気がする。ミオは……。ヘヴン・クラウドの中に生まれ変わった。『ゴーストアバター』という響きは好きじゃない。ミオは幽霊なんかじゃないからだ。


 そうだ、以前となんら変わりなく、逢って、雑談をして、散歩をして、食事をする。それでいいんだ。俺は当たり前のようにミオに逢える。


 ……ヘヴン・クラウドというもうひとつの現実で。

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