3.懐かしき風景と二度目の遭遇

 彰人は廊下へと出た。

 そしてぐるりと周囲を見回す。

「さて、忍び込んだはいいが、どうしたものかな……」

 やはりというか、当然というか、どこに目を向けても人の姿は無い。耳を澄ましても何の音も聞こえてこない。校舎の中は不気味なほどにしんと静まり返っている。

 彰人はボリボリと頭を掻いた。

「何を期待してんだ、俺は。そんなこと、ある訳ないのに……」

 忍び込んだとたんに誰かに出くわすなどある筈がない。ましてや、それが深谷美月である筈など、あり得ない。分かっている。分かっていたことだ。

 頭の中の熱が急速に冷えていく。騒々しく湧きかえっていた思考が冷静さを取りもどしクリアになっていく。それはまるで頭の中から空気が抜けていくような感覚だった。

 ――改めて思う。

 さっきのはおそらく見間違いだったのだろう。こんな時間に、しかもこんな場所に、深谷美月がいる訳がない。さっきのはおそらく、今の子供達が、かつての自分達と同じように夜の学校に忍び込んで遊んでいたのだろう。いつの時代にも悪ガキはいるものだ。そしてどんなに時代が変わろうとも、悪ガキのすることに大差はない。背格好が似ているため、深谷美月に見間違えてしまった。たぶんきっと、そんなところだ。そうに違いない。

 彰人は自分に言い聞かせるように、心の中でそんな言葉を巡らせた。


 衝動も欲求も治まった。冷静に物事を判断できる程度に思考回路も落ち着いたし、先程の人影が何だったのかもおおよそ見当がついた。もう、これ以上ここに用は無い。誰かに見付かって問題になる前にとっととここから立ち去った方が良いだろう。頭の半分がそんな当たり前の結論を主張する。

 しかしもう半分がそれに異を唱えた。つい魔がさしたといってもいいだろう。

 せっかく忍び込んだのだ、このまますんなり出ていくのは何だかもったいない気がした。少しくらいなら見て回ってもいいんじゃないだろうか、様子くらい見てもいいんじゃないだろうか、そんな思いが湧き起った。大丈夫、長居する気はない。適当に見て回って頃合いを見計らって出て行く、短い時間だ、誰かに見付かることはないだろう、そう思った。

 彰人はふむと考え、よしと決めた。

 そして彰人は校舎の奥へと向けて足を進めた。


 忍び込んでいる子供に遭遇する可能性はある。その時は適当に注意を促して退散すればいい。出くわさなければそれはそれでよしだ。

 気を付けなければならないのは、自分がセキュリティに引っ掛からないようにしなければならないということだ。この歳にもなって夜の学校に忍び込んで逮捕など洒落にならない。警備員が駆け付ける前には逃げ果せることはできるだろうが、どこで足が着くかは分からない。注意するに越したことはないだろう。

 彰人はそんなことを考えつつ廊下を進み続けた。


 踵が床を打つゴツゴツという足音が周囲に響く。リノリウムの床はとても冷たくて硬い。素足に靴下だからこそそれが如実に伝わってくる。廊下の中央に描かれた白線はまっすぐに行く手に広がる暗闇の中へと伸びている。片側の壁には大きな窓がずらりと並び、生い茂った植木とネットフェンスと明かりが点った住宅が見てとれる。反対側の壁には、各教室の出入口の扉と掲示板とコンクリートの柱が代わる代わる並んでいる。掲示板には生徒が描いたものであろう絵や、クラスの活動内容が行事予定などが書かれたプリントが貼られている。折り紙で作られた花やロケットなんかも貼られている。

 そんな風景を目の当たりにして、彰人の口元に笑みがこぼれた。

 細かな違いこそあれ、全体的な雰囲気は自分が通っていた時と同じように思えた。なんだかとても懐かしくて、言葉にできない思いが胸に込み上げてくる。少しだけ胸が締め付けられた。


 大人になった今、改めて学校の廊下を見ると、こんなにも狭かったのかと驚かされる。子供の頃はもっと広く感じたのに、今はもう窮屈にさえ感じるほどだ。先生たちが口を酸っぱくして廊下は走るなと言っていた意味が今更の如くよく分かる。ここを走り回るのは確かに危険だ。

 子供の頃はこの上ない遊び場だった筈なのに、今は冷たさと事務的な印象が先にくる。それだけ自分が大人になってしまったということなのだろう。

 固い階段、鉄製の手摺、折れ曲がった廊下、突き当りにある手洗い場。そこにある何かを見る度に、忘れていた記憶が次々によみがえってくる。目に映るもの、脳裏に浮かんでくるもの、何もかもが懐かしく思えた。

 戻れない過去に切なささえ覚えた。


 彰人は周囲を見回しつつ、廊下を進み続けた。


 その時だった。近くで上履きのゴム底が床を滑るキュッという甲高い音が響き渡った。

「!?」

 彰人はとっさに音がした方へと目を向けた。

 廊下の曲がり角の向こう、今まさに、その向こう側へと走り去ろうとしている人影があった。

 先ほどよりも近い距離。暗闇にも目が慣れて、先ほどよりもはっきりとその姿が見て取れた。

 その横顔、その外見、その雰囲気、どれをとってもそれはやはり深谷美月だった。そう見えた。そうとしか思えなかった。

 とっさに彰人は叫んだ。

「待てっ!」

 しかし美月らしき人影が彰人の制止など聞く筈もなく、人影はそのまま走り去っていった。上履きが床を打つタッタッタッという足音が遠のいていく。

 なぜだろう、頭の中ではそんなこと有り得ないと分かっているのに、胸の奥底から逃がしてはいけない、見失ってはいけない、捕まえなければ、そんな思いが込み上げてきた。

 焦りにも似た衝動に駆り立てられ、一瞬にして頭の中が感情に支配されて、気が付いた時にはもう逃げていく人影を追って走り出していた。

 心も体も、止めることはできなかった。

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