01

 



 話をしよう。ジルという、まだ幼気な少年の話を。


 ジルは生まれて間もなく、前世というものを思い出した、所謂転生トリッパーだ。記憶の中で、彼自身は引きこもりのゲーマーとして根暗を極めて生活していた。


 母は優しい会社員。父は甘党を極めた医学部の教授で、ふたりはジルのことを大層可愛がって暮らしていて、最期のその時には大声を荒らげて泣いていたのを覚えている。


 そう、最期。最期だ。

 ジルには過去、己の最期──つまり、死んだ時の記憶が存在している。雨の降る日に、突如突っ込んできた大型のトラックに轢かれるという、いわばテンプレートとも言える死に様の記憶だ。

 全身を支配する痛みの中、目を閉じたジル。「死なないでッ!」の声を耳に意識を飛ばした彼が次に目を覚ました時、彼は美しい女の腕の中で大きな翡翠の瞳をぱちくりと瞬いていた。


 それが、ジルの最期と最初の記憶。

 小さな命の、オワリとハジマリだった……。




 ◇◇◇




「──じゃあ、これで手続きは終わり。長い間お疲れ様でした」


 そう言いぺこりと頭を下げたのは、淡い紫色の髪色をもつ長身の女だった。頭に大きなヤギの角を生やしたその女は、丁寧な動作でジルに書類を渡すと、にこやかに手を振り彼を送り出す。

 ジルはそんな女に深く頭を下げると、書類を己のかるったリュックに仕舞い、とぼとぼと役場を後にした。そして、出入口で深くため息を吐き出す。


「また職、失っちまった……」


 これで何度目だろうと悩んでも、なってしまったことは仕方がない。ジルは頭をかいてから、項垂れるように下を向いた。


「ひでえもんだよな。フツー異世界転生っつったら主人公がオレつえームーブかますのが常識なんじゃねえの? なのに、俺と来たら能無し才能なしのドジばっかで……やめよ。自分で言ってて悲しくなってきたし」


 ぐすん、と鼻を啜って、帰路につく。


 ジルは誰よりも自分のことを理解していた。

 ドジでマヌケ、それに加えて才能のさの字もない底辺のクソガキ。獣族とヒトとの混ざりものが故に脚力には自信があるものの、それ以外はてんでダメで周りにかけるのは迷惑ばかり。


 もう少し、自分が他の異世界転生ものの主人公みたいになれたのなら、もっと違った今が歩けてたのかもしれない。


 ジルは深く息を吐き、トボトボと足を動かした。町の大通りをぬけて商店街に踏み込み、挨拶してくる元気の良いおじさんに愛想良く笑ったところで、彼はふと足を止める。


 目の前、前方。丁度ジルのいる位置から3メートル程離れた場所に、人集りが出来ていた。なにやら揉めているのか、知った声が怒鳴っている。


「ありゃぁ果物屋の婆さんか? また厄介な客でも引き受けたのかねぇ」


 のんびりと挨拶していたおじさんが言うのに苦笑を浮かべ、ジルは足早に人集りの方へ。集う人混みをかき分け、円の中心へと向かっていく。


「ごめん。どいて。ちょっと通して。ごめん、ごめんねー……っと」


 人混みを掻き分けていたジルは、丁度円の中心となる場所に顔を覗かせた瞬間、まるで呼吸を忘れたように目の前の光景──その小柄な少女に注目した。


 身長はジルより少し低めの百五十五センチほど。肩の上で切り揃えられた淡く、柔らかそうな桃色の髪は、手入れが行き届いているのか艷があって美しい。

 若干眠そうな瞳も髪と同じく桃色で、微かにイラついているように見えるのは、ジルの目が悪くなっていなければ確かな事実であることは間違いない。


 エプロン姿のオババに怒鳴られる少女は、どうでも良さそうな顔で、大人しくその場に佇んでいた。言い返すことも、また叱りを受け入れることも無く、ただぼうっと立ち続ける少女に、オババの怒りはヒートアップしていく。


 これはいつしか手が出るぞ。


 察する周囲に同調したジルは、急ぎ足で少女の方へ。驚く彼女の前に立ちはだかり、こちらを睨みつけてくるオババに内心頬を引き攣らせながら挨拶する。


「あんりゃ、ジル坊じゃないの」


 オババの怒りが、風船が萎むように消えていく。まるで我が子に出会った時のように朗らかな笑顔を見せるオババは、「どうしたんだい、ジル坊。仕事はいいのかい?」と優しい声色で問いかけた。ジルはそれに、古傷を抉られるような気持ちで苦く笑う。


「し、仕事は今日はもう休み! てか昼間っからそんな怒鳴ってどしたの。人集りもできてるしさぁ」


「あんりゃ、そうだったのかい? そりゃあ気づかなかったよ。すまんねぇ」


 謝るオババに、周囲が心の中でジルを賞賛。ジルはカラカラと笑いながら「とりあえず落ち着いてよ」と両手を上げてオババを見た。


「アタシは落ち着いとるよ、ジル坊」


「いや今は確かにそうだけども、さっきめちゃくちゃ怒鳴ってたからさ……つか、何があったわけ?」


「そんれが聞いてけろ。その小娘、金も払わずウチの商品持ってこうとしたのよ。盗人だよ盗人。あたしゃ悪は嫌いなもんでね。正義の心を持ってしてその娘に注意してたのさ」


「まじ? 注意の形相とは思えなかったけど……」


 ジルはそこで、懐に手を突っ込み、銭が入った小袋を取り出しそれをオババに差し出した。オババは目を瞬き、他の者も不思議そうにジルの様子を見つめている。


「これで勘弁してやってくんね? 足りないならまた払いに来るからさ!」


「けんどもジル坊、アンタその金は……」


「母ちゃんもこういう風に使ったって知ったら許してくれる!」


「……」


 オババは困ったように笑い、断るように小袋をジルの方に押しやった。そして、「アンタがそこまで言うなら許すよ」と、優しい笑顔を浮かべてみせる。


「だからその金は仕舞いんさい。それはアンタの母親のために使うべきもんだからね」


「でも……」


「いいから。はよ仕舞う」


 言われて、ジルは慌てたように小袋を懐に仕舞った。オババはそれを見届け微笑むと、次にジルの後ろでジッと彼を見つめている少女を見て顔をしかめる。


「命拾いしたね。ジル坊に感謝すんだよ」


 吐き捨て、オババはそっぽを向いた。これに、ジルのことをジッと見つめていた少女が、口を開く。


「お前に言われなくとも分かっているのよ」


「年上に向かってなんつー口の聞き方を……! ジル坊がいなかったら引っぱたいてやったのに……!」


「フン」


 鼻を鳴らした少女は、そこでジルに目を向けた。

 丁度小袋を直し終わったジルは、そんな少女の視線を受け、ギクリと肩を跳ねさせる。


「な、なに……?」


「……いや……」


「なんでもないのよ」、と少女は言った。それから小さく、とても小さくこう告げる。「ありがとう」、と。


 ジルは目を瞬き、これに笑みを零した。「別にいいって!」なんて言って手を振る彼は、どこまでも明るく笑っている。


「ジルー! 人助けはいいけどもはよ帰らんと母ちゃん心配するんじゃねーべかー!?」


 最初に挨拶していたおじさんが言い、ジルはそれに慌てて頷き駆け出した。最後に少女に向かって「もう変なことすんなよ!」と釘をさした彼を、少女は黙って見つめ続ける。


「いーい子だろう?」


 無言の少女に、オババは告げた。


「根がとっても優しくてね。すぐに困ってるヒトを助けるのさ。アタシも何回もあの子に助けられててね。でも、本人はそれに気づいてない。とても不思議な子さね」


「……名前は?」


「ジル。ジル・デラニアス」


 零された名。


「……ジル」


 無表情だった彼女が、その瞳を見開きながら、小さく笑った。まるでこの時を待っていたかのような彼女の様子に、オババは怪しいものでも見るような目つきで彼女を見下ろす。


「アンタ……」


 何かを言いかけたその前に、緑色の制服をまとう小柄な獣族が「号外!」を告げた。それに目をやる町人の中、少女は軽やかな足取りで町のハズレを目指し、歩く。


「──待ってたよ、ジル」


 笑ったのは、誰なのか……。

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