エピソード0

 まるでロンドンにいるかのような朝霧(あさぎり)の中。

 深い深い霧(きり)は二十センチと離れていない掌(てのひら)も見させない。あまりにも濃い。それなのに体は、服は、水気を感じることはなかった。

「幻、ということなのかしらね……」

 松原志枝は頭(かぶり)を振った。得体の知れない相手だが、あの男のような危険な人物ではない。目的も何も分からないが信用はできる。信頼はできないけれど。

「邪魔な人間には気付かれたくないということね。よくやるわ、まったく」

 松原はこれから会う人物に幾許(いくばく)かの称賛を送った。

 半分は良い意味で、もう半分は悪い意味で。

 小さな、ベンチぐらいしかない公園へと呼び出しの手紙が来たのは昨日のことだ。

 どうやら相手はこちらの電話の番号も知らないようだ。それとも通信記録が残るような物を避けたのか。

 どちらにせよ、相手が極秘で会いたがっているのが分かった。もちろん、悪い意味で。

 彼女はすたすたと歩く。

 見えないのに、どこに何があるのかが分かる。不思議な感覚。目を瞑(つぶ)っていても気配を感じることができる達人たちはこんな気分を味わっているのだろうか。

 危なげなく、目的の人物がいる場所へと辿(たど)り着いた。この辺りだけ〝霧〟が酷く薄い。

 それでも十メートルと見えなかったが。

 松原はお互いの影だけが見える位置で止まった。別に警戒したわけではない。なんとなく、ここで止まった方が良いような気がしたのだ。

「こんな朝早くに会いたいなんて、逢(あ)い引きと勘違いされたらどうするつもりだったのかしら」

「そんな心配はありませんよ。ここに他の人は来られないようにしてありますから」

「まさか、あなたも〝参加者〟(アテンダンス)だったとわね。恐れ入るわ」

「俺は〝参加者〟じゃありません。ただの異能持ちです。後天的な、という意味では先生と同じですけれど。先天的にこういうのを持ってる人はほとんどいませんから」

 霧に浮かび上がったシルエットが片手を上げて空気を掻き回した。それだけで霧が晴れていく。

 相手の姿がはっきりと見えたところで霧は晴れるのを止めた。どうやらこれは相手の意思でどれぐらいの濃さにできるか決められるらしい。

「さっそくですけれども、本題に入らせてもらいます」

 自在に周囲の環境を操る力を持った相手。それは今、ベンチに座っている。物悲しそうな瞳(ひとみ)で全てを見ている。

 彼はうちの学校の生徒だった。それも今年から通うようになった一年生だ。

 『鋼の胃袋』を持つ男、赤峰(あかみね)その人だった。

「今日はお願いがあってこんなところまで来てもらいました」

「お願い?」

 これだけの力を持った相手が、自分に頼み事をするなど考えられなかった。

「はい。これから、ずいぶんと大変なことになりそうなので」

「一体何が起こるっていうの?」

「先生は、生徒が大切ですよね」

「まったく、何を言い出すのかと思えば……そんなこと?」

 松原は顔を顰(しか)めた。

 つまりは、自分の生徒に関することなのだ。

 これから大変なことになるというのは。

「ええ。大事なことです。夏休みの間、ある生徒に注意を払っていてほしいんです」

「もしかして、その生徒をどうにかしろって言うのかしら」

「その逆です。どうにかならないようにしてください」

 赤峰は、やはりどこか諦観(ていかん)したかのような目で語り掛けてくる。

「今回の事件に巻き込まれた人を、知っていますか? その人、また巻き込まれるみたいですから」

「どうして分かるのよ。また、巻き込まれるって」

「異能の能力(ちから)で一番多いのって、何だか分かりますか? 目なんですよ。物を見る、目に関する力が一番多いんです。先生だって、契約したおかげで色々と見えるようになりましたよね。自分の死神を操る力なんて、それに付随(ふずい)したおまけみたいなものです。多くの人が、勘違いを起こしてますけど」

 その関係で、未来への流れが見えるんです。

「未来、ねえ。それなら今回のも、知っていたってことになるけれど」

 その上で、目の前にいる少年は見捨てたのだ。何が起こるのか知っていて、分かっていて、何もせず座して見ていた。ただ一度、最後の後始末だけを人に任(まか)せて。

「見えるのは、映像じゃありません。〝流れ〟です。これからどうなっていくか、その大まかな道行き」

 剣呑(けんのん)な目で見つめる松原をひょうひょうとした体(てい)で言い躱(かわ)す赤峰。

 びくとも揺らがなかった。

 そのことに、松原は相手の歳が分からなくなった。自分よりずっと年上だといわれても信じられるし、逆に見た目よりずっと低い年齢だといわれても納得できる。自分と同い年だと言われても疑うことなく受け入れただろう。

 それだけ、逆に揺さ振られた。

 何なの、この子は……。

 言い知れぬ悪寒が体を駆け巡る。

 思わず身震いしてしまったほどだ。

「それに、俺にはあまり〝介入〟は許されていません。下手なことをするともっと大変なことになってしまいますし」

 物悲しい表情で彼は言葉を紡(つむ)ぎ続ける。

 まるで決められたことを口にしているだけのような印象があった。

「今回のことも、ほんとなら全く何もしないつもりでした。確実ではありませんでしたけど、大丈夫だと思っていましたから。……だから俺がやったことは、支流の一つを潰すということだけです」

 それさえも苦汁の決断だったというように渋(しぶ)い顔をしていた。

「支流を潰した?」

 何気なく出された言葉の一つ。その意味に松原は喰い付いた。

 赤峰はこくんと首を縦に振った。その仕草は歳相応、もしくは少し若く見えた。

「あのままにしておいたら、確実に復讐をしに来ていましたから。それも関係のない生徒を巻き込んで、学校に襲撃を掛けに」

 松原はその言葉に唸った。確かに、あの男なら平気でそんなことをするだろう。

 手負いの獣よりも、追い詰められた獣よりも、あの男は何をするか分からなかった。

「ああ、すこし逸れてしまいましたね。そもそも俺が、先生に頼もうと思ったのはこの能力(ちから)

が原因なんです。これから先、まず夏に、今回のことのように彼は巻き込まれます。他から流れてきた支流がまた重なります。今度の支流は、今回のように細く短い物ではなく、太く長い強い意思でできています。その場凌(しの)ぎでどうにかなる相手ではないんです」

 説得の言葉が、松原に降り掛かる。

 理を以て、また義を感じさせる内容で松原の心に染み込ませる。

 今度の言葉にはどこか必死さも、切実さも感じられた。

 それだけに、彼女は元々断る気もなかったこの話に更なる興味を抱いた。

 もっと関わったら、どうなるのだろうと。

 薄い笑みが口元に現れる。もう得体の知れない恐怖はなかった。

「いいわ。できるだけあの子たちを見ているようにするわ。でもあなたも協力してよね。一人ではどうしても限界があるんだから」

「まあ、できるだけ」

「あら、つれないわね。何かあるの?」

 深い意味もなく訊いたことだった。それがどれほど重いのかを知らずに突いて出た疑問だった。

 知っていたら、もっと慎重に訊き出していただろうと思う。

「先生は、こういった能力が一種類しかないとお思いですか?」

「…………」

「全国で広がった異常な事件事故の発生率。それが、たった一つの、〝死神〟に関する能力だけで行われた物だと考えているのですか?」

「…………」

「最近それが収束していったのは、あの男のような軽率な人間が〝狩られ〟たと考えることはできませんか?」

「…………」

「気を付けてください。秋には、大きな激流(げきりゅう)に飲み込まれてしまうかもしれません。そして先生は、もうその激流となる人物に会っています。そちらの方も注意していてください」

「その激流って、誰が原因なのよ」

「俺が〝介入〟したことで死にかけた人です。おかげで俺は先生と一緒にあの人まで助けなければなりませんでした。先生みたいにほぼ無傷という風にはしませんでしたけど。ある意味この物語の初めから関わっている人で、その人も〝参加者〟ですから」

「……あの、いけ好かないで有名な記者のこと?」

「それは俺の口からは何とも……。ただ、今は特に気にする必要はありません。本領は、さっきも言った通り秋ですから。それが一つの分岐点となります」

「そう。それであなたはどうするのかしら。まさかまた〝傍観〟でもするつもり?」

「ほとんど、それしかできませんから……。けっこう、力はあるんですけどね。決まりみたいなもので、下手に使うと掻き回す以上に酷いことになりますから。強いと、それだけリスクが大きいんです。先生も気を付けてください」

「肝に銘じておきましょう。でも、これぐらいなら構わないのかしら?」

「やりすぎなければ。例えば〝伝える〟こと以外に使ったら、これで人を助けたりしたら危険ですね。どうなるか分からない」

「不便ね。もしかして大食漢なのも、その力が原因なのかしら」

「どうでしょうね」

「まあいいわ。必要最低限、状況は分かったから。ただ一つ訊きたいのだけれど、いいかしら?」

「答えられることなら。どうぞ」

「あなたは〝誰〟? それとも〝何〟?」

「それは答えられないものですね。ただ……教えられることは一つ、あります」

「教えて」

「赤の紅なる者(カーマイン)、または紅玉の主(コーネリアン)と呼ばれています」

「赤瑪瑙(コーネリアン)? なんでまた、そんな……いえ、いいわ。そのうち分かるかもしれないわね。それまで待ちましょう。分からないなら分からないままでもいいし」

 首を振って話の終わりを意識した彼女に、ふと目に映ったものがあった。周りがよく見えないからこそ一層際立(いっそうきわだ)って見えた。

 一匹の白猫。

 こちらに気付かれたのを知って、すぐさまその身を翻(ひるがえ)して去って行った。

「え?」

 おかしかった。

 あの猫にはこの〝霧〟の影響が見られなかった。それどころか今までの話を立ち聞きしていたような気もする。

「別に、能力を持つのが人間とは限りませんよ? それどころか彼らのようなものの方が力を得やすいでしょうね。人より優れた感覚器官を持っているのですから」

「そう。そうなのね。つまり、ニュースに出るようなことなんて所詮(しょせん)は人間の炙(あぶ)れたことでしかないのね」

 松原志枝はもう一度目の前にいる生徒の顔を見た。

 今はもう、世を憂(うれ)えている一人の人間にしか見えなかった。

 そのまま何も言わず彼女は去る。今更何をいう必要もなかった。言うことも聞くことも全ては終わったのだ。再び会うのがいつになるかは分からないが、学校の生徒である限り学校で会える。

「終わった、のかな……」

 赤峰、と今は名乗っている少年は呟いた。

 右手を顔の位置まで挙げて素早く掻き回した。

 最初にやったのよりも早く霧が晴れていく。急速、というのがしっくりくる早さだ。

 目を凝らして次第に減っていく霧の濃度を確めて、一つ彼は頷いた。

 それから目を閉じて空を見上げる。

 瞼(まぶた)の裏に夜空が浮かんだ。

 次にぽつぽつと星の光が見えてくる。

 それは彼が見ている一つのものだった。

 空を満たすように現れる星たちは綺麗(きれい)に輝(かがや)き続ける。

 この瞼に浮かぶ夜空が星たちで満たされた時、空が満ちた時にここでの話は終わる。

 星は何を表すのか。それはまだ彼以外には分からない。

 目を開けて、顔をゆっくり元の位置に戻す。神聖さを伺(うかが)えさせる神秘がそこにあった。

 語られることのない話(エピソード0)は一旦ここで終わり、けれどもまた別な形で現れる。これに終わりはない。

 星が満ちるまで、空が満ちるまで繰り返される永遠にも近い試行。きっと、この話だけでは終わらない。

 パキ――ン

 指を鳴らし、その姿は消えた。

 常人には見ることのできない、氷の華――氷の花弁(かべん)を散らして彼は溶け消える。

 風もないのに空を舞う薄片(はくへん)たちもまた大気に委(ゆだ)ねられていった。

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№100 空が満ちる時 秋坂綾斗/ちんちん亭スナック庵 @AkisakaAyato

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