第三章   愚者の愚者たる所以2

 時間は少しだけ遡(さかのぼ)る。

 透と明里は残りの昼休みを中庭のベンチで過ごすことに決めた。

 屋上が開いていなかったためである。

 よくよく考えてみれば分かることではあったが、あの屋上の鍵を開けられるのは松原先生だけだったのである。今日は来ていない以上あそこに行くことはドアをピッキングするか壊したりしない限り不可能であった。

「残念だったね」

「あ、いえ屋上には、その、また行けますから。残念なんかじゃないです」

 透が言ったことに、必要以上とも言えるほど過剰な返事を返す。

 どうやらいつもより緊張しているようだった。

 何が引き金にそうなったのかは透に分かるわけもなく、当たり障りのないことを言ってやり過ごすしかなかった。

「本は、よく読んでたよね。どういったのを見てるの?」

 透は目に入った読書をしている生徒に感謝しつつ、自然と自分が丁寧な言葉遣いになってることにどうしたものかと思いを馳(は)せた。

 こういった場合、もっと軽い言葉の方が場を和らげるということを知っていたが、話術に精通しているわけでもないのに簡単にできるはずがなかった。

「あっ、この前ドン・キホーテを読みました」

 膝(ひざ)に乗せた両手をグッと握り、背筋をビッと伸ばして力強く言った。

 その拍子(ひょうし)にピョコピョコと今にも跳ね回りそうな髪の毛が目の前に見えて透は焦った。

 近い。シャンプーだかリンスだかの匂いが漂(ただよ)って鼻を良い感じに刺激(しげき)する。穏やかな陽の光に照らされて天使の輪と呼ばれる物まではっきりと目に映る。

 おどわなうおっ。

 それらの情報が一瞬の内に入って来たわけだから堪(たま)らない。ただでさえ緊張しているところに年頃の女の子がこんな間近に無防備に近付かれて意識しない輩(やから)はいない。しなかったらそれは絶対に相手のことを女と見てないか他に好きな人がいてそっちに完璧夢中な奴だけだ。

 透も実は後者のようなタイプだったのだが、今は色々とあって宙ぶらりんな状態となっている。いってみればこれはその隙を突いた好手にして巧手なのだが、本人が全く意識してないでやってるのでただの偶然の産物というものに過ぎない。

 それでも男心をくすぐると言うか揺さ振らせたのは間違いないが。

 ましてそれまで恋愛経験に乏(とぼ)しい上に彼氏彼女としての付き合いをしたことのない透には効果覿面(こうかてきめん)である。

「ど、どんな話だっけ? 風車に突撃する変な騎士だってのは知ってるけど」

「一生懸命なお爺さんのお話なんですよ」

「へえ~、そうなんだ。意外だな。でもコメディで一生懸命って?」

 透はドン・キホーテについては風車を魔物と勘違いした騎士の爺さんということしか知らなかった。

「コメディじゃないですよ」

 明里はそんな透に頬(ほお)を膨らませて反論した。その仕草がどこか可愛くて気が付かないうちに小さく笑ってしまう。

「からかってるんですか? 本当にコメディじゃないんですよ。みんな喜劇って思ってますけど、本当は悲しいお話なんですよ。悲劇なんですっ」

「いや、違うんだ。コメディじゃないドン・キホーテってどんなんだろうって思って、つい」

 珍しく必死に抗議する明里に気圧され、しどろもどろに弁解する。

 あまり見ることのない姿に透は泡を喰っていたがそれを表に出してしまうような真似はしない。出したらきっと明里はもっと怒るだろうから。

「それなら良いんですけど……。それじゃ、どんな話か言いますね」

 本当に今日はよく感情を露(あら)わにしていた。

 気のせいかとても楽しそうにしているように見えた。

 よく動くし表情も回るようにどんどん変わっていく。自分では気付いていないのかもしれないがいつものような弱気や言葉に詰まるといったこともない。

「元々、ドン・キホーテさんはただの平民だったんです。でも、騎士道に関する本を沢山読んでるうちに自分が遍歴(へんれき)の騎士だって思い込んじゃったんです」

 透には初耳だった。まさかドン・キホーテが騎士じゃなかったとは。ついでに言えば遍歴の騎士というのがどういうのか分からなかったがとりあえず問題ないだろうと思った。どちらにしろ騎士は騎士だ。

「それで生まれ育った農村を出て旅に出るんです。お供のサンチョさんを連れて」

 供って。いたんだ。

 透は素直にそう思った。たぶん、原作を読んだりしない限り大抵の人は風車の話しか知らないだろう。

 それから聞いたドン・キホーテの話に透はどこか自分と似通ったところがあると思った。

 最後まで自分が道化であったことに気付かず、道化に気付いた後もまた別な道化となったドン・キホーテ。

 滑稽(こっけい)で、悲しくて、それでも紳士であり続けた彼。

 きっと、愚(おろ)か者として生き始めたその時から彼は永遠に愚か者であり続け、たとえ正気に戻っても彼は愚か者としての最後を全うしたんだと透は思う。

 こんな考えを抱くのは自分ぐらいだと思いながら、ドン・キホーテにどこか惹(ひ)かれる気持ちを自覚していった。

 確かに彼は一生懸命だった。最後は悲しくて涙の出てくる話だった。それが自分と重なるのだから泣かないはずはない。

 だけれども泣いているのを見せるのは嫌だったから透はそのことを上手く隠した。

 愚かになる理由はそれこそ星の数ほどあるのだろう。この目に見える空を埋め尽くしても足りないほどの数多く存在する理由。

 だけれども愚かになることを人は止められないのだ。

 愚かでなければできないことがあるから――

 と、予鈴が辺りに鳴り響いた。

「あ、鳴っちゃいましたね」

 残念そうに言う明里。

 透は微笑んで教室に戻ることを促(うなが)した。

「また何か聴かせてくれないかな。草永海さん、話すの上手だったし」

「え? あ、私でよければいつでも」

「うん、お願いするよ」

 静かに、それでいてどこか強い力で引っ張られていることを、彼らはまだ知らない。

 それは静かであるが故に知られず、強い故に止められない。

 一つの終わりが過ぎ、また新たな一つが始まる。

 けれどいつだって一つしか生まれるわけでもなければ終わるわけでもなく、一つも終わらないうちに幾つもが生まれることもある。

 すでに開かれた扉は開かれたままで、その先へと進むことでしか運命は見ることはできない。

 決して引き返すことのできない未来へと、彼らは足を運んでく。

 止まることのない流れが彼らを押し包む。

 地球を抱く空のように。

 空が、満ちるように。



 ★☆★☆★



 暑い日差しから逃れるように仄暗(ほのぐら)い陰のある場所へと移動しつつ歩く人間が一人。

 金と茶の二色に染めた髪が周囲への存在を必要以上にアピールする中、彼は大多数の人間がそうであるようにこの暑さをうざったく思っていた。

 他に歩く奴らを威嚇(いかく)して道を奪いながら進む。

 愉快であり不愉快の元となる周囲の反応を苛立たしげに見て舌打ちする。

 腰に下げた銀の鎖が出す音も、今は感情を逆撫(さかな)でする一要素でしかない。

 雑多に溢れるものを見て不快になり、雑多に溢れる音を聞いて苛立つ。

 それもこれも全部あの女のせいだと彼は決め付ける。

 体に負った傷は思ったより軽かったが、じくじくと疼(うず)いて責め苛(さいな)み続ける。時折強く痛むこの傷には憎しみしか湧(わ)いてこなかった。

 どうやって殺そうか。

 どうやって復讐しようか。

 どうやって気を晴らそうか。

 どうやって、どうやって、どうやって、どうやって、………………。

 そんなことばかり考えていた。

 と、彼は前から来る五人の集団に注意が向いた。

「あいつらは……」

 見覚えがあった。いやその程度のレベルじゃない。

 今まで唯一、自分の攻撃を免(まぬが)れた奴らであり、奴らを襲ったすぐ後にあの女が現れたという彼にとって元凶以外の何者でもない。まあ一人二人と覚えのない奴もいるが、特に関係はなかった。

「おもしれえ」

 その顔が歪(ゆが)む。

 自分をこんな気持ちにさせた馬鹿はこの手で潰すに限る。

 嗜虐(しぎゃく)に彩(いろど)られた顔で彼は目まぐるしく頭を回転させた。

 人通りの多いここで手を出すのはリスクが大きい。相手は五人。せっかくこれだけいるんだ、一人二人とゆっくりやっていこう。それぐらいの余裕は有るはずだ。

 楽しみは長く味わえた方が良いに決まってる。まずは一番人の邪魔をしたあいつにしよう。あいつのせいで誰一人として死ななかったのだから。

「最高だ。いいぜ、やってやるぜ。ほら、早く来やがれ。俺が可愛がってやるからよ」

 残虐な己の思考にたっぷりと酔い、悦(えつ)に入る。

 これから起こす舞台に奴らを引き摺(ず)り出して恐怖に支配されていく姿を見届ける。

 まさに最高のエンターテイメントだ。

 引き裂けたように口を大きく広げ、彼は声なき笑声を上げた。



 ★☆★☆★



「今日はちょっと寄るところがあるから」

 愛夏はそう言ってどこかそわそわしながら行ってしまった。

 というわけで透はいつもは二人で帰る道程をたった一人で歩いていた。

 透の見立てではどうにも知られたくないことをこれからするようであった。真一と美浜の様子から、もしかしたらあの二人と何か企(たくら)んでるのかと思う。

 因(ちな)みに美浜は今日の部活を休んだ。真一が松原先生のお見舞いに行くと言ったら美浜が自分も行くと言い出したのだ。

 どうにも美浜は前から松原先生と知り合いであり、何度かお世話になったこともあるらしい。木刀持参で見舞いに行くのは正直どうかと思ったがそれは言わない約束である。

 たった一日の検査入院ではあるが、生徒にはとても慕われている先生である。けれど、愛夏と透、それに明里はその見舞いには行かない。

 愛夏は先程のように用事があるからで、透は真一と美浜に行かなくていいと強く言われたから。どうにも少し腑(ふ)に落ちない強い口調だった。明里は家に客が来るということでそれぞれ別れた。

 ただ別れる前に一つ約束をした。明日の土曜日は、五人で集まって遊びに行くという約束だ。美浜は午前中に部活が終わるそうだからその時に合わせて昼食を一緒に食べて行こうということになった。

 本当なら今の時期、高校では定期テストがある。それは私立のうちでも変わらないはずなのだが、なぜか一ヶ月も早くにそれを済ませていた。なので夏休み一ヶ月以上も前から緩い空気になっている。ただし、その代わりに夏休みの宿題及び休み明けのテストがとても厳しい。

 けれどもまあ、どうにかなるだろうと皆お気楽に考えていたりする。そんなものだ。

 透は静かに空を見上げ、まだもう少しだけ掛かる夕空へと思いを馳(は)せた。

 しかしそれも長くは続かない。目の痛くなる空などいくら暇人だろうと長々と注視したりなどしない。それは白内障になるからとかそういうわけでもなくて、まあ色々あるということだ。人それぞれに。

 そうして一人、漫然(まんぜん)と道を歩く。

 誰かと一緒にいる時はあまり感じなかった蒸し暑さを体感し、陽炎が見えるほどでないにしろ酷い暑さと言うしかないコンクリートなどからの照り返しの熱さもその身に受けることを甘んじていた。

 今年の夏は早く来た。

 理由は簡単。梅雨が例年より早く来て早く去ったからだ。

 おかげで七月の初めである今から暑さを味わうはめになった。正確には一週間以上前からだが、気分としてはその方が楽だ。

 透は実にゆっくりと歩き、その暑さを真正面から受け止めながら、できるだけ汗を掻かないよう勤めた。

 けれども世の中というのは非道で、どうしたってこの気温では汗を掻いてしまう。

「どうして放課後になると一気に気温が上がるんだろ」

 初夏だからだろうか。いや、初夏だからといって夕方でなければ暑くならないという道理はない。

 たぶん、思いも付かない理由があるのだろう。

 昼休みはカラッとしていて風もあり、どちらかというと過ごし易かったが。

 そんな時に時刻は四時になろうとしていた。

 学校と家はだいたい三十分の距離がある。今の季節、普通に歩いて帰っても汗が出てきてしまう。

 透は世の中の不条理に心の中で悪態を吐きながら歩き続ける。

 夏で良いと思えるものは多いが、それと同じくらい嫌だと思うものがある。

 冬は冬で良い事も嫌なことも夏より少ないがその分、プラスマイナスで夏と変わらない。

 春と秋。穏やかな部類に入るこの二つの季節には、南方の人間でもない限り――つまりは台風――この二つが一番好きだというかもしれない。

 しれないと言うのは結局はどれもこれも微妙なところで均衡を保っているからだ。

 そんなわけで透は春と秋が一番好きな季節だった。

 夏、この高過ぎる気温さえなければ良いのに。

 そんなことを思って角を曲がると、道の真ん中に人が一人立っていた。

 この道は一本通りで、歩行者と車が通る道の区別がされていない。人も通るし車も通るというある意味万能な道だった。

 そこに立つ一人の男。金と茶の二色に染め上げられた髪。ここらではあまり見掛けないような派手過ぎる服。腰元にある銀色のチェーンがジャラリと鳴る。

「ここで会ったことを後悔しろよ? でなきゃやる意味ねえからな」

「は?」

 いきなり奇妙なことを言ってきた男は邪悪としか言いようのない笑みを見せつけるようにしながら一歩を踏み出した。

「行け、アウロー」

 踏み出すと同時に呟いた言葉に、透は怪訝(けげん)な表情をし、途端(とたん)に驚いた顔をして横に跳んだ。

「おいおい、参ったな。そういうことか。道理で生き残っちまってるわけだ。まさかてめえも〝参加者〟だとはな」

 参加者。

 一体何の参加者なのか。

 透には皆目見当もつかなかったが、どう考えてもまともでないことは確かだ。

 死神を自分の意思で操るなんて。

「なん、なんだ?」

 透の視線の先には宙に浮かんだ死神、アウローの姿がある。

 さっきはこのアウローが透に向けて鎌を振るってきたのだ。

「はっ、まさか知らねえなんて惚(とぼ)けたこと言ううんじゃねえだろうな。おい、てめえも早く自分の死神で俺を攻撃してみろよ。お前の死神は一体どんな力を持ってるんだよ」

 でないと何もできずに死ぬぜ?

 男はズボンのポケットからナイフを取り出し、それをちらつかせた。

「ほらほら、生き残るために出せよ。そんで以て苦痛にのた打ち回って死ね。不運にもこの俺に会ったことを後悔してな!」

 男は大仰な動作でナイフを振り被り、突き刺すように上から下へと振り落とした。

「う、……くっ」

 異様な状況に混乱しながらも透はこの攻撃を後ろに下がって躱(かわ)した。

 だが近くまで接近を許してしまったことが仇(あだ)となり二の腕を切り付けられてしまう。

 服が切れ、その下の皮膚が薄く切れただけだが突如として襲ってきた不幸の形に恐怖し、実際の痛み以上に体が痛いと感じてしまった。

 体が震え、情けなくも恐怖に顔を奪われていたに違いない。

 金茶の男が嬉しそうに再びナイフを振るった。

「ほうらっ、早くしねえとほんとに刺されて死ぬぜ。俺たちみてえなのがあっさり刺殺されました、じゃ情けなさ過ぎて目も当てられねえぞ? そんな嫌々してねえでさっさと力を使えよ。なんだ? それとも実は弱過ぎてあってもなくても変わんねえのかよ」

 だったら最悪だよなぁ。こんなゲームに巻き込まれちまってよお。俺がその恐怖から開放してやるから、はやく殺されろよ。ズタズタに引き裂いてやるぜ。今は気分が良いんだ。この俺自らが手を下してやるよ。

 どんどん昂揚(こうよう)してきた気分に後押しされたのか、それとも人を殺すことがもはや快楽でしかないのか。壊れた微笑をしながら、目だけは真剣に透の動きを追っている。

「どうしたどうした? 何も言わねえと寂(さび)しくなるじゃねえか。構って欲しくてついつい深く切りつけちまいそうだぜ」

 逃げ回るだけの透と違い、饒舌(じょうぜつ)に話し掛ける男。愉悦(ゆえつ)というスパイスをふんだんに掛けられた揶揄(やゆ)の言葉に従い本当に深く切り込んできた。

 透もそれに合わせて大きく跳び退(すさ)る。今度は何も切られずに済んだ。

 なぜこうなったんだろう。

 相手との間に若干(じゃっかん)の距離が生まれ、考える時間のできた透はまず最初にそんなことを思った。

 おかしなことを言う異常者に、通り魔的な被害を受ける。これは不幸なことだ。そう世間は言うだろう。

 けれども現実に、現在進行していることして被害に遭っている方は堪ったもんじゃない。

 周りが不幸だ、可哀想だと言ったって事態が好転するわけじゃない。むしろ悪い方になら転がるだろう。

 だがそれが今の状態で、他に誰もいなくて、死神なんて今まで他に誰も見えなかった誰にでも憑いているのを手先として使う奴に襲われてる。

 どうしろっていうんだ。

 透はまとまりのない思考を無理にでもまとめようとして、更に深みに嵌(はま)って行った。

 俗に言う恐慌状態というやつである。

 こうなってしまっては自分ではどうしようもない。一旦落ち着いたところでしばらく休むか、誰か行動力か人を引っ張って行ける人が叱咤(しった)するか顔を叩(はた)くかしない限り抜けられるものじゃない。

 とにかく、透は正常な判断を下せる状況ではなかった。そして狭(せば)まった視界で以て目の前の危険にしか目を向けていなかった。

 だから、失念していた死神アウローがその後ろから透の死神、顔も見えないほどに目深に被ったフードをしたアウローと同じくらいの身長かそれ以下しかないそいつに、鎌を振り下ろそうとしているのに気が付かなかった。

「おい。後ろ、見てみろよ。面白いもんが見れるぜ」

 反射的に後ろを振り返ると、すぐ傍(そば)にまで迫っていたアウローが透の死神に向けて攻撃した。

 ガキンッ!

 運良く、それとも本気ではなかったのかこの一撃はお互いの鎌に当たるというだけで終わった。

 慌てて透はアウローから離れたが、透の死神はその場を動かなかった。

 再びアウローが攻撃を放ち、それを何とか受け止める。それが何度か繰り返されてから思い出したように透は逃げ出した。その時に透は手にしていた鞄を投げ付けたが手元が狂って男の脇を空(むな)しく通り過ぎた。

 その間(かん)、あのイカれた男は一歩も動かなかった。

 そればかりかこれまで一度も見せなかった驚いた表情を見せている。

 透が〝参加者〟(アテンダンス)だとばかり思っていいた相手にとって、自分の死神に何も指示を出さずそればかりかそいつを置いて逃げ出すなど、彼にとっては常軌(じょうき)を逸(いっ)しているとしか思えなかったのだ。

「なんだあ、あいつ? 見えてるくせに契約者じゃねえってのか? いや、んなわけねえな。そんなのはいるわけねえ。こうやって少しのケガだけで生き延びるのがあいつのセオリーってことか」

 もう少し遊びたかったんだがな。

 不機嫌に、それでいて狙い通りにことが運んだことに若干(じゃっかん)の喜びを混ぜて言う。

「さあて、〝狩り〟の始まりだ」

 アウローに目配せして攻撃を止めさせる。

 アウローは戦うということに契約している男と違って執着がないのか、それとも死神というのは全員が薄弱な意思しか持たないのか、ただ機械的であるだけなのか、分かりはしないがとにかく素直に従う。

「せいぜい上手に甚振(いたぶ)られてくれよ? メインディッシュにするための下拵(したごしら)えなんだからよお」

 快楽に身を委(ゆだ)ねた犯罪者が歩み始める。

 その後ろに死の影を背負って。一歩、また一歩と。

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