第一章 見えるもの2
今は美浜を除く全員が帰路に着いていた。美浜だけは帰宅部ではないのだ。愛夏も部活はしていたが、この状態では続けられるはずもなく、とっくに止めていた。
四時を過ぎても太陽の光が眩(まぶ)しく感じる。大通りに差し掛かって来るにつれて不快になる車の駆動音も、喋ってさえいれば気にならない。
そんな時、透はそれに気付いた。たまにある、それを見た。
「あ、草永海さん」
「はい? きゃっ」
何もないところで転ぶ(、 、 、 、 、 、 、 、 、 、)、その原因を。
「っと。怪我はない、よね」
逸早く気付けた透だからこそできた、躓(つまづ)くと同時に体を支えるという芸当。腕の中に明里が縮(ちぢ)こまってすっぽりと納まっている。
「は、はい」
申し訳なさそうに顔を赤くして彼女は俯(うつむ)く。透の腕を掴む力も弱い。ただ、いつまでもそうしているわけにいかず、透は明里を丁寧に引き離した。
「あ……」
どこからか残念そうな声が聞こえたが、空耳だろうと透は思う。そして透は先程見えた原因(、 、)を苦々しく見る。触ることができないのが実に残念だった。
「どうしたんだ、愛夏」
愛夏は複雑そうに顔を歪ませていた。透が訝(いぶか)しんで問い質(ただ)そうとする前に、真一が割り込んできた。
「よく明里ちゃんが転ぶって分かったなぁ。すげえな、おい」
「あ、ああ。歩き方が一瞬変になったから」
「へえ、よく見てんだな。ん、実は明里ちゃんに気があったりして」
明らかにからかっていると分かる口調。だが内容が内容なだけにこれは問題発言だ。
慌てて明里の方を見ると、思ったとおり彼女は顔を、茹(ゆ)でタコなどと表現するには生易し過ぎるほど赤々とさせていた。
それにつられて透までもが顔を赤くしてしまい、そこに冷やかすように真一が囃(はや)し立てるものだから更に顔が赤くなる。もちろん、比率は明里の方が遥かに上なのだが、
「よっ、ご両人!」
そう言って高らかに笑う真一の声が耳に入り、ついに透の中で何かが吹き飛んだ。
「真一っ!」
にやにやと意地の悪い笑みを顔面に貼り付けた悪鬼に、透は向かって行った。
透の顔は真っ暗闇から突如として現れた般若(はんにゃ)もかくやというもので、きっと阿修羅(あしゅら)であろうとも三つある顔を全て同じ顔にすること間違いなしだ。
「おわっ、なんだよ。落ち着けって」
透の剣幕(けんまく)に押され、真一は冷や汗を垂らしながら作り笑いで引いた。
「ううううう~っ」
「ほら、もういいでしょ? いつまでも起こってないで、少しは落ち着いてよ」
真一は、透の怒りが一段落して愛夏と話し始めるのを待ってから、まだ顔を赤くしている明里を肘(ひじ)で突(つつ)き声を低くして言う。
「なあ明里ちゃん。ネタは上がってるんだぜ?」
凝りもせず尾を引っ張り続ける真一。
「ネ、ネタって何ですか」
さっきのようなことがあったせいか彼女の警戒は強い。
「透のことが好きなんだろ。協力するぜ」
ニヤッ、と下世話と評されるような笑みを見せる。そして、この演技と相俟(あいま)って真一の言葉は明里に必要以上の衝撃を与えた。
「ななななななな、なんでっ」
「おーっと声がでかい。透の奴に感付かれたくはないだろ?」
明里が声を上げるのは予想済みとばかりに手で口を押さえつける真一。対する明里は真一の言葉にこくこくと頭を振るばかりだった。
「ど、どうして知ってるんですか? 誰にも言ってないのに」
口から手を放してからの第一声がそれだった。後半はもごもごと口の中でだけ言ったようだが。
「見てりゃ分かるって。明里ちゃん、透の前ですっげえ赤くなるしコロコロ表情変わるしさ」
「へ? そんなに変でした?」
「うん。それはもう」
ううー、とまたまた顔を赤くして両頬(りょうほほ)に手を添えた。
「それで、だ。俺はそんな明里ちゃんに協力したくなっちゃったわけよー。本当はもっと早くにそうしたかったけどほら、あんなことがあったしね。遠慮してたわけだけど、そろそろいいかなーって。美浜の奴からもオッケーもらったし」
「み、美浜も知ってるんですかっ」
「うん、そう。気付いてないのは当の本人だけだろうね」
天使、または小悪魔の笑顔はこういうのかもしれない、と明里は跳んで行く思考の中で思った。
それから呆然とする明里に、真一はいつどこで相談するかを伝えて離れて行った。そして何事もなかったかのように透と愛夏の輪へと入り込む。
「あ、う……」
夏なのに、肌寒く感じる風がどこからか吹いてくる。それはとてもとても不思議なことに自然だと感じる風だった。
「はっ」
それがきっかけとなったのか明里が意識を取り戻す。だいぶ離れたところに三人はいたが、真一が弾丸トークでもしているせいか誰も明里が離れていることに気付いていなかった。
明里は走って追いつこうとする。急いで距離を詰める彼女は一人の青年に気付く。
金と茶の二色に染めた髪。いかにもキメマシタといった服装。腰につけたシルバーチェーンが擦り合わさる音が耳につく。
いつもはこの程度のこと、何一つ気にするどころか目を留めることさえないのに。しかも今は追いつこうと焦っているのに。
どうしてだろうと思うも、その時にはその人を追い抜いてしまっていた。今更引き返せるはずもない。そのまま仲間のところに向かった。
不思議なことに、追いついた時にはもうそんな青年のことなど忘れてしまっていた。あれほどおかしいと思っていたのに。
これがシグナルだと彼女が気付いていたら未来は変わったのだろうか。
★☆★☆★
「ところでさ。透はなんでメガネ掛けてんの。ダテだってことは周知の事実だろ」
大きな交差点に近付いてくると真一が不意に訊いた。
透が真一に憤慨(ふんがい)してから実に十分ほど経った頃である。ほとぼりも冷め、また真一が皆から別れる地点がすぐそこという、何か地雷を踏んでも時間を置かせて考えることができるタイミング。
「ただの気休めだよ。ほんと」
「何の気休めだよ」
「精神的なことさ。かなり個人的なことでもある」
透はそれまで気にしてなかったメガネのずれを直した。返答の仕方からしても遠回しにこの話題を避けていることは分かる。
「どうしても言えないことか?」
真一の質問に、透はどこか悲しそうな顔をして、
「そういうわけでもないけど、できれば言いたくはない」
「そうか。ならいいや。訊かれたくないこと訊いて悪かったな」
あっさりと引いてくれたことにほっとした様子をありありと見せ、透は薄く微笑んだ。
「それじゃ、俺はこの辺で。…………後はがんばれよ」
ウィンクまでして明里を後押しする真一。それで明里は気付いた。真一は自分が透のことを一つでも知るために訊き難(にく)いことを率先してやってくれたのだと。
「ありがと……」
恥ずかしくて顔を上げたまま言えなかった。この言葉が真一にまで届いたかどうかは知らない。その時には地面を蹴る足音が耳に聞こえていたからだ。
「草永海さん?」
「あ」
うっかり道を外れてしまっていたことに気付かず、危(あや)うく車道へと出てしまうところだった。
こんなドジなことを平素でしでかしてしまうことに常々(つねづね)危機感を抱いているのだが、いかんせん生来のことをどうにかするのは非常に難しかった。
「気を付けてね」
「はい」
今日はいつもより顔が赤くなる回数が多い。しかも大半は好きな人に見られている。そのせいかよけいに顔が熱くなる。
「大丈夫?」
もはやのぼせているのよりも遥かに赤味を帯びた顔は、さながら融解寸前の鉄のようであった。これで気にしない人がいるのならそれは鬼畜かこんな姿を見慣れた者だけであろう。
残念ながらここにそんなものを見慣れた人物はいなかったが。
「だ、だいひょうふです」
相手が心配して寄って来てくれているのは分かる。明里は頭のどこか冷静な部分で事態を受け入れていた。
素直にこういうのは嬉しい。でも、おかげで心拍数がさらに上がってしかも舌まで噛むようになって。もう穴があったら入りたい。
思考のループに嵌(はま)らなかったのが幸いというべきか。不本意ながらも素早く透から離れることができた。本当に、離れてしまうのは不本意だったが。
明里は今までの経験で自分がしばらくはまともでいられないことが分かっている。
簡単に言うと、今日はもう深く考えた行動はできないということだ。何をするにしても短慮で、一つ一つの意味が繋(つな)がらない。自分でもよく分からない奇行をしてしまうことだってある。
「なら、いいんだけど」
腑(ふ)に落ちない、という表情ではあったがとにもかくにもこれ以上の追及がなくて良かったと明里はほっとした。
と、そこで今まで意識の外に――仕方がないのだが――置かれていた愛夏の姿が映る。
「むー」
何やら深く思案している模様。何を考えているのかまでは窺(うかが)えないが、なんとなく自分に関することのように思えた。
いや、たぶん。間違いなく、彼女は透と明里のことで何かを思っていた。
これは直感で、美浜に言わせれば女の勘というやつで、確証もへったくれもないのだが。
「ねえ、今何があったの?」
訂正します。一応当たりましたけど、思ったようなことではなかったです。はい。
「ああ、まあ。ちょっと」
さすがに正面切って誰かがドジやらかしましたとは言えなるわけもなく、言葉を濁(にご)す透。
「ふーん。あ、もうすぐ青になるよ。二人とも急ごっ」
言うや早いか彼女はもう走り出していた。驚き慌てて二人も付いて行く。
「うーん、ちょっと早まったかな」
大きな交差点に着くと、ちょうど反対の歩道が赤に変わったところだった。
十秒も待つことなく信号が青に変わり、対岸へと渡り始める人たち。そんな波に乗ろうと、ワンテンポ遅れて三人も渡る。
都会ではないのでスクランブル交差点などありはしないが、対岸までの距離は優に三十メートルを越した。
たまにあるのか今日は反対側から渡ってくる人は誰もいない。こちら側からも、自分たちを含めて五人しか渡っていない。
天気は晴れ。そのわりに気温は高くない。一日という時間で区切れば十分に悪くない日となるこの日。
交通事故が起きた。
★☆★☆★
最初に気付いたのは僕だった。
自分たちが来た方向から迫るトラックが、前に車が一台もないのをいいことにスピードを出していた。
初めはちょっと危険な運転をしているな、程度にしか思わなかった。けれど、だいぶ近付いてきた頃に異常を感じた。
トラックの運転手の傍らにいた〝あれ〟が、どこからか来た別の〝そいつ〟に倒されるのが見えた。
「え?」
思わず立ち止まる。トラックの運転手が急に慌てたような顔を見せたからだ。そしてその慌て振りから一つの可能性が頭に生まれた。
ブレーキが利かない。
急いで首を回す。愛夏も草永海も事態に気付いてはいない。こちらの動きに懸念(けねん)を抱いてはいるようだがそれが何なのかまでは分かっていない。
立ち位置はこうだ。
僕を挟んで愛夏が少し離れた前に。後ろに草永海さんがいる。そしてトラックが突っ込んでこようとしているのは――――僕と草永海さんの方。
「くっ」
場所が悪い。僕は少し動けば躱せるが、彼女の方はそうもいかない。運命か神の悪戯(いたずら)か、しっかりと真正面だ。
とりあえず完全な安全を確保するために、愛夏がうっかり近付いてしまわないよう片手で突き飛ばす。
「きゃっ」
驚いた声が耳朶(じだ)に届く。だが構っている暇はない。トラックとの距離はもう十メートルもない。
普通の方法じゃ助けられない。脳裏(のうり)に浮かび上がったのは、映画やマンガでよくあるあの光景だった。
できるか? そんな問いは最初(はな)からなかった。
これが思い浮かんだ時にはもうすでに体が宙を飛んでいたからだ。
抱えた重さは儚(はかな)くて、でもここにある温かさは本当に存在していて、ただ呆然と、すぐそこを突っ切って行くトラックの質量と風を感じた。
轟音。
まさにそうとしか言いようのない音が聞こえてきた。盛大な交通事故になったことは疑う余地もない。
「怪我はない? 草永海さん」
打ち付けた体の節々が悲鳴を上げているが、とにかく訊かずにはいられなかった。
それきり、意識は暗黒へと抗えない力で以て運ばれて行く。最後に聞こえた声は、明里と愛夏、どちらのものだったのだろうか。
消え行く意識では分かるはずもない。
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