白い手の棲む家~異聞・座敷わらし様の花嫁
澤田慎梧
白い手の棲む家 1
「ここがお前が働く家だよ」
おばさんの声に顔を上げる。
ここまで何時間も山道を歩いてきたので、正直へとへとですぐにでも倒れ込みたかった。けど、なんとか踏ん張って前を見つめた。
「わぁ……立派なおうちですね」
「いわゆる旧家ってやつだね。ここいらの山はみ~んな、こちら様の所有物さ」
「へぇ~」
目の前に建っていたのは、ここが山奥だって忘れるくらいに立派なお屋敷。きちんと瓦の乗った武家屋敷みたいな家だった。
世間から忘れ去られていそうな寒村には、あまりにも不釣り合いに見える。
「ここからは一人でお行き」
「えっ? おうちの人に紹介してくれないんですか?」
「甘ったれるんじゃないよ。話は通してあるから。じゃあ、達者でな」
言いながら、おばさんはそそくさと来た道を戻り始めてしまった。気のせいか、来た時よりも速く小走りになってさえいる。
「……ま、いっか」
遠い親戚だと言うだけで、元々親しくはない相手だ。そもそも、あの人は最初、私を売春宿に売り飛ばそうとしていたし。
二度と会わないのならば、それはそれで良いことだった。
――私の生まれは、ここよりも幾分かマシな県内の山村だ。
家は農家。食うや食わずの極貧で、末娘だった私は中学校卒業と同時に、さっきのおばさんに売られた。金額は知らないし、知りたくもない。
おばさんは
その後、私は親戚だからと優遇されることもなく場末の売春宿に売られかけたものの――なんやかんやあって、この山奥のお屋敷の住み込み女中として働くことになった。
おばさん曰く「よく視える娘は重宝がられる」のだそうだ。視力はたいして良くないはずだけど。
「ごめんくださ~い」
玄関と思しき引き戸の前に立ち、屋内へ声をかける。戸の曇りガラスの向こう側は真っ暗で、本当に人が住んでいるのかどうかすら怪しい。
引き戸の横には、「永手」と書かれた古い表札がかけられていた。「ナガテ」だろうか。
――しばらく待ったけど、返事はない。仕方なく、庭の方へ回ろうと思ったところで、不意に戸がガラガラと開いた。
「あ、ごめんください。私、本日からこちらで働くことになっている
深々と頭を下げながら元気よく挨拶する。が、やはり返事はない。
不審に思って頭を上げると、引き戸にかけられた手が目に入った。……なんだ、やっぱり家の人がいるんじゃないか。
「あ、あの~?」
声をかけるが、手の主は戸を掴んだまま姿を現さない。
――やけに青白い上に細い。子どもか女性の手にも見える。この家の奥様か子どもさんだろうか?
ぼんやりとそんなことを考えていると、手はようやく戸を離し、「おいでおいで」するように私を手招きした。
どうやら、意地でも姿を見せたくないし声も出したくないらしい。
(……それとも、喋れない人なのかな?)
そんな可能性を考えつつ、玄関を潜る。家の中は薄暗いが、見えないほどではない。
三和土には、数人分の下駄や草履がきれいに並べられている。男性ものが幾つかと、女性ものが幾つかと。
子どもの物は見当たらなかった。
「何人くらいでお住まいなんですか?」
横を向き、そこにいるであろう手の主に声をかける――が、いない。家の中に上がった音はしなかったが、いつの間に移動したのだろうか。
――と。
「桑山霧さんですね?」
「ひっ!?」
突然に名前を呼ばれ、思わず悲鳴で返事をする。
見れば、いつの間にか玄関を上がった所に中年の女性が立っていた。
年の頃は四十絡み、黒っぽい着物に身を包み、少し白髪の混じった髪を綺麗に結っている。若い頃は男の人を沢山泣かせたんじゃないか、という程度には美人だ。
「あ、すみません……おうちの方ですか?」
「ええ。
「あ、よ、よろしくお願いいたします」
大きく美しい鳥が鳴くような声に気後れしつつも、丁寧に返事を返す。
いつまで雇ってもらえるか分からないけど、しばらくはここが私の家になるのだ。少しでも心証を良くしたかった。
「まずは、お上がりを」
けれども、美輪さんは感情を消した声音でそれだけ言うと、さっさと廊下の奥に姿を消してしまった。ついてこい、ということらしい。
慌てて靴を脱いで、その後を追う。
――屋敷の中は、思った以上に広かった。
廊下と縁側が回廊のようにぐるりと屋敷を一周していて、囲まれるようにして沢山の部屋が存在している。
建物の内側にも幾つか細い廊下が走っていて、複雑に入り組んでいるようだった。どこが何の部屋なのか、覚えられるか少し心配だ。
そのまま、美輪さんに各部屋を案内してもらいながら、仕事についての話を聞く。
私の仕事は、基本的に美輪さんのお手伝いになる。毎日の掃除、炊事洗濯、その他小間使いまで、様々だとか。
お屋敷には美輪さんの旦那さんと息子さんも住んでいるけれども、日中は外へ仕事に出て行って不在だという。
「では、旦那様がこの家の主ということですか?」
「まさか。夫は私と共に主にお仕えしているにすぎません。不敬ですよ」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「主は奥のお座敷にいらっしゃいます。主は不浄を嫌いますので、奥座敷にはみだりに近付かぬよう」
美輪さんが廊下の奥を見やる。ちょうど、玄関から見て一番奥の中央に位置する場所に、古めかしい襖が見えた。あれが奥座敷らしい。
主の部屋にしては襖が汚いような気がするけど……。
「時に霧さん。貴女、きちんと生娘ですよね?」
「はい? キムスメ?」
「まだ男を知らないですよね、と尋ねているのです」
「お、おとこ!? も、もちろんです! 私、そんなふしだらでは――」
「よろしい。……貴女の最も大切な仕事は、主にお膳をお運びすることです。朝と夕、お部屋の前にお運びし、前のお膳を下げるだけの簡単なお仕事です。ですが」
そこで美輪さんは、初めて感情のようなものを見せて、こう言った。
「決して。決して奥座敷の戸を開けてはなりませんよ。必ず主が戸をお開けになる前に、一声おかけして下がるのです。もし、下がる前に戸が開いたのなら、そこで平伏し、決して主のお姿を視てはなりませんよ」
薄く、とても薄く微笑む美輪さんは怪しいほどに美しかった。
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