絶望の波跡

蓮 文句

1.疑惑

幸路は妻の望美と1DKのアパートで質素に暮らしていた。ある日、幸路の高校時代の友人、貫太から電話があった。特別な事情があって暫く泊まらせてくれないかと言う。アパートは手狭ではあるが、台所でも寝れるからという友人の頼みなので、兎に角受け入れた。幸路と貫太は久しぶりに会ったので、当初は毎日、夕食時にビールを飲みながら昔話に花を咲かせた。


その頃、幸路は日曜休日を除いて朝から夕方まで近くの倉庫で荷物の仕分けと積み込みの仕事をしていた。望美は平日の4~6時間だけやはり近くのスーパーでパートをしていた。滞在中の貫太はと言うと、毎日昼間に数時間出かけるが、それ以外はアパートに留まっているようだった。


その調子で2週間は経ったろう。旧友とは言え、小さなアパートに三人の生活が長くなると、幸路は少し息苦しくなってきた。幸路の「いつまで居るのか」という問いに対して、貫太は「もう少し」と言うだけで、はっきりした返答をしない。


それからさらに2週間ほどした頃、貫太がやっと「出て行けそうだ」と言った。幸路はほっとした。次の日、幸路はシフト調整の手違いがあり、仕事から2時間ほど早く帰ってきた。アパートのドアを開けようとした時、中から望美の興奮したような声が聞こえた。はっきりと、「あたしはどうすればいいの?」と聞こえたのだ。その後、貫太と望美がなにやら言い合っている様子だったが内容は分からなかった。幸路はドキッとした。何かおかしい、と思わざるを得なかった。


そして、急に最近の様子を思い起こした。そう言えば、最近、望美の貫太に対する態度が変わってきたような気がする。今まで気にしないようにしていたが、今の望美の言葉で急に怪しく思ってきた。それに、貫太は俺の前で取り繕っているような気配もある。もしかして、俺が仕事をしている間にあの二人の間に何かあったのでは?


幸路はそんなことを考え始めたら止まらなくなってしまった。中に入る気になれず、急にドアから手を離してその場を立ち去った。近くの公園まで来て、そこのベンチに座った。しきりに考えまい、考えまいとしたのだが、頭の中はその事で一杯だった。それと同時に、望美との経緯も思い出していた。二人はボウリング場で知り合い、半年ほど付き合ってから結婚して4年と少し経つ。望美はいつもお弁当を作ってくれるし、帰宅時には笑顔で迎えてくれる。また、忘年会などで幸路が飲み過ぎた時に、望美が飲み屋までやってきて、幸路を抱きかかえるようにして連れ帰ったこともあった。今までずっと、幸路は望美との結婚生活が幸せと思っていたし、ありがたく思っていた。それで、そこで少し待てば、落ち着くだろうと思った。


ところが、その間に、もう一つ思い起こしたことがあった。数日前帰宅した時の事だ。いつもは幸路が帰宅するときには夕食が用意できているのに、その日は望美がまだ準備をしていた。それだけではない。望美の髪の毛が完全に乾いていなかったし、その日に限ってシャワーが使ったばかりの様に濡れていた。これは、幸路が毎日仕事から帰ってすぐにシャワーを浴びるので、気が付いたことだ。その時は、一瞬、望美に聞こうかとも思ったが、何かを勘ぐっていると思われるのも嫌で何も言わなかった。だが、今となっては、この事が決定的と思った。あの日、確かに、望美は幸路の帰宅少し前にシャワーを浴びたのだ。結婚してからずっと、望美は毎日必ず朝にシャワーを浴びていたので、望美が午後にシャワーを浴びて夕食の準備が遅れたと言うのは極めて異例の事だ。


シャワーの件と、さっきの望美の言葉とを合わせると、幸路はもう望美と貫太の関係を疑わない訳にはいかなかった。頭の中は怒りで破裂しそうであった。そこで急に立ち上がり、携帯の電源を切ってから、アパートとは反対の方角に歩き始めた。どこに行くと言う当てがある訳ではない。兎に角、反対の方向に行かなくては気が済まなかった。憤ったまましばらく歩くと、そこは、多摩川の河原だった。

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