モルモットの白昼夢
床豚毒頭召諮問
K①
「いらっしゃい」
冷ややかな声が投げかけられた。
昼間のバーは「おい、まだ入ってくるな」と言いたげに、俺の歩みと同時にギシギシと床を鳴らす。
俺はため息を飲み込んだ。
(ちくしょう…)
奥歯を食い縛る力をどうにか弱める。
「奥か?」
「えぇ、待っておられますよ」
(くそ野郎め、殺しを頼む時は無限に酒が進むとでも?)
傲慢で、破廉恥で欲にまみれたあの男…。
(この歳になってもあの男に酷使されるとは…)
俺はまた、ため息を飲み込んだ。
「久しぶりだな、ワンショット。二年ぶりだ」
黒いスーツに身を包んだ恰幅の良い男は気さくに話しかけてきた。
「誰を殺せば良いんだ?」
「ハハハハハハハハハハハハハハ…」
心の中で舌打ちをした。
(こいつ…)
乾いた笑いをまるでこらえきれなかったとでも言いたげに、この男は両目をこちらに向ける。
(失敬。とでも言いたいのか?)
「すまないねぇ…」
息を整えながら男が言う。
「お前のせいで笑えなかったから、お前の前で笑ってやったよ。どうだ?私の笑い声は」
どういうことだ?
この男は、俺のせいで損失でも被ったのか。いや、そんな事はあるはずがない。
じゃあ、なんのことだ?
「おぉい!!ワンショット…てめぇ、殺し損なったな!」
(は?)
男が言った瞬間、男の手下が俺の頬を頭をテーブルに叩きつける。
「どういうことだ!俺は生まれてこのかた、殺せなかった標的はいないぞ!」
「黙れ!」
俺の頭にぬるい酒の入ったグラスが叩きつけられる。
グラスは俺の頭に当たって砕け散る。鈍く痛みが俺の頭を駆け巡った。
「生きてんだよ!!おい!!銃見せろ!見せろってんだよ!役立たず!」
男が俺の服を探り愛銃を取り出す。
愛銃を見て男がまた叫ぶ。
「おい!!弾入ってんじゃねぇか!!おい!!あん時も入ってたよな?!なんで殺れてねぇんだよ!なんで生きてんだよ!!おい!どうなってんだぁ!!おい!!」
狂い叫ぶ男の圧に押されながらも俺は問いかけざるを得なかった。
この男に頼まれて殺した人間はただ一人。
そいつが生きているとなると……こいつも、こいつの組織も、俺も、暗黒街も、闇社会も明日が危ぶまれる。
「まさか?!やつが生きてるのか?!そんなはずは!」
バンッ
「生きてんだよ。俺はしかとてめぇに頼んだはずだ。あの!目障りな!女を!殺せとな!!」
男は言葉を区切りながら、テーブルに拳を振り下ろし、目を見開いて俺の顔を覗き込んだ。
「証拠を出せ!証拠を!」
俺が叫ぶと男は、あごをしゃくって手下に合図をする。
すると、手下はテーブルに何枚もの写真をのせた。
「よぉぉぉく、見ろ。どこの、誰かなぁあ?」
男が写真の一枚を取り上げて俺に見せる。
写真を見た瞬間、俺は身の毛が逆立った。
闇夜に溶け込む純黒の髪。
強く引っ張れば、いとも簡単に折れてしまいそうな人形のような手足。
目を合わせれば、全てを見透かされてしまいそうなガーネットのような赤い瞳。
あぁ……生きていたのか。
この女に、この女探偵のために何人の著名なシリアルキラーが、強盗団が、怪盗が、その犯罪人生に幕を下ろしてきたことだろう。
そんな、闇社会にとっての悪夢を俺は二年前に終らせたはずだった。
そうだ、俺は、確かに、あの女の額に、7.7ミリ弾を貫通させたはずだった。
それが……なぜ、生きている…?
「わかったか?自分の無能さを」
男の声など耳に入らなかった。
今の今まで、標的は逃したことがなかった。
なぜだ?なぜ?なぜ?なぜ生きている?
こいつは魔法使いだったのか?
それとも、心臓に杭を打たれないと死なない吸血鬼?
「なん、で……?」
俺の口からこぼれた言葉を皮切りにさっきまでとは打って変わって、冷静な声で男が告げる。
「その写真は、市庁舎のエントランスの防犯カメラだ。移ってんのはどう見てもあいつだ。私の息のかかった警備会社の防犯カメラを使ってくれていて助かったよ………もう二年前の屈辱は繰り返してなるものか」
静かに、そして怒りを抑えているであろう声で男が告げる。
「殺ってもらおう。今度こそしくじるな」
声が出ない。
全身から血の気が引いて、めまいすら感じる。
(しくじった…?この、俺が……?)
「聞いてるのか?ワンショット」
(嘘だ、偽物だ。そんなわけあるか。あの時…あの夜…確かに額に銃弾を……)
「ワンショット……チャドを覚えてるか?」
驚きのあまり、俺の思考は止まった。
忘れることなど出来るわけがない。
「彼は今………どこにいると思う?」
この男は冷酷だった。
この男が何人もの人間を陥れてきたことだろうか。
それは直接的でも、間接的にも……。
この男が関われば、どんな善人も悪人も凡人も、ただ堕ちてゆくだけなのだ。
「彼は今、農場にいる。元気に働いてくれているさ……貴重な労働力としてな…」
俺は奥歯を食い縛った。
(俺もこいつの手の中か……)
「……ギカントは?」
「獄中にいる」
案外、自分の予想が外れていても、どうにも思っていない自分がいた。
(そりゃそうさ。死んでんのも、塀の中なのも、同じことだ)
「探偵にやられたよ」
思わず、俺は唾を飲み込んだ。
「いつだ?」
「今年の頭、ブツの倉庫番を任せてたんだが、場所が割れたみてぇだ。ブツと一緒にそっくりそのままサツに持ってかれたよ」
(待てよ…となるとギカントはチャドを守ることをしなかったってことか。もしくは、出来なかったか。なんにせよ、倉庫番なんてのは損な役回りだな)
「いいか…ワンショット」
テーブルに叩きつけられたままの俺の顔を覗き込んで男が言った。
「俺は“この街”を、生きて出るつもりは無いんだ…わかってくれるよな?お前みてぇな殺し屋は、自分のことは顧みねぇ……だからこその人質だ」
「チャドの母親は?!チャドは二年前からどうなった?!」
「やつの母親は食うに困ってヘムートの“羊”になっちまったよ……挙げ句の果てに、新しいブツを試されちまってなぁ……」
(こいつ……!)
部下の管理は上司の務めだ。薬の実験台を上司に断りもなく決めるわけがない。
「昇天するぐらい気持ち良さそうな顔をして、笑顔を見せながら寝床のチャドに抱きついた。だけどよぉ……ブツの効果が切れた途端に、チャドに噛みついた」
いつのまにか握りしめた拳は今にも、この男に向かって飛び出して行きそうだった。
「新しいシノギにぴったりのブツだったよ。人間が壊れるくらいの快楽を与えて、天国のような光景が見えるそうだ……人それぞれらしいがな。なにしろ何で作られてるかわかんねぇ代物だからよ」
「それでぇっ!どうなったんだっ!」
俺は思わず声を張り上げていた。
「そう急くなよ……フフッ」
男は笑いをこぼしながら、俺に語った。
「チャドは悲鳴を上げて「ママッ!ママッ!」って、母親を揺さぶった。だけどその揺さぶってた腕を噛まれちまってなぁ……泣きながら助けを呼んでたよ。そっから、逃げ出したチャドを追いかけてなぁ…まるで腹をすかした狼みてぇにヨダレを滴しながらよぉ」
まるで子供に聞かせるように話す男に俺は我慢がならなかった。
「早くっ!もっと早くしゃべれっ!」
「でかい声出すなよ…そんな歳になってまで見苦しいぜ?」
俺は唸り声を上げていた。どうしても怒りが収まらなかった。
「そんでもって、俺は思い付いたんだ……チャドに銃を渡したらどうなるのかってな」
(おい、まさか)
全身の血の気が引いていくような気がした。
怒りを隠しきれない俺に男は続けた。
「ショットガンをやつに渡した。ちょいと昔のやっだよ、丁度手に入ったもんでな」
(ハイエナめ!ギカントのM30だろう!家主がいない間に盗ったんだろう!)
「そんでよぉ、俺はただ持たせはしたが、なんも言わなかったんだ。やつがどうするか見たかったんだよ…それでよう、チャドのやつ、最初に躊躇して逃げ回ってたが、母親に押さえつけられて首を噛まれた瞬間…ドカン!………チャドは撃ったよ、唯一の肉親をなぁ……」
「くそ野郎っ!原因を作ったのはおめぇだろぉっ!」
「だからなんだ?!」
笑いながら男が言う。
「撃ったのはやつだ。母親より自分のことを優先したまでだろ?ははっ、俺を恨んでもなんの意味もない」
「こいつぅ!」
俺は男の手下の手を払いのけて起き上がると、男を殴りつけた。
すぐに手下が俺を取り押さえる。
「ハハハハハハハッ」
男は痛みを訴えることなく乾いた笑いを発した。
「殺せ!てめぇみてぇなやつの頼みなんざ誰が受けるか!」
「短気は禁物だぜ?チャドの命は俺が握ってんだ」
(くそっ……)
運の良いやつだ。遊び道具が人質に様変わりとはな。
「お前にとっても屈辱だろ?あの女が生きてんのはさ。お前の暗殺記録に傷がついてるんだぜ?」
「そんなことどうだって良い!」
「そうかな?それを決めるのは雲の上の方々だ。一撃必中必殺のワンショットが、しくじったとありゃ、どう思うのかな?」
闇社会にも秩序はある。力による秩序が。それに目をつけられたとなれば、地獄の果てに逃げても、三途の川に死体が浮かぶ。
「……いつまでだ?」
感情を押し殺して俺は話を前に進めた。
「次のブツが届くまでだ。今日から三週間、じっくり計画を寝ることだ。三週間後の12時になったら、チャドを市庁舎の上からぶん投げる」
「わかった」
「今度こそ、殺れよ。そして、今度は死体を持ち帰れ。俺自らの目で改める」
「わかった……一つ、頼み声を聞いてくれないか?」
「何かな?」
「M30を返したい」
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