第6話 分かるわけないでしょ

「お父様、私に帳簿なんて分かるわけがないじゃないですか」




 王太子との婚約が本当なら、自分は王妃になるための教育を受けているはずだ。


 妃教育は礼儀作法や会話術、ダンスなどが中心の筈だから、帳簿付けなどむしろ知っている方がおかしい。




「本気で言っているのか?」


「ええ。第一、帳簿付けが得意な公爵令嬢なんて、いるわけないでしょう?」




 青ざめる両親とは反対に、ジェラルドとメイド達は何故かにこにこしている。


 教養はあった方がよいけれど、小麦の価格変動への提言や帳簿付けが将来の王妃が身につけるべきものではないのは自分にだって分かる。




「記憶の混乱は一時的な物かもしれませんが、無茶をさせれば悪化してしまいます」


「それは困る……しかし……」


「無理に記憶を戻させようとすれば、お命に関わる結果になるかと」


「仕方ない。誰か町の商人ギルドから話の分かるものを連れて来い」




 ジェラルドの言葉に、父親だと名乗った男は書類を抱え出て行く。すぐに母親も、その後を追った。




「あの私、死んじゃうんですか?」


「大丈夫ですよ、アリシア様。病人に仕事をさせようとする公爵に、お灸を据えただけですから」




 にこりと笑うジェラルドに、アリシアはほっと胸をなで下ろす。




「この際ですから、療養に行かれたらいかがですか?」


「でもあの方達が許可を出すかしら?」




 公爵夫妻の様子からして、そう簡単に自分をこの館から出してくれるとは思えない。するとジェラルドは、頬に刻まれた皺を更に深くして微笑む。




「なに、私に案がございます。どうかお任せください」


「どうしてそこまで気にかけてくださるんですか?」




「あのような非道がまかり通るのは納得できません。お嬢様がこれまで国に尽くしてきたことは、皆良く知っております」




 彼の言う「非道」とは、婚約破棄の件だろう。しかしそう言われても、やっぱりアリシアはさっぱり思い出せない。


 きょとんとしているアリシアの前で、ジェラルドが笑みを消して深く頭を下げた。




「こんな事態になるまで何もできずにいた私にも責任はあります。せめてお嬢様が心身共に健やかな状態を取り戻し、冷静な判断ができるようになるまではここを離れた方が良い」


「仕事を失うことを恐れる余り、公爵に何も進言できずにいたのですから私も同罪です。先生」




 メイド長のティアも一緒に頭を下げ、隣に居るマリーに至っては必死に嗚咽を我慢している。




「え、え? なに、どうしちゃったの? 泣かないでよマリー。私が色々忘れちゃったから、なんだか大変な事になっちゃってるのよね? ごんなさいね」




 アリシアなりに皆を落ち着かせようとしたのだが、逆効果だったらしい。その場に残っていた数名のメイド達も含め、全員が目頭を押さえて泣き出してしまう。




「心ある者達が協力してくれますから、お嬢様は今はお休みになってください。気持ちが落ち着く成分の入った飲み薬でございます。今はとにかく、体を休めてください」




 頭痛薬とは別の薬瓶を手渡され、アリシアは素直にそれを口にする。


 少し甘みのある液体は、飲み干すと体がぽかぽかとして心地よい気分になる。




「ありがとう。じゃあ、療養の事とかはジェラルド先生にお任せするわ」




 ほどなく睡魔が襲ってきて、アリシアは彼らの厚意に甘えて今は眠る事にした。


 そして、アリシアが次に目覚めるのは三日後の事となる。






 その間に、公爵令嬢が記憶喪失という噂は貴族達だけでなく、市民の間にもあっという間に広まった。


 ついでに「公爵令嬢、心痛の余り三日間目を覚まさず!」と張り紙までされる騒ぎになったが、当然アリシアが知るよしもなかった。






 次にアリシアが目覚めると既に療養先は決まっており、慌ただしく旅支度が調えられた。


 療養先は山間にあるロワイエ国で、近年には珍しく王を含め国民全員が魔法を使える国なのだとティアから説明を受ける。


 ロワイエ国は特産品である薬草や、魔法を封じた鉱石を使った治療が有名で、各国から治療や療養目的で多くの人が訪れる。その中には王侯貴族や豪商も多く、公爵家の令嬢であるアリシアが滞在するには相応しい場所だとジェラルドのお墨付きだ。


 眠る前にジェラルドが言ったとおり、父親はアリシアの療養に許可を出してくれた。


 どうやら「魔法を使った医術で、記憶が戻るかもしれない」との進言を聞いた途端、掌を返して療養に賛同したのだとジェラルドから教えて貰った。


 とはいえ、旅立ちまでの準備を整える五日間、平穏に過ぎたわけではない。


 予期せぬ訪問者が三名、それぞれこっそりと病床にあるアリシアの元を訪ねてきたのである。




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