第12話 熊埜御堂乃愛の現状③
ママは何もわかってくれない。わかろうとさえしてくれない。
瞳を閉じて手を合わせながら、乃愛は胸の内で呟いた。
バイオレット・ミネルヴァの往年の活躍についてなら、乃愛は伝記が一冊書けそうなくらい詳しい。彼女が乃愛の母親じゃなかったとしても、きっとそうなっていたと思う。この街に生きる人々にとってバイオレット・ミネルヴァがあまりに偉大な女戦士だったことなんか、そのへんを歩く鳩でも知ってる。
でも――ママの生き方が、スーパーヒーローとしての在り方が、唯一絶対の〝正解〟なの?
将来のことで母と衝突するたび、乃愛は疑念を抱いてきた。私はシリウス・ガール。バイオレット・ミネルヴァじゃない。私は私のやり方で、誰よりも強い、正義のヒーローになってやる。
しかし同時に、乃愛はこうも思う。
私のやり方――それは、正しいものなのかな。
高校には行かないでヒーロー活動に専念することが、私にとって絶対的に正しくて悔いのない選択だなんて、本当に断言できる?
そもそも私の求める〝正義〟なんて――そんなものが、どこに存在するの?
どこかに、存在するの?
いつの間にか、哲学的な自問自答に陥っている。一度陥ってしまったら、
ふいに、腿に温かい感触を覚える。見るとサモエドのロキが、喉を鳴らしながら前足と顎を載せていた。犬なりに、乃愛の気持ちを推し
ロキに手を乗せたまま、顔を前に戻す。
パパなら、答えを知ってる? 額縁の中から眩しいほどの笑顔を向けてくる父に問いかける。返事はない。
乃愛は諦めて溜め息をついた。その息で、線香の煙が頼りなく揺れた。
※ ※ ※
バスタブはじゅうぶんに大きくて、乃愛なら両足を伸ばしたって余裕がある。けれど乃愛はいつも、まるでお風呂の半分しか使うことを許されていないみたいに、体育座りの姿勢で縮こまっている。そうして胸の前にバスタブの蓋を持ってきて、テーブル代わりにしてスマホを弄るのが、彼女のお風呂スタイル。
「あなたには、十字架とは無縁の人生を生きてほしい」
母の言葉が頭の内側に響く。何の話? 十字架って、何? 考えようとして、一瞬でやめた。気にするだけ時間の無駄。
乃愛は手の中のスマホを見つめる。
適当な言葉を打ち込んでは削除して、打ち込んでは削除して……それを何回も何回も繰り返して、結局【げんき?】とだけ書いてみた。なにその質問。何時間か前に塾で会ったばっかりなのに。と思った時には既に遅く、指が送信ボタンを押していた。
ほどなくして既読。【元気だよ】【どうかした?】
思いのほか早い返信に、乃愛はびっくりしたのと嬉しいのとで、お風呂の中で慌ただしく身をよじった。ぬるくなりつつあるお湯に波が立ち、蓋の裏に膝をぶつける。
呼吸を落ち着かせてから、【また親と喧嘩しちゃって】と返す。またしても、すぐに既読になって、返事が来る。
【そっか】【いつもお疲れ様】
その瞬間、身体がふっと軽くなる感じがした。乃愛は濡れるのも厭わずスマホを胸の前に抱いて、瞳を閉じて、息を吸って、吐いた。
いつもお疲れ様。たった一行の言葉を、頭の奥で何度も反芻する。言葉は次第に莉人の声となり、莉人の姿形となって、乃愛の中に立ち現れる。裸の乃愛はそっと抱き寄せられ、彼我の境界が曖昧になり、思わず頭がぼーっとしてきたところに、
「乃愛? いつまで入ってるの? 大丈夫?」
母の声ではっと我に返る。扉越しに「もう出る」とだけ返してから、トーク画面のスクリーンショットを撮った。
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