泉の女神

加賀 魅月

本編

 ある街の外れ、森の奥深くに、透き通った水でいっぱいの泉がありました。昔の人々はその泉には美しい女神さまがいると信じていましたが、今ではその伝承も忘れ去られてしまっていました。

 その森の中に、ひとりの男が住んでいました。男は木を切って商売をするきこりでした。きこりは泉が大好きでした。だから、きこりは泉のすぐそばに家を建てていました。こんなにもきれいな泉にどうしてみんな近寄らないのだろう、と不思議に思っていました。 人々が近寄らないのは、もちろん理由があります。森は本当に深いのです。その上、森に立ち入ると災いが起こると思われていたのです。

 ある日、きこりが泉の近くの切り株に座ってお昼ご飯を食べていると、手を滑らせてサンドイッチを泉の中に落としてしまいました。きこりは残念な気持ちになりましたが、仕方がないと思い直し、仕事を再開しようと立ち上がりました。 その時です。 泉の中から女神さまが出てきました。出てきたと言っても、泉の上に立っていたのではありません。あたまの半分だけ出して、口をぶくぶくさせていたのです。

 ぶくぶくさせたまま、女神さまは言いました。

「あなたは誰ですか?」

「きこりの仕事をしているものだよ」

「きこりさんがいま落としたものはなんですか?」

「サンドイッチだよ」

「さんどいっちですね。さんどいっち、さんどいっち……」

 女神さまは考えるような仕草をして、それからぱっと満面の笑みを浮かべました。

「さんどいっち、とてもおいしかったです!」

 それきり、女神さまは泉の中に帰って行きました。



 翌日、きこりは同じように泉のそばで休憩をしました。ずっと泉を眺めていましたが、波風ひとつ立ちません。

 そこできこりは思い立って、足元に落ちていた小石をひとつ、女神さまを傷つけないようにそっと投げ入れてみました。

 ぽちゃんと小さな音がして、泉の中から光が満ちてきました。そしてその中からそれはそれは美しい女神さまが姿を現しました。女神さまは、こんどは全身で出てきて、泉の上に立っていました。

「あなたが落としたのは金の斧ですか? それとも銀の斧ですか? ……もしかして、『さんどいっち』ですか?」

「残念ながら今日はサンドイッチじゃないよ。斧は商売道具だし、できれば何も落としたくないんだけどなあ」

 すると、女神さまはみるみるうちに涙目になって叫びました。

「さんどいっちじゃないきこりさんなんてキライです! わたしは帰ります!」

 ぶくぶく。女神さまは帰ってしまいました。

 しんと静まり返った泉に向かって、きこりはつぶやきました。

「残念だなあ。今日はとっておきのミートパイを焼いてきたのに」


 ざぷん。女神さまが顔を出しました。

「……みーとぱい、ですか?」

「そうだよ。うちのかまどで焼き上げたばかりの、あつあつのミートパイ」

「……さんどいっちとは、ちがうのですか?」

 きこりはバケットの中からミートパイを取り出して、女神さまに見せてあげました。

「しかし困ったなあ。今日は大きく作りすぎてしまったよ。ひとりで食べきれないかもしれないなあ」

「あ、あの! わたしも食べてあげますよ!」

「でもなあ、女神さまには嫌われてしまったからなあ」

「ごめんなさいキライじゃないですみーとぱいをください」

 きこりは女神さまを見るのははじめてでしたが、女神さまのよだれを見るのはもっとはじめてでした。


 それから、きこりは毎日女神さまと一緒にごはんを食べました。女神さまはきこりの足音をきいて泉から顔を出すようになり、時にはきこりが木を切っているのを楽しそうに身を乗り出して眺めていました。


「女神さまはいつからここにいるの?」

「ずっとずっと前、泉ができてすぐの頃です」

「さびしくなかったの?」

「忘れました。あなたが来てから楽しいから」

 女神さまはいいました。

「あなたこそ、ひとりぼっちでさびしくないですか?」

「忘れたよ。君がいるからね」

 女神さまはうれしくて笑いました。泉の底にある銀ぴかの斧のことを思い出しましたが、もう何も思い出せないのでなかったことにしました。


 そんなある日、きこりは流行り病に冒されてしまいました。街に切った木を売りに行った翌日のことでした。街で人々が病に冒されて次々に死んでしまっていることは知っていましたが、女神さまの泉のすぐ横に新しく家を建てたため、お金が入り用だったのです。だけど、このままでは本当に死んでしまいます。ぐったりと寝込んで、窓際から心配そうに慌てる女神さまに看病をしてもらいました。

「もしも僕が永遠と手をつないでいたら、絶対にその手を放さないで、女神さまのために噴水のある大きな家を買うのに」

 きこりは、女神さまの前ではじめて弱音を吐きました。

 本当はずっと思っていたのです。きこりの一生は、女神さまにとっては一瞬の出来事にすぎないのだと。実際に、この生活の中で段々と歳を重ねるきこりに対して、女神さまは姿がまるで変わっていません。

 今はまだ斧を振る力が強くなったことを素直に喜べる日々ですが、これからきこりはさらに歳をとって、いつしか腰が曲がって斧も満足に持てなくなる日が来ます。そうでなくたって、今みたいに病気に冒されてあっさりと死んでしまうかもしれません。

 きこりは女神さまのそばにいられなくなることを思うと、とてもさみしくなってしまうのです。


 女神さまは、苦しくてうんうん唸るきこりにコップ一杯の泉の水を飲ませました。するときこりは少しだけ気分が楽になって、眉間のシワがひとつなくなりました。泉の水は神さまの水で、人々を癒す力があるのです。でも、何しろ死へと向かう大病です。きっと山の向こうの死神さまが仕事を始めたに違いありません。だから、少しの水では足りませんでした。女神さまはもっともっとお水を飲ませ続けました。たくさんたくさん飲ませました。

 きこりのおなかがぷくっと膨れあがるほどに水を飲み込んだころ、きこりの病気はすっかり良くなりました。「ありがとう、女神さま。本当にありがとう。女神さまともっと一緒にいられることがたまらなくうれしいよ。実は飛び上がって踊りたいんだけど、お腹がぱんぱんで起き上がれないんだ」

 女神さまは「あはは」と笑って、きこりの代わりに踊りました。女神さまも、いいえ、もしかしたら女神さまの方が、きこりと一緒にいられることがたまらなく嬉しかったのです。泉の水は減りましたが、そんなの全然へっちゃらです。泉の水はたった三分の一すらも減ってはいないのですから。


 それから、きこりは仕事を再開しました。女神さまは何も言いませんでしたが、きこりは病気の時に飲んだ水が泉の水だったのだということには気づいていました。ほんの少しでしたが、確かに泉の水は減っていたのですから。だからきこりは、それから病気に気をつけて、健康な生活を心がけました。女神さまもきこりに元気でいて欲しかったので、事あるごとに泉の水を飲ませようとしました。

 そういうとき、きこりは決まってこう笑います。

「ありがとう女神さま。だけどこの腕を見てよ。僕はまだまだ力いっぱい斧を振れるよ。この斧は片手で持つととっても重いけれど、僕にとってはへっちゃらなのさ」


 けれども、きこりにはやっぱり老いがきます。髪に出来立てのサンドイッチよりも白い色が見えはじめた頃、きこりは足を悪くしてしまい、家から出ることができなくなってしまいました。

 女神さまがきこりの家に遊びに来ることはできますが、反対にきこりが泉の方へ行くことはできなくなってしまったのです。

 女神さまは何度も何度も泉の水をきこりに飲ませましたが、足は全く良くなりませんでした。きこりの足が悪いのは歳をとったからです。病気じゃないので、泉の水は効果がありません。

 もちろん、女神さまがそのことを知らないわけがありません。それでも、女神さまはきこりに笑ってほしくて、たくさんたくさん水を飲ませました。


 そんな日々が、もう何年も続きました。

「女神さま、無理をしなくていいんだよ。泉の水はもう歯磨きをするほども残っていないのだろう?」

「ううん。泉の水が尽きることはありません。なにしろ神さまの水ですから」

 ふんすと胸を張って、女神さまは生まれてはじめてウソをつきました。泉の水は、もうコップ一杯分しかなかったのです。

 それは優しいウソのつもりでした。女神さまは、きこりが笑ってそばにいてくれれば他に何もいらなかったのです。泉の底に眠るきらきらの銀ぴかよりも、きこりの笑顔の方が女神さまにとっては宝ものでした。

 でも神さまの神さまは、この女神さまのウソを許しませんでした。泉の女神は誠実で潔白でなくてはならないからです。

 そこで、神さまの神さまは、罰として泉の水を猛毒に変えてしまいました。 でも、女神さまはきこりのことで頭がいっぱいだったので、そのことに気がつきませんでした。


 きこりがさいごに飲んだ泉の水は、死に至る死神さまの病気よりも恐ろしいほどの猛毒でした。それほどの猛毒なので、きこりは一口飲んだだけで毒だということがわかりました。だけど女神さまが心配そうに見つめていたので、全部飲み干して笑いました。

「女神さま。僕は幸せだったよ。金も銀もいらないけれど、女神さまの金ぴかの笑顔はいつか僕だけのものにしたかった」

 そう言って、きこりは息絶えました。


 女神さまはきこりの大切にしていた斧を抱いてカラカラに干からびた泉に行き、そこで銀色の涙を流しました。

 それはどこまでも透き通っていて、きこりの宝ものみたいにきらきら光りました。

 次第に涙は女神さまの顔からこぼれ落ちて、枯れてしまった泉をいっぱいに満たしました。たくさんたくさん泣いて、女神さまは泉の底でうずくまりました。そうしてきこりの斧を大切な宝ものみたいに抱きしめました。すると、きこりの斧がきらきらと光りだし、金色にぴかぴかと輝きました。

 そのことを知ってか知らずか、女神さまは泣き疲れて眠ってしまいました。

 女神さまは今も森の奥深く、泉の底で眠っています。

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