水面に揺れる

 高速通信に気を良くし普段はあまり利用しない動画サイトを見ていると、不意にスマホの画面に影が落ちた。

 何事かと思い顔を上げると、椅子に腰掛けている俺とほとんど変わらない高さにあった目と視線が合う。

「なんだ南海か」

 普段ならすぐに「五月!」と上がるはずの声が聞こえてこないことで、彼女の身に何か起きたのではないかと不安がよぎった。

「どうした?」

 俺の目を見つめたまましばらく黙していた彼女だったが、再度「南海?」と名を呼ぶと、おもむろに口を開いてこう言った。

「……うちらの部屋、オバケが出るかもしれない……」

「え? お化けってあのお化け?」

 胸の前に手をぶらんと下げるジェスチャーをして見せると、小さく頷いた彼女の表情の不安さが増す。


 スマホをテーブルの上に置いてから近くにあった椅子を引いて南海を座らせると、彼女の言った『おばけ』について詳しい話を聞くことにした。

「――で、お化けって?」

 彼女はなぜだか辺りを見回してから、腰掛けていた椅子を引き摺り俺のそばまで寄ってくると耳元で囁いた。

「……うちらの部屋、事故物件みたいなの」

「事故物件?」

「同じ部屋の子……っていうか、舞ちゃんなんだけど。舞ちゃんがネットでね、そういうのを調べられるサイトを冗談半分で見てみたら、『宿泊客が服毒自殺』って書いてあったの」

 そういうサイトがあるという話はどこかで聞いたことがあったが、よりによってまさに今夜ここに泊まろうという時に、何もそんなものを見る必要もないだろうに。

「五月、どうしよう」

 どうしようも何も、出来ることといえば教師に事情を話して部屋を替えてもらうか、調理場に行っり塩でも貰ってくるかしかないのだが、普通に考えれば前者だろう。

「先生に言って――」

「すぐに言ったけど、くだらないネットの書き込みを信用するなって怒られちゃった」

 まあ、大人に話したところでそうなるのが普通だろう。

「う~ん……。少し時間貰ってもいい? 夜までには何とかするから」

「ホントに? ホントになんとかしてくれる?」

「一応、多分だけ何とかなると思うから。ところで舞は?」

「まだ食堂でケーキ食べてるんじゃないかな。私が見てた時でも三個くらい食べてたけど」

 自分の宿が曰く付きだというのに、大した胆力の持ち主だ。


 俺は急いでエレベーターの乗り部屋に戻ると、キャリーバッグの中から修学旅行のしおりを取り出して目を通した。

「思った通りだ」

 部屋の構造は女子の部屋も男子のそれと変わらないだろうから、ベッドは基本的に四台置かれているはずだ。

 しかし――どんな理由かは知らないが――男子は一部屋に四人、女子は三人がそれぞれ割り当てられていた。

 つまり、ベッドはかなりの数が余っているということになる。


「ってことだから、事情は濁してどこかに潜り込ませてもらえば?」

 ロビーに戻って作戦を伝えた途端、南海の小さな身体が勢いよく胸に飛び込んでくる。

「ありがとう! 五月大好き! こんなコトならあの時カレシにしとけばよかった!」

 そういえば昔そんなこともあったな、などと悠長にしている場合ではない。

 もしこんなところを舞に見られでもしたら――。

「南海ちゃんとなら二股でもいいけど、私が本命じゃないのは嫌だよ?」

「うわ! 出た!」


 そうこうしているうちに集合時間が近づいていた。

 ロビーの赤絨毯は人の山の下に埋もれて再び見えなくなった。

 行く場所とやることが決まっていたこともあり、頭数の揃ったクラスから早々とホテルを出て行き、ロビーには我がクラスだけがポツンと取り残されていた。

「ねえイツキ。聖くんは?」

「知らん。別に俺は保護者じゃないし」


 十分ほどしていよいよ痺れを切らせはじめたクラスメイトたちから苛立ちの声が上がり始めた時、ようやく現れた聖はその口をモグモグと動かしながら満足げな表情で悠長に歩いて近づいてくる。

 クラスを代表して俺がその尻に強キックを食らわせると、彼は赤絨毯の上を数メートル転がってからピクリとも動かなくなった。

 その哀れな姿に何とか溜飲を下げたクラスメイトたちを伴い、すっかりと日の暮れた北国の町へと繰り出す。


 ホテルから二〇〇メートルかそこらの距離を歩いただけで、いかにも『観光地です!』といった雰囲気の石畳の通りに辿り着いた。

 すぐ目の前にはかの有名な運河を流れる川が沿道のガス燈の灯りを反射し、まるで最新のCGによる水面処理のようにキラキラと光り輝いていた。

 十七年の人生で初めて目にしたガス燈の灯りは、普段LEDのそればかりを見ている現代っ子にとって、ただ眺めているだけで心が癒やされるような不思議な魅力があった。


 すぐ目の前を南海と手を繋いで歩いていた舞が、ゆっくりと振り返りながら口を開く。

「この景色を見れただけでも北海道に来てよかったって気がしない?」

 彼女の大きな瞳の中に揺れるガス燈の灯りを見つめたまま、「俺も今おなじことを思ってた」と返答してから二人の横に並ぶ。

「俺、今の三年の修学旅行先は沖縄だったって聞いてたから、本当はちょっと羨ましかったんだ。

 その理由を詳しくいえば、本場のソーキそばやサーターアンダーギーが食べたかっただけなのだったが。

「でも、町並みといい静けさといい、こっちが正解だった気がしてきたよ」

「沖縄は修学旅行じゃなくって、自分たちで行った方が自由が利いていいかもね。大学生になったらさ、夏にでもみんなで行こっか?」

「いいね! 約束ね!」

 舞が提案した少し未来の旅行計画に、南海が大きく首を縦に振って賛同する。

 聖抜きでなら俺もぜひ参加させて貰おう。

 それにしても、北海道の夜を満喫しながら真夏の沖縄の話をするというのは、何とも贅沢且つお得な気がするのは俺だけだろうか?


 ガイド役の副担任――彼女は社会科の教諭であった――による歴史の説明を受けながら一時間も掛けて運河と煉瓦造の倉庫を見て回ると、やがてスタート地点にほど近い場所へと戻ってきた。

 三泊四日の修学旅行初日である今日は、実質その殆どを移動に割かれたのだが、それも含めて楽しい思い出となったように感じる。

 あとはホテルに戻って風呂に入り、就寝時間までに聖を寝かしつければ本日の日程はすべて終了となる。

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