ある日 森の中

 ここのキャンプ場は大きく分けて三つからのエリアで構成されている。

 まずは俺たちが練習に勤しんだ、テニスコートのあるアクティビティーエリア。

 テニスのコートが八面と9ラウンドからなるグランドゴルフ場、それに山の地形を利用したアスレチックなどがある。

 二つ目のエリアは、レストハウスとそれに併設された管理事務所と多目的ホールのある建物群。

 そして残りの一つが、今夜の寝床となる十棟のロッジと屋外炊事場を擁するキャンプ場本体だ。

 そして今、俺と舞が歩いている遊歩道は、それらのエリアを一周する形で整備されたもので、すぐ脇に流れる清流の河原にはバーベキューを楽しむ親子連れの姿もあった。


「明日の夜は私たちもバーベキューをやるって、さっき先生が言ってたよ」

「ああ、そういえば去年も二日目の夜はそうだったかも」

 もっとも当時は一年坊主だったので、雑用ばかりしていた記憶しかなかったのだが。

「私、こんな山の中にのって初めてだし、バーベキューもやったことないし、テニス部に入ってほんとよかった! ありがとう、イツキ」

「ありがとうって……俺がテニス部に誘ったんだっけ?」

「ううん。でもイツキのおかげだよ」

 舞はたまによくわからないことをいう。

 それも今に始まったことではないのだが。

「私たちが付き合った日にイツキ、言ってくれたよね。『初めて会ったあの瞬間にはもう、僕は君の瞳に恋をしていた』って」

 残念ながらそんなことを言った記憶はなかったが、残念ながら似たようなニュアンスのことを言った記憶はある。

「それね……私も、同じだったから。だからイツキと同じテニス部に入ったの」

 また俺の反応を見て楽しむつもりなのかと思ったが、彼女はそう言った後に頬を赤らめてそっぽを向いてしまった。


 やがて遊歩道は川から離れると、やや本格的な里山の中に入っていく。

 そこらかしこから蝉の声が降り注いでいるが、木々から放出されているマイナスイオンのおかげか、それとも先ほどの彼女の言葉のせいかはわからないが、とても心地よいのは間違いなかった。

 人々が癒やしを求めて山に出掛けるのがよくわかる気がする。

 だからだろうか、俺はずっと思っていたことを彼女に聞いてみようと思った。

「舞はさ、なんで俺と付き合おうと思ってくれたの?」

『お前は真っ昼間から何を言っているんだ』と、頭の中にいる自分Bが冷めた顔で突っ込んでくるが、それを黙殺して言葉を続けた。

「俺の何がよかったの?」


 彼女は唐突に足を止めると、組んでいた腕を離して一歩だけ後ろに下がり、俺の顔をじっと見つめてくる。

 宝石のような輝きを放つ彼女の瞳の中に映る自分の顔の情けない表情に、思わず目を背けそうになるのを必死に堪えていると、彼女はたった一言、三文字だけの言葉をその柔らかそうな唇から発した。


「ぜんぶ」


 思いも寄らないその返答内容に背筋がぞわぞわと粟立ち、わずかに遅れて首から上が一気に熱くなるのを感じた。

 彼女の表情や仕草からは今言ったことが嘘だとは思えないが、顔も勉強も運動もすべててにおいて十人並みな俺の、いったい何が良いというのだろうか?

 そもそも人は、他人の『全部』を好きになることなど出来るのだろうか?

「じゃあイツキは? 私のどこを好きになってくれたの?」

 グルグルと回る思考に捕らわれていた俺の耳に彼女の声が届き、急に現実世界に引き戻される。

「……あ」

「なあに?」

「俺も……全部」


 一度解かれた手を再び握ったのは俺からだった。

 あまり乗り気になれなかった散歩の誘いではあったが、思わぬところで彼女の、そして自分の気持ちを知ることが出来た俺は、今や緑色の木漏れ日が射し込む遊歩道を、まるで待ちに待った散歩に連れ出して貰った仔犬のようなテンションで歩いていた。

 我ながら単純で幸せな脳の構造をしていると思う。

 もっとも、その雲の上を歩くような浮かれた気持ちは、直後に起きた出来事によって一瞬にして消え失せてしまったのだが。


 二人の足が止まったのは完全に同時だった。

 進行方向の、ほんの五メートル向こうにある遊歩道脇の茂みが、激しく音を立てて揺れた。

「……イツキ、みた?」

「シッ!」

 彼女の顔の前に腕をかざして言葉を制すると、視線は茂みに向けたまま、極力穏やかな声色かつ彼女の耳の届く限界の声量で言う。

「俺がいいって言うまで絶対に喋ったり動いたりしないで」

 返答が返ってこなかったことで、改めて彼女が聡明な頭脳の持ち主であることを思い知った。


 茂みを揺らしたナニカが熊ではないことはわかっていた。

 なぜならここがいくら山奥とはいえ、熊の生息地とは数十キロは離れていたからだ。

 だとすればイノシシかカモシカ、もしくはニホンジカのいずれかだろう。

 危険度でいえば圧倒的に猪だが、カモシカとて出会い頭に遭遇すれば、ヒトにとっては大きな脅威であることに変わりはない。

 再び大きく茂みが揺れると、遂にそのナニカが姿を現そうとしていた。

 相手がイノシシであれば、俺がいくら頑張ったところでどうにもならないかもしれない。

 それでも俺は腰を落として拳を握りしめる。

(たとえ俺はここで死んでも、舞だけは絶対に逃してやる……)

 そんなファンタジーゲームの主人公のようなことを本気で思った。

 すぐ後ろでは舞が息を呑む気配がした。

 ニホンジカならば先方がこちらの姿を認めた時点で、向こうの方から逃げ出してくれるだろう。

(頼む! ニホンジカであってくれ!)



 茂みをかき分けて出てきたのはイノシシでもなければカモシカでもニホンジカでもなかった。

「ビビった? 二人ともビビった?」

 両手に葉のついた木の枝を手にしたそいつは、『大成功!』とでも言わんばかりに誇らしげな顔で俺たちの方へと近づいてきた。

 俺も彼の方へと歩み寄ると、握ったままだった拳を利用して肩に思い切りパンチをお見舞いする。

「ってえな! なにすんだよっ!!!」

 腹にも一発お見舞いするか悩んだが、肩を押さえて本気で痛がっている姿に免じて、握っていた手を解くと舞の方へと戻った。

「ごめん、舞。馬鹿さとしバカだけど悪気はなかったはずだし、許してやって欲しい」

 そう言って聖の代わりに頭を下げたのだが、彼女は俺の目を見たまま微動だにしない。

 可哀想に、よほど恐かったのだろう。

「……舞。もう大丈夫だから」

 俺は優しく声を掛けながら、彼女の肩にそっと手を置く。

「――あ。もう動いてもいい感じ?」

 彼女はけろっとした表情で「じゃあ、三人でお散歩の続きしよ!」と言うと、聖の手から取り上げた木の枝を楽しそうに振りながらとっとと歩き始めた。

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