第35話:『花街』の優しいうどん

『スパイさんの晩ごはん。』

第三章:ツーク・ツワンクの老人たち。

第七話:『花街』の優しいうどん


あらすじ:クソジジイウザい。

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『ツーク・ツワンク』を出た時にはすでに日は傾き、空は真っ赤に燃えていた。普段より早い時間だが、今は老人たちの軽口に付き合いたくないのだから仕方がない。


三軒隣にある『旅のうさぎ屋』はすでに店仕舞いをしていて、奥の厨房にほんのりと明かりが見えた。閉まるドアに見覚えのあるスカートが翻えり消えていく。


たぶんシャロットのものだろうが、今は彼女に会わせる顔もない。老人たちに冷やかされた今は。


『『旅のうさぎ屋』の店仕舞の時間じゃの。』

『シャロットちゃんと待ち合わせか?!』 『ターニップちゃんと合いびきかもしれんが、どちらにせよ色男じゃのう。』


彼女は、彼女たちは本当に私に気があるのだろうか?


いや、たとえ彼女たちから望まれたとしても、私には彼女たちを受け入れる資格は無い。


私は彼女たちから見れば、敵国の人間だ。自分の国を勝たせるために、有利にするために、この街に入り込んで情報を盗み出している。その情報を基に兵士たちは剣を抜き、この街を目指して戦う。


私はこの国を潰そうとしている。


彼女たちの平和な世界を壊そうとしている。


私達の国が勝てば、彼女たちの生活が一変する。その時、私の力で彼女たちの片方は助けられるかもしれない。夫婦となっていれば。


しかし、彼女たちはそれに同意してくれるか。彼女たちは私について来てくれるかも知れないが、その両親は。家族は。親族は。どこまでが助けられるか。


彼女たちの友達や隣人は助けられない。


逆に、彼女たちの国が勝てば、私は捕まるかも知れない。私は彼女たちを置いて逃げられない。私が捕まれば、たとえ真実を彼女たちは何も知っていなくても、悪い噂をたてられるだろう。彼女たちはこの街にいられなくなる。


私はこの国に入り込んだ毒だ。


そんな私が彼女たちを幸せにできるはずもない。


だから、なるべくなら名前も呼びたくなかった。心の中でも名前を呼べは情が湧く。黄な粉豆の少女は、黄な粉豆の少女の少女のままで良い。


私は星明りを避けて暗い裏路地に逃げ込んだ。自分がどういう顔をしているか知らないが、きっとロクでもない顔になっているに違いない。私は暗い道を選んで歩く。明かりの無い場所を、団欒の声の聞こえない場所を探して。


自分のアパートに戻る勇気も出てこない。


戻ればターニップの笑顔を見てしまうから。


いくら私がその手のことに鈍いとはいえ、ターニップが懐いてくれているのに気づいている。星空を見ながら私の帰りを待って、少しだけする会話を彼女は心から楽しんでくれているように感じていた。


こんな愛想の無い男のどこが良いのか知らないが、気の無い男にこれだけ構う事も無いだろう。他の住人よりも距離が近いく、あれやこれやと世話を焼いてもらっているのだから、無碍にもできなくなってしまっている。


心が嫌がるままに暗い道を選び続けていると、華やかに響く高い楽器の音が聞こえてきた。人のざわめきが聞こえ、ひときわ明るく輝く光。


欄乱と輝く花街。


一日を終えた家族が集まって、優しい光の中でとる団欒の時間。あるいは、疲れを癒す暗闇の時間。しかし、ここだけは煌びやかに輝いて、着飾った女たちが男に作り物の甘い声で囁く。


「あら、にいさん。見ない顔だね。」

「ねえ、おにいさん。今日はうちに寄っといでよ。」

「いい娘が揃っているよ。」


情けない。女の事を考えていたからと言って、男に都合の良い女ばかりの場所に来てしまうとは。女を買って憂さを晴らしてしまえと言わんばかり。しかし、強い光に心はどこかホッとしていた。今は団欒の優しい光の方が心を乱す。


「そこの男前のおにいさん!」


ひとりの女に腕を引かれる。


女の強い香水と煙草の匂いが、混じって咽そうになる。だが、腕を引かれるとふらふらと足は従ってしまう。まるで炎に惹かれる羽虫のように。このままでは罪悪感がさらに膨れてしまうと知りながら。


「おにいさんなら安くしとくわよ。」


やたらと体を寄せてくる客引きの女に腕を引かれて、ふらふらと導かれるままに足を進めていると、聞き覚えのある声に名前を呼ばれた。


「あら、マートン。」


本当の名前では無いのに、今はそれでしか呼ばれない。それを残念に思いつつ振り返る。


きらびやかな灯りに輝らされて、いつもより化粧は鮮やかに見えるが、裏の裏の裏の店『千鳥足の牡牛亭』で馴染の顔。強い意志を宿した瞳は間違いないなくクエイルだ。


客引きをしている女たちと同じようなドレスを着ているが、生地の質が良く飾りも多い。とても華やかだとは思うが、ぬか漬けの出来栄えを喜んでいる、いつもの姿の方が美しかったのにと私はぼんやりと思った。


「ねぇ、そんなオンナ放っといてさっさと行こうよ。すぐそこだからさ。」


客引きの女が私の腕を引く力を強める中、私がクエイルの顔をじっと見つめていると、彼女は私の顔を覗き込む。


「酷い顔ね。」


「ねえ、ちょっと!私の客を貶さないでくれる?」


香水の匂いを更に強くして女が間に入って抗議をするが、私は彼女の肩をつかんで脇に押しのけた。客引きの女はなおも腕を絡めて私を店へと連れて行こうとするが、クエイルの出現で少しだけ頭のはっきりとした私は、手を振って客引きの女を下がらせる。


「悪い。知り合いだ。」


「ばーか!ばーか!アンタなんか死んじゃえばーか!」


去り際に汚くののしられてしまったが、気を持たせたのは私だ。彼女は長い時間かけて捕まえたせっかくの客を横取りされたのだ。暴言を吐く権利くらいはあるだろう。


「よかったの?」


「ああ、どこかに美味い店は無いか?」


たぶん、同郷の知り合いに会えてホッとしたのだろう。彼女になら私も愚痴を零せるし、もしかしたら同じ思いをしているかもしれない。落ち込んでいた気分が少しだけ回復すると途端に腹の虫が騒ぎ出した。


結局、『ツーク・ツワンク』では薄い生ハムと酒と、添えられた少量の野菜しか食べていない。いつもなら老人の相手をもう数回したら適当な物を食べるのだが、出てきてしまった。


「ウチの店に来る?」


「気楽に食える店がいい。」


「面白くないわね。」と言いながらも、クエイルは慣れた足取りで歩き出す。華やかな街の裏の道。花街で働く者たちが小腹を膨らませるためにやってくる粗末な店。


夜の蝶や下男が忙しなく食べて、そして仕事に戻っていく。店主もそんな花街の客を慮ってか目も合わせない。


「いつもの二つ。」


「ああ。」


飾りも無い店の飾ら無い店主が、飾りの無いウドンを出す。商売っ気の欠片も無い店。


だが、味は美味い。


白い麺はもっちりと柔らかく、牛の筋からとったいうスープにはとろみが付いていて、浮いている掻玉の間に牛の筋の残りカス。真ん中には三つ葉が添えられていた。


ウドンと言えば味噌煮込みウドンの私には少々薄味だが、アルコールで痛んだ花街の仕事人たちの胃には優しそうだ。それは私のように滅入った気持ちを持った者にも。


クエイルは箸を割り、整った顔が歪むのも気にせずに、ずるずるとウドンを啜る。プハッとひと息つくと私に聞いた。


「それで、何があったのよ?」


そんなに酷い顔をしていたのだろうか。自覚していなかっただけに、ここまで心配されるとは思っていなかった。


だが、クエイルの顔を見つけた時のホッとした気持ちとは裏腹に、私は情けない話をなかなか口にできなかった。襟元を絞り上られるまで。私はぽつりぽつりと話し出す。


「実は…。」


このような話は他の人間にはできない。同じ国を持つ仲間にしか言えない悩みだから、この機会を失えば私は吐露する機会を失い、もやもやと自分の内に抱えてしまう。


私は彼女に甘えた。


幸いにして花街の人々にとって今は仕事の時間で、裏にあるこの店に来る客は少ない。それでも身元が割れるのを恐れてぼかして話したのだが、同郷のクエイルには伝わるだろう。


「贅沢な話ね。」


クエイルが豪快に喉を鳴らしてドンブリを空にした。そして、小一時間ほど説教された。いつの間にか酒が入り、それはもうネチネチと。ネチネチと。店には色々な客が入ったが、私達に関わらずに去っていく。


「アンタに女心の何が解るって言うのよ!」


女性であるクエイルがこの国の情報を得るためには、この国の重要人物を落とすのが手っ取り早い。熱を上げさせて、油断した相手から重要な機密を聞き出す。彼女が弟の代わりになれた理由もその辺りにある。


クエイルは相手を選ぶ事ができない。


相手となりえる男は重要な情報を持っている人物だけで、たとえ別に気になる男ができたとしても彼女は気のあるそぶりさえ見せる事ができないのだ。


「しかしだな…。」


「黙りなさい!!」


クエイルがばしんとテーブルを叩くと、空になったドンブリとグラスが浮いた。相談する相手を間違えたようだ。少しだけ自己弁護をしようとしただけなのだが、酒は深くなり説教はさらにネチネチと長くなった。



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次回:『2人』の朝食



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