第10話:夜のアパートの『仁王』

『スパイさんの晩ごはん。』

第一章:敵の国でも腹は減る。

第十話:夜のアパートの『仁王』


あらすじ:妖艶な美女はぬか漬けを作るのが趣味。

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適度に酔った私がラディッシュの『千鳥足の牡牛亭』を出たのは少し夜が更けてからだった。乾杯の後は雑談をしていたのだが、『緑茶割り』でせこせこと楽しもうとする私にクエイルが苦笑いともう一杯のグラスを残し、彼女は夜の店へと出勤していった。


彼女は店を出る前に涙の跡を化粧で隠し、凛々しい目つきを携えていた。


夜の店。


そこは彼女にとっての戦場なのだろう。


私はオックスから受け取った報酬で安いサンドイッチを買い、軽い足取りで帰路についた。微かな縁であったとしても、女を幸せにできたなら男にとって冥利に尽きる。それが妙齢の美しい女性なら尚更に。女性が苦手な私でもそう感じる。


だが、私の幸せは長くは続かなかった。


アパートの階段の入り口に、目を吊り上げたターニップが王立ちで待っていたのだ。せっかくの酔いが醒めていくのを感じるが、私が彼女に何かをしたという心当たりが無い。


「お帰りなさい。ねえ、なんか香水の匂いがしない?女の人の。」


険しい顔のターニップは私の胸元に詰め寄って睨んだ。


匂いについては心当たりがある。たぶん、クエイルが化粧を直した時に移ったのだろう。くしゃくしゃに崩れた顔で店に出るわけにはいかないだろうし、ぬか漬けの匂いを消すためにも香水を振る必要があった。オックスが珈琲の匂いが変わると苦情を呈していたのでよく覚えている。


ターニップはその、とうに別れたはずのクエイルの微かな痕跡を嗅ぎ当てたらしい。


年頃の娘としてアパートの住人が異性の匂いを漂わせていては不快なのは解る。それも、初めて訪れた街でチキン先輩の他に知己が居ないと知らされていた私のこと、恋仲の人物ではない事は明白だ。


しかし、困った。


クエイルと会った『千鳥足の牡牛亭』はできるだけ伏せておきたい。


食事に招かれた時のターニップの家族は本当に仲が良さそうだった。だから、彼女に知られれば、彼女の家族に伝わる可能性が高い。その中でも父親のラディッシュに伝わると特に都合が悪い。


私が働くのは王宮になる。


機密が多く存在する王宮なら、私の監査や紹介状の裏付けのために聞き込みにくる可能性が高い。その時にはアパートの大家であるラディッシュが必ず対象になるはずなのだ。それに、ターニップの知り合いには王宮の裏門の門番がいて、彼はラディッシュの店の常連だ。


王宮の人間、それも情報を扱う部署に『千鳥足の牡牛亭』を知られることになり、下手をすれば、オックスから天国への片道乗船券を渡されかねない。まぁ、ラディッシュからでは無くてもどこからどういう噂が流れるか解った物じゃないのだが。


だが、女性が相手をしてくれる店に行ったと告げるのは情けないし、不愛想な私が女性を誘ったと言っても現実味がない。王宮の監査で女性にだらしないと思われれば減点対象にもなりえし、なにより、ピザ屋の一件でターニップは私が財布を掏られて金が無いことを知っている。


「知り合いの商人の姉に偶然会ったのだ。」


ターニップとはアパートに出入りするたびに顔を合わせることになりそうなので、嘘に塗れた言い訳をしたらいつ綻びが大きくなるか解らない。なので、私は嘘をなるべくつかない方向に、かつ、大事な所をぼかすように言葉を選んだ。


『うずらの寝床屋』の跡継ぎとは知り合いだし、クエイルが彼の姉であることは間違いない。過去に顔を見た気はするがクエイルとは認識していなくて、知り合ったのは昨日だが、綻びを生まないような些細な違いだろう。


「…お酒の匂いもする。」


「ああ、長いこと家族と離れて暮らしている人で私が知っている近況を伝えたら、礼だと言って奢ってくれた。弟の近況を知って化粧が崩れるほどに泣いてしまってね、直した時に香りが移ったのだろうな。」


「どんな人?」


「そうだな…。」


そこで少し頭を悩ませた。夜の仕事をしている妖艶な彼女の姿を伝えれば、彼女の店に行っていたと疑われかねない。かといって、架空の存在、例えば『うずらの寝床屋』で働いていた頃の素朴な姿を伝えたら、嘘を重ね続ける羽目になりそうだ。


「芯の強い、尊敬できる女性…だ。」


実家とは言え『うずらの寝床屋』を守るために、軍に志願して敵国に乗り込んだ勇敢な女性。素朴だった彼女が変わったおかげで、私はその後ものうのうと美味い『ぬか漬け』を食べられたのだ。彼女の勇気ある行動を知らなかった過去の自分を攻めたいくらいだ。


「悔しいわね。」


「悔しくはないだろう?彼女はとても苦労していたし、その苦労はこれからも続く。家族に愛されて平和に生きていられるターニップの方が、彼女に羨ましがられる立場だと思うのだが。」


「そうじゃなくて!」


「だが、家族に愛されると言うのも立派に尊敬できる事だと思うぞ。」


私は『うずらの寝床屋』の店先で陽気に笑う弟を思い出す。姉の事で辛い思いをしていただろうに、客が気持ちよく買い物できようにと、いつも笑顔で接客してくれたとても気の良い弟であった。だから、クエイルは弟と家族とぬか漬けを愛したのかもしれない。


愛せる弟だったからこそ、彼女は自分を変えることも厭わなかったのではないだろうか。


昨晩の食卓に招待された時、ターニップも家族に愛されていた。娘に頼まれた父親のラディッシュは初めて会ったばかりの私を快く迎えてくれた。自分の娘が男を誘って家に連れ込んだら、私なら拒絶する自信がある。


ラディッシュが彼女の言葉を素直に受け入れたのは、彼が娘を愛し信じているからで、信じるに値する行動をターニップが日頃からとっているからだろう。人に愛されると言うのは簡単なようで難しい才能だと思うし、それを維持するのには苦労が伴う。十分に尊敬できる人間だと思う。


「…あなたにそこまで言われる人に会ってみたいわ。」


どこで間違えたか。


ターニップがクエイルに興味を持つような話はしなかったと思うのだが。ターニップとクエイルを会わせるのは非常に拙い。チキン先輩だけでも口裏を合わせるのに苦労しているのに、クエイルも増えたら更に大変になる。表の人間には同胞の存在をできるだけ知られたくないのだ。


「彼女は今が仕事中だから、ターニップが起きている時は寝ているんじゃないか。」


「えっ!ちょっと待て!そう言うお店に行ってきたの!?」


ターニップ額に角が見えた気がするのは気のせいだろうか。別に私がどこに行こうと彼女には関係の無いのだが、これから世話になる大家の娘である。良好な関係を築かなければ階段を上り下りするたびに私も彼女も気まずい思いをしてしまう。


「彼女は出勤前だった。」


「ほんとう?」


「ああ、金の無い私がそういう店に行けるわけが無い。」


半眼で問い詰めるターニップに私の背筋を流れる汗は滝のように流れたが、ここで声を絞り出さなければ、いつまで経っても彼女に白い目で見られそうだ。


「そう言う事にしてあげるわ。」


「感謝する。」


「ふふふ。いっぱい感謝してね。はい、これ。これを渡すために待っていたのよ。」


表情をやわらげたターニップは私に布をかぶせたツル籠を力任せに押し付けると、自宅のある2階へと階段を駆け上る。ツル籠の中身は見た目より重くて、押し付けられた私は軽くよろけた。


「明日だって。だから、それを食べて頑張ってね!」


手を振って笑顔でそれだけ言うとターニップは自宅のドアをバタンと閉めた。彼女はこれを渡すために待っていてくれたのだろうが、私は買ってきたサンドイッチの袋とツル籠を両手に途方に暮れた。


ツル籠の中身も明日に何があるかも教えてくれていない。食べろというからには食べられるものだろうが、食べて何を頑張るのか。


だが、途方に暮れる私の疑問のひとつはすぐに解けた。


良い匂いを漂わせるツル籠の上に乗っていた一通の手紙。


それは、私が提出した紹介状を受け取った、王宮からの召喚状だった。



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次回:王宮からの『召喚状』



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