第5話:引っ越しの『買い物』

 『スパイさんの晩ごはん。』

第一章:敵の国でも腹は減る。

第五話:引っ越しの『買い物』


あらすじ:『勇者の雲』は本当に雲のようだった。

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ラディッシュの面接に合格した私は、アパートの鍵を受け取った。5階まで登るのは大変だが、見晴らしは最高と言えるほどに良く、程よく流れる人通りは私にとってはこの街を知るためにも適している。まあ、木端端役人になる予定の私がどれほどアパートに帰れるか知らないが。


こき使われるのは目に見えている。


カビの匂いのしない清潔な部屋の空っぽのクローゼットに、長い道のりで擦れた頑丈な旅の服と傷だらけになった埃臭いトランクを放り込む。私の荷物はこれがすべてで他に無い。


だが、これで引っ越しは終わりではない。


ラディッシュの好意で前の住人が残したというベッドや机を借りられたし、料理をする気は無いので大げさな調理用具も必要ないのだが。


ああ、勘違いしないで欲しいのだが、料理をする気が無いのは外食をすることで街の噂を取り入れるためで、決して料理ができないだとか、下手だとか、死人が出るだとか、そう言う意味では全くない。まあ、食事のたびに薪の束を買って5階まで持ち帰る事を考えると頭が痛いが。


他にも生活する上で必要な品はある。


金が無いのでカーテンは諦めて木戸で代用するが、ベッドを汚さないためのシーツと掛布に枕。お仕着せを掛けるハンガーに少しの薪。湯を沸かすポットは我慢するが、カップくらいは欲しい。


マグカップは旅の間も使っていた物があるのだが、直火にかけられるように金属で作られていて、鍋と兼用できるように大きめなのだ。便利なのだが重くて口触りも悪い。我慢できなくもないが、好みの意匠を探したいし、茶を飲む時くらいは獣道を進んだ記憶を消し去りたい。


私は街を歩いても不自然ではない軽い外出着に替えて階段を降りると、ターニップが箒を持って掃除の続きをしていた。


「あら、もうお出かけ?」


「ああ、いくつか買い足そうと思っている。」


「ウチの店じゃ足りないの?安くしておくわよ。」


そう言えばとターニップの後ろの雑貨屋を覗けば必要な物はだいたい揃っていた。ターニップの趣味なのか可愛い小物が多いが、ハンガーはもちろんポットも揃いのカップも個別な物が手頃な値段で売られている。


なかなかに商売上手で、独身向けのアパートの住人を見込んで1人でも使いやすい物を揃えているらしい。その上、住人には包装代と緩衝材代とを差し引いて安くしてくれるそうだ。


私は必要な品々とひとつのカップを選んで帰りに取りに来られるように取り置いてもらった。5階まで戻るのは面倒なのだ。


「ふふ、思ったより可愛らしいカップを買うのね。」


私はカウンターの後ろに取り置かれた濃藍色のカップを見た。そこにはシンプルな黄色い円を眺める黒い猫の姿が簡略的に描かれていた。自分の感覚では趣深かったつもりだが、ターニップに可愛いと言われると、猫が欠伸をしているようにも見えてしまう。


「これがあれば月の無い夜にでも月見ができる。」


「なるほど、月が気に入ったのね。他に足りないものは?」


「そうだな。シーツと掛布と枕は足りないかな。」


「それは寝具屋の仕事ね。」


悔しそうにふんっと鼻を鳴らしたターニップはちょっと待っていてねと断ると、黄色いエプロンを外して、私を案内してくると、向かいの家の前で将棋を指していたラディッシュに声をかけた。


「店番は良いのか?」

案内をしてくれるのは嬉しいのだが、苦戦を強いられるらしいラディッシュは盤面を睨みつけたまま、真っ赤になっている。彼が店に客が来たことに気付くとは思えない。


将棋は聖女オヨネ様がもたらしたとされるボードゲームの一種で、私も祖父に相手をさせられて多少の心得はある。逆転の目も少ない盤面は終局も近いのだが、こういう手合いはもう一局とせがむ癖がある事を私は知っている。私の祖父もそうだった。


「ルバーブさんが父さんのお尻を蹴とばしてくれるわよ。」


当のラディッシュはこちらに目もくれないが、相手をしている隣人は余裕の表情で手を振ってくれた。私は安心してターニップに頼みごとを追加することにした。


「それでは悪いが、荷物で手が塞がる前に、王宮の裏口に案内して欲しいんだが。」


「ああ、紹介状を渡しに行くのね。」


貴族の書いた紹介状を持って行ったからと言って、相手がすぐに応じてくれない。門番だって暇じゃないので、ただの文官志望者の紹介状のような急ぎでない書類はまとめて運ぶからだ。そうでなければ彼らは書類を受け取るたびに広い王宮を駆け回る羽目になる。


なので、今日、紹介状を渡しても、呼び出されるのは数日後だ。


ターニップのおかげで迷わずに王宮の裏門へとたどり着くと、私を睨む門番に紹介状を渡した。


門番はラディッシュの雑貨屋の常連でターニップが知り合いだったのが幸いして話はスムーズに進んだ。のだが、彼は私には目もくれず連絡も帰りがけにターニップを通じて返事をくれると太鼓判を押した。もしかすると、この門番はターニップに気があるのかも知れない。


「礼にメシを奢ろう。」


街の様子が解らなかったとはいえ予定の寝具屋よりも遠い場所へ連れてきてしまい、ターニップのおかげで話もトントン拍子に進んだ。それに、そろそろ昼飯の時間だ。珈琲とスコーンで満たしただけの小腹はいつの間にか空いている。


「いいの?!嬉しい!!」


「その代わり、美味い店を教えてくれ。私はひとつも食堂を知らないんだ。」


「もちろんよ!」


小走りになるターニップを追いかけて行くと、一軒の小洒落た食堂に案内された。洒落てはいるが、男一人でも気にならない程度で、実際に女性客よりも男性客の方が多くいる。今後も私が使う事を見越して選んでくれたのだろう。


「いらっしゃい。あら、今日はデート?」


「ウチの新しい住人よ、ソシエ。」


ぶっ!と私が吹き出しそうになるのを堪えている間に、ターニップは注文を取りに来た若いウエイトレスに平然と私を紹介した。どうやら、彼女もラディッシュの店の常連らしく、可愛い小物を買っては店に並べるのが好きなようだ。


「新しいお客さんを連れてきたんだから、オマケしてよね!」


「ウチはいつも誰にでも、平等にサービスしているわよ。これ以上、オマケしたら大赤字よ!」


朗らかに笑うウエイトレスにターニップが2人分を注文すると、すぐに熱々の『ピザ』が出てきた。この店では乗せる具材は選べない代わりに、すぐに出せるように準備されていて、飽きが来ないように毎日違うピザを提供するように工夫されているらしい。


どこにでもあるありふれたこの『ピザ』は、たしか150年ほど前の勇者マルコが伝えた料理のひとつなのだが、私が故郷で食べたものと違っていた。何というか、瑞々しいのだ。


私の国で『ピザ』と言えば、ソースには乾燥させたトマトを使いソーセージやサラミなどの保存の効く肉を使うのが一般的だ。


だが、目の前にある『ピザ』は色鮮やかなトマトソースに肉汁の溢れる肉そぼろ、熱々のチーズを乗せて濃い緑のピーマンで飾られている。


「ほらほら、熱いうちが美味しいのよ。いっただっきまーす!」


2人分で注文すると1枚の大きなピザに変わるのも面白い。丸いカッターで8等分に切り分けた一枚をターニップが口にすると、桃色の唇とピザの間に湯気の昇るチーズが長い橋をかける。


私も倣って手に取ると、思った以上に熱い。ハフハフと息を吹きかけて口に運んだのだが、ターニップのようにチーズが口に橋をかけては恥ずかしい思い、しっかりと噛み切ろうとしたが、熱々のチーズは柔らかくて良く伸びた。


どうにかチーズを切ることができないかと試行錯誤をするのだが、ピザは思った以上に熱く唇を焼き、ズルズルと伸びたチーズが具材を引いてするりと落ちた。


ボトリ。


運が悪いことに熱々の塊は体とテーブルの隙間をすり抜けた。


「あつぅっ!」


焼き立てのチーズは熱い。身をもって知った私は膝に落ちた熱の塊から飛び上がって逃げたいのだが、そこにはテーブルがる。ガタンと盛大な音を立てて膝を打つと店中の注目を浴びた。手に残った歯型の付いた薄いパンから無残に赤いソースが垂れる。


ターニップはクスクスと腹を抱えて笑っていた。


私は顔を真っ赤にさせる事しかできないのであった。



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次回:4人と独りの『食卓』


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