第3話:カビ臭い『宿屋』

『スパイさんの晩ごはん。』

第一章:敵の国でも腹は減る。

第三話:カビ臭い『宿屋』


あらすじ:頼れる先輩ができた。

注記:私は毎日ドリップとインスタントの2杯を飲む程度には好きです。

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深い泥沼のような眠りから覚めると、部屋にはかびた匂いと濁った空気が充満していた。薄暗い部屋は素っ気も無く、窓の傷んだ板戸の隙間から漏れる明かりに埃が舞っている。


ここには朝を告げる小鳥さえも立ち寄らない。


『千鳥足の牡牛亭』の三階。


オックスが経営する『千鳥足の牡牛亭』は宿も運営している。もっとも、一般の客はただでさえ見つけ難い酒場のカウンターの隅にある小さな案内に気付きもしないが。私のような新人を迎えた時、地方に潜入している同胞が王都へ来た時、ヘマをやらかした者を匿う時に使われる。


身内のための部屋だから普通の宿のようなサービスは期待できないが、財布を掏られた私には他の選択肢があるはずもない。天露を避けてベッドに体を委ねられるだけでもありがたい。例えカビにまみれても。


窓を開けると風通しの悪い裏路地のジメッとした空気が入り込んでくる。私は重たい体とカビ臭いベッドに浄化の魔法をかけたが、気休め程度にしかならない。どうやら私達のリーダーは壊滅的に部屋の掃除が得意では無いらしい。


私は身支度を整えると、湿気て膨らんだ建付けの悪いドアから出る。重い足取りで階段を降りると、酒の饐えた匂いが充満していると思われた酒場は、嗅いだことが無い不思議な香りが充満していた。


客室のカビを燻して煮詰めたような。


土のこびり付いた青い枝を焦がしてばら撒いたような。


どことなく嫌な臭いだが、不思議と嫌いになれそうにない。


薄暗い酒場のカウンターに座ったオックスが、ひとつだけ開いた窓から差し込む光で新聞を読んでいた。白いカップを何気なく啜る姿は実に様になっていたが、彼は新聞をばさりと投げると私を迎えてくれた。


「遅かったな。」


「悪かった。長い旅で疲れていたようだ。」


フォージ王国の王都からまったく外に出たことも無い私が、これほど長く旅をしてきたのだ。人知れず国境を越えるため、怯えながら獣道を進んだ日々を私は早く忘れたい。食べ物も飲み物も無くなった絶望をもう経験したくない。


「図太い神経の持ち主で良かったよ。普通の奴なら数日は気が張っていて、しばらくは使い物にならない。空回りしてヘマをしたやつも結構いるしな。」


評価されたのか知らないが、私の場合はヘマをした先達よりも体力が無いだけだ。緊張し続けるだけの気力も、空回りするだけの元気も。


私が渋くなった表情を隠すために俯くと、オックスの飲んでいた白いカップが目に留まった。カップから湯気が立ち、先ほどの何とも言えない香りが漂ってきた。


「飲むか?」


「それはなんだ?」


私の視線に気が付いたオックスが白いカップを持ち上げて揺らす。白いカップには濁った泥水よりも黒い液体が入っていて、とても飲み物とは思えない。


「珈琲だ。勇者アマネが伝えた飲み物で、少し前から流行っている。」


昨日も聞いた勇者アマネ。異世界から来たという彼女は、300年前に同じく異世界から来た大聖女オヨネ様と同じように新しい文化を多くもたらしていた。私の国まで食文化は届いていないが、魔道具の発展は音に聞こえるほど目覚ましい。


「いただこう。」


あまり口にしたいとも思えない匂いなのだが、この飲み物がこの街で流行っているなら、飲まなければならない時がきっと来る。その時になって慌てるくらいなら、今のうちに経験を積んだ方が得策だと判断した。少なくとも、オックスが人間に提供でき無いものを勧めて来るとは思いたくない。


「最初は薄い方が良いだろう」と、オックスはカウンターの奥に置かれた不思議な器具、丸いガラスの容器を砂時計のように縦にふたつ繋げたような物を上下に分けると、彼は下の容器に水を注いでアルコールランプに火を点けた。


「そんなに見つめられると手元が狂う。」


「悪い。」


この不思議な器具によほど魅入っていたらしい。オックスに窘められても私は横目でちらちらと見てしまうのだが。オックスは諦めた調子で上の容器に入っていた黒色の泥のような物を捨ると、新しく黒い粉を入れて話題を変えた。


「アンタが後任と考えて良いのか?」


ここに来た時にオックスには紹介状を渡してある。だが、それは私が着任したという意味以外を持たない。宛名もオックスに向けてではなく、あらかじめ決められている架空の人物になっていて、旅の途中で誰かに見られても、この『千鳥足の牡牛亭』との関連は推測できない。


当然、私の任務は書かれていない。


「ああ、私がスプラウト将軍の件を引き継ぐ。」


ブラッソウ・スプラウト将軍。予測と言うよりは予知としか考えられない采配でいくつもの不可能と思われる戦況を覆し、多くの勝利をもぎ取った将軍。彼は体を動かす事も得意で、一騎当千とさえ言われている。


まさに英雄と言う言葉は彼にこそ相応しい。


その将軍も高齢となり、現在は引退して大きな屋敷に引きこもっていると聞くのだが、戦争が長引けば彼の復帰を望む声も大きくなるだろう。老将軍なら戦況を変えられると。


私の任務は老将軍に近づき、彼の動向を探る事。


彼の立てた作戦を事前に察知できれば僥倖で、彼が戦場に現れるタイミングが判るだけでも万々歳だと言われている。


暗殺は指示されていない。


文官な私が人を殺せるわけが無い。暗殺なら荒事を得意とする適任がいるはずだし、失敗した時に次の手引きでいるような存在を残しておいた方が保険になる。


老将軍から信頼を勝ち得る。


それこそが私の任務であるが、人を寄せ付けないと言う老将軍との接触は今まで何人もの先輩が失敗している。


いくら身辺を調べても彼の動向は消されたかのように見えてこない。まるで最初から存在しなかったかのように。そして、近付こうとするものは大きな力に阻まれる。やっとのことで接触できたとしても邂逅は一瞬で終わり、2度目は無い。


「そうか…。かなり厄介な爺さんらしいからな。気を付けろよ。」


「ああ。」


アルコールランプがコポコポと湯を沸かす。オックスが上の容器を下の容器に差し込んで戻すと、下の容器に溜まった湯が管を通って上の容器に昇った。魔道具かと私が驚くと、ただの物理だとオックスは肩をすくめた。サイフォンの原理と言うそうだ。


「それで、どうする?」


「王宮から老将軍の屋敷へ定期的に物資が流れていると情報をくれただろう。物流を統括する部署に潜って搬入に立ち会い顔を覚えてもらう。何度も屋敷に入る事ができれば老将軍も気を許すかもしれない。」


「回りくどいな。王宮に入るだけでも難題だろうに。」


「ああ、その点はすでに解決している。ボケナース子爵が紹介状を書いてくれた。」


この紹介状が有ったからこそ、この回りくどい作戦が立案されたと言っても過言ではない。私の国と通じている貴族のひとりが、多額の献金と引き換えにさらさらと書いてくれた。この私を指名して。私は情報部の所属でも無い、ただの文官だったと言うのに。


しかし、この作戦は有望視されている。もしも、老将軍との接触が計れなくても、王宮に入れるなら多くの情報を得られるに違いない。


私は静かに王宮に紛れるだけ。


ついでに気難しい老人と知り合いになるだけだと。


まったく無茶を言ってくれる。


私達の面倒な会話は終わったというのに、珈琲を作る器具はまだ動いていた。下の容器に入れた水が上の容器に昇り終えると、水が黒くなってまた下の容器に落ちて来る。やっぱり魔法のようにしか見えない。


それらがすべて落ち切ると、オックスは黒い液体を白いカップに注いで私の前に差し出した。湯気の昇る白いカップを顔に近づけると、焦げ臭い香りが鼻を突く。だが、決して嫌な臭いでは無いところが不思議である。


「苦いな…。」


カップに口を付けた私が思わず顔をしかめるとオックスは勝ち誇ったように唇の端を釣り上げた。焦げた香のままに、まるで木炭を齧ったかのように苦い。なんでこんな物が流行るのか自分には理解できそうにない。そして、これを嗜むオックスも。


「ああ。それがここの味だ。」


オックスは自分のカップ残っていた冷めた珈琲を捨てると、新しく注いで口をつけた。



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次回:開運の『アパート』



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