第2話:裏路地の裏の裏の裏の『酒場』
『スパイさんの晩ごはん。』
第一章:敵の国でも腹は減る。
第二話:裏路地の裏の裏の裏の『酒場』
あらすじ:到着早々サイフを掏られた。
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「ははは。そいつは災難だったな。」
酒場の店主よりも荒事に向きそうな筋肉を窮屈な服に押し込めて、カウンターの中でコップを磨いていていた男は、財布を掏られた私を豪快に笑った。
彼はオックスと名乗った。
この国に潜入している同胞をまとめるリーダーだ。潜入先で本名を名乗るはずもなく私と同じく偽名だろう。名前には国や時による流行りがあるし、素性を辿られる危険もある。普段から本名を呼び慣れてしまえば、うかつな輩が口を滑らせるかもしれない。私とか。
彼はこの路地裏の裏の裏で我々の集まる隠れ家になる酒場兼宿屋、『千鳥足の牡牛亭』を経営している。
たまにふらりと一般の客が入ってくるそうだが、来る客のほとんどは同じ国の同胞か、この国で雇った情報提供者だそうだ。なので、看板も小さく私もこの店を探し当てるまでに辺りを5周も回ることになった。
もう少し解りやすい場所に在って欲しかったが、この酒場を裏路地の裏の裏の裏で開くことが隠れ家として最適と言われれば返す言葉も無い。
普通の家庭に大勢の人間が入り浸れば人目につくが、酒場に人が集まるのは自然だし、大きな荷物も納品を装って受け取れる。そもそも、大きな看板を出して普通の客が入るような店では落ち着いて話もできないと言われたら納得する以外にできなかった。
「それで、向こうの状況はどうなの?」
私の失敗を興味なさげに聞いていた妖艶な美女が、冷たい視線のまま私の愚痴を終わらせた。
彼女はクエイルと紹介された。
のだが、オックス同様偽名だろう。どこか気だるそうな顔は整っていて、出る所が出て引っ込むところが引っ込む男にとっては夢のような体。その豊満な体が美しく映えるような赤いドレスを着熟していた。
そんな彼女にとっては、私の冒険譚はありふれた話だったのかもしれない。山中の獣道を彷徨ったり、大雨で馬車が動けなくなったり、スリに遭ったりと言うことは。国の外に出た事もない私には一大事だったのだが。
「戦況は均衡を保っていて、王都は変わらず平和だ。表向きは。」
冷たい眼差しながらもクエイルの真剣な表情は本物だ。私は戦場を大きく迂回してきたので、古い情報しか持っていない。それも向こうの王都を出発する時の40日も前の物だ。それでも、自分の国の生の情報の乏しいここの酒場の客たちには貴重な情報になるのは違いない。
「なるほど。戦争は長引きそうか?」
上に立つ人物は自分の国が劣勢だとは口が裂けても言う事は無い。局地的な劣勢であれば援軍を出す理由に使うが、全体的な劣勢は士気に関る。オックスの言葉から察するに、彼の耳にも同じ情報が届いているのだろう。
お互いの国民が劣勢を知らされてなければ、この先も戦争が続く可能性が高い。
「ああ、戦争特別税の枠が増えた。」
「そんな街でも聞ける噂じゃなくて、実際の所はどうなのよ?」
「すまないが、私は情報部の出身では無いんだ。」」
彼らが所属する情報部なら裏の情報を知りえることもあるだろうが、私はただの文官で、それ以上ではない。だが、黙って死地に向かう気にはなれなかったので、出発する前に少しは情報を集めはした。私は臆病なのだ。
しかし、情報はあえて伏せる。この情報が私の命綱になるかもしれないから。
「それでも…」と言い募るクエイルは不満そうだったが、オックスは満足そうに話は終わったと口を挟んだ。彼もまた人の上に立つ人間なのだ。
「まあ、王都が平和なら、家族も無事だって事だ。良かったな。クエイル。」
「家族の事は口にしないで。」
なるほど。クエイルは王都に家族がいて気にしているようだ。せめて彼女の暮らしていた地区の近況でも教えられればと考えていると、酒場の分厚い扉が勢いよく開いた。
「ちわッス!お、新入りさんッスか?」
「ああ、マートンだ。」
「良かったわね、新しい後輩ができたわよ。」
「チキンッス。配達屋のチキンッス。何でも配達するッス。」
暗くなった隠れ家の雰囲気を壊して入ってきたチキンと言う男に、オックスが私を紹介すると、彼は手を差し出して握手を求めてきた。私も立ち上がって握るとぶんぶんと千切れそうなくらいに振り回される。きっと彼も故郷を同じくする同胞なのだろうが、行動と同じように顔も若く見える。
「ああ、よろしく。先輩。」
「へっへっへ~、先輩か。良い響きッス。」
クエイルが後輩と言う言葉を使ったので、私も年下にしか見えない彼を先輩と呼んでみたのだが、思った以上に好感触を得たようだ。呼び方だけでここまで破顔するのかと言うくらい崩れた童顔は、とても頼れる先輩には見えない。が。
「コイツは若く見えるし軽薄な行動をしがちだから、後輩たちからも軽く扱われる事が多いんだ。だが、頼りになる先輩だから思う存分頼ってくれ。オレの所に来る前に、な。」
「うるせぇッス。この性格は世を欺く仮の姿ッス。でも、頼れるのは本当ッスよ。」
「じゃあ、マートンの世話を頼んだよ。先輩。」
どうやら、このチキン先輩が私の当面の世話をしてくれるらしい。話の流れで面倒事を上手く押し付けたようにも感じたが、私は彼の下に入ったばかりだし、先輩もやる気になってるので私は黙るしかない。
「んじゃぁ、さっそくお祝いに、さっそく先輩が後輩君に奢ってあげちゃうッス。オックス!彼に『鉱山の夕陽』をッス。」
そう言われて、私はまだ隠れ家に来て何も注文していないことに気が付いた。手元には檸檬の汁を絞り入れた水がさりげなく出されているが、ここは酒場なのだ。まあ、無一文の私には注文しようにもできなかったのだから、オックスも催促をしないでくれたのだろう。
オックスは手慣れた調子で綺麗に磨かれたグラスを水の魔法で手早く冷やすと、冷気の出る魔道具の箱から大きな氷を取り出してカランとグラスに音を立てて入れる。赤い液体を三分の一ほど入れたグラスに静かに酒を注ぐと鮮やかな緋色のグラデーションが描かれた。
ああ、氷を山に、緋色になった酒を空に見立てて『鉱山の夕陽』なのかと納得していると、最後にシワのよった赤い実を落とした。
「梅干し…か。」
『梅干し』は古の大聖女オヨネ様がもたらした保存食。青い梅の実を塩漬けにして赤紫蘇赤い色と風味を付けるのだが、強い塩味と酸味があり食べる者を選ぶ。
知っての通り、オヨネ様は食材を始め多くの物の呼び方を変えるほど文化的に大革命を起こしたのだが、彼女が好んだ梅干しはあまり広がらなかったそうだ。強い酸味を持つ梅干しを苦手に思う者は多いだろう。
しかし、大きなダンジョンといくつかの鉱山、それに付随する鍛冶場を多く所有する私の国では、汗をかく労働者が多く、塩味と酸味の濃い梅干しは疲労回復の薬として珍重された。
その梅干しこそが氷の鉱山の太陽だったのだ。
「どうッス?懐かしいッショ?この国じゃ、ここ以外じゃ飲めないッスよ。」
「ああ、久しぶりだ。」
ここまでの旅で梅干しに出会った事は一度もない。当然、梅干し割りの酒に出会うことも。
ひとくち含むと酒とは違うほのかな甘い風味が広がる。最初に加えられた赤い液体は梅干しを漬ける時に使う赤紫蘇をジュースにした物のようで、これが梅干し割りの酒に合わないわけが無い。
添えられたマドラーで梅の実を潰すと、大きな氷がカラリと鳴り潰れた実が舞ってグラスの空が真っ赤に染まった。鉱山は就業時間ようだ。強くなった塩味の影響で、強い酒の甘みが際立っていく。
美味い。
マドラーで梅の実を掻き出して口にすると、酒でほどよく塩抜きされた実がふやけて思わず目に汗が染みた。鉱山労働者が戯れに入れた梅干し割り。決して上品ではない謂れだが、40日ものあいだ口にしていない故郷の味。早くもホームシックになりそうだ。
「美味かった。」
しみじみと飲み干した私のグラスの横に、今度はシンプルなお湯割りが差し出された。冷えた喉に温かさが心地よい。
ああ。この先輩は凄く頼りになる。
私は蕩ける頭でぼんやりと確信した。
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次回:カビ臭い『宿屋』
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