最強祓魔師の隠し事

猪股

序章 始まり

第1話 少年の始まり

「どうして、どうしてこうなったんだ!!」


 雨が降りしきる真夜中、その少年は妹である少女を抱えながら走っていた。

 寂れた街中を、傘を差すでもなく、人一人通らない次の町へと続く道を、ただひたすらに逃げていた。


 バシャン、と水溜まりを撥ねながら、後ろを振り向くことなく全力で走っている少年の表情は、焦りと苦痛に満ち満ちている。

 まだ幼い身体で、自分と同じくらいの体躯の妹を抱えながら、かれこれ数十分は全力疾走していのだから当然ではあるが。

 それでも、その少年は足を止めることだけは絶対にしない。

 今は、逃げるということだけを考えていた。

 街灯の明かりだけを頼りに、一度も出たことのない街から。 


「絶対に、助ける。絶対に!!」


 少年の抱えている妹は、頭から血を流して意識を失っていた。

 この時の少年には知るよしもないが、頭からの出血は致命傷とはなっておらずこれで死ぬことはなかった。

 むしろ、この雨の中びしょ濡れの状態で過ごしていることの方が生命の灯火を削っているとも言えた。


「よしこれで――」

「ウォオオウン!!」


 小さな道路を抜け、片側二車線の県道に出た瞬間、少年の僅かばかりの安堵を嘲笑うかの如く、街路樹を薙ぎ倒して、その怪物が現れた。

 直径は一メートル近くありそうな、数十年は生きていそうな柊の幹を、根本からへし折っている。

 自動車が道路からはみ出さないようにと設置されたガードレールも、足を引っかけたり少しくらい躓かせることすらできずに、歪な曲線を描いている。

 

 その怪物は、全身青色の体躯は五メートルほどで、全身は鋼鉄のように硬い筋肉で覆われている。

 赤く光る瞳は、妖しい炎が灯っており、真っ直ぐに少年達兄妹を見据えていた。

 目の前の獲物を、決して逃がさないとばかりに。

 例えるならそう、二足歩行の牛、ミノタウロスとでも呼ぶべき風貌である。


 明らかに、現代日本に存在しているはずがない、存在してはいけないその怪物は少年に怒りのこもったような視線を向け、その感情を吐露するように咆哮を上げた。

 平和に安寧を享受している日本人が訊いたら、震え上がり思わず失禁ないしは気絶してしまうかもしれないほどに、人間の恐怖を呼び起こすような咆哮だった。


 しかし、その少年は膝をガクガクと震わせるでも、恐怖に腰が抜けるでもなく、怪物が自分達を追いかけてきているという事実だけを確認し、生きるためにまた走り出した。

 

 冬が本格的に訪れてくるこの季節の中、身体を温めるものは足枷になると切り捨て、身軽ではあるが凍傷に陥りそうな格好で走る少年を、その怪物はネズミを追いかける猫のように追っていた。

 一歩進むごとに、一トンはありそうなその体重で地面が揺れ、ダンッと大きな地響きのような音が辺りに響き渡る。


 明らかな体躯の差の中で、少年が逃げ続けられてきたのは、その怪物が様々なものに衝突しその度に減速しているからである。

 しかし、この広い道路に出たということは、その作戦はもう使えない。

 このままでは、追いつかれ、恐竜のような鋭い歯で噛みちぎられるか、人一人など容易に踏み潰せそうな巨木のような足で赤い花を咲かせられるかのどちらかになるだろう。


 だが、少しでも、その少年は生き続けようとした。

 自分が死ねば、自分が抱えている妹も死ぬことになると分かっているからだ。

 何としてでも、妹だけは生かしたい。

 例えそれで、自分の命が犠牲になっても。

 その覚悟だけが、少年を突き動かす原動力だった。


 その覚悟が幸いしたのか、少年に、女神が一瞬だけ振り向いた。


 ピー、とけたたましくクラクションを鳴らし、一台の軽トラックが疾走する少年の前で急停止した。


「このガキ、どこをほっつき歩いていやがる!!気を付けろ!!」


 ブレーキ音による耳をつんざくような音が木霊し、運転手が少年に向かって罵声を浴びせかけるが、それらを全て無視して走り去った。

 後ろから恐ろしい怪物が血気迫る勢いで追いかけてくるのだから、いちいちそんなことに反応などしていられない。


「おい、無視するなクソガキ!!一言謝ったらどうだ――」


 当然、少年の態度にトラックの運転手は激昂する。

 しかし、その言葉は最後まで紡がれることなく、爆発音と共にガソリンに引火して燃え盛る炎の中に消えていった。

 怪物が飛び上がり、軽トラックを一踏みでぺしゃんこに踏み潰したのだ。

 勿論、運転手は軽トラックと共に見るも無惨な姿へとなり果て、おまけに炎上した車内にいるのだから助かるはずもない。

 しかし、その運転手にとって幸いだったのは、何が起きたのか理解するよりも早く即死したことだろう。

 何せ、運転手は怪物と向かい合っていたのにも拘わらず、その姿が見えなかったのだから。


 すみません、俺のせいで――そう思う少年だったが、心の奥底では怪物と少し距離を離せた安堵があった。

 そのことに気がつき自己嫌悪に陥りつつも、走る足だけは止めない。


 だが、それももう終わった。


「ウォオオウン!!」


 怪物がとうとう、少年に追いついたのだ。

 岩石ほどもある振り上げられた硬い拳を咄嗟に躱すことはできたが、凄まじい衝撃が吹き抜けて、思わず少年はバランスを崩し転倒してしまった。

 

 妹は庇うことはできたが、雨に濡れたアスファルトを全身に打ち付け、すりむいたところがヒリヒリとする。

 血が垂れる箇所もあり、常人なら痛みに耐えきれずその場で蹲るか転げ回るぐらいの痛みだったが、むくりと起き上がり、妹を抱え直して再び立ち上がった。

 

 しかし、たとえ痛みを忘れていようが、身体は正常に機能しない。

 足を動かそうとしたタイミングで小石に足が引っかかり、膝をついてしまった。


「動け、動いてくれ!!」

「ウォオオォォォォン!!」


 これ以上は、もう逃げられない。

 そう悟った少年は、しりじりとにじり寄る怪物に背を向けて、自身が着ていたパーカーを妹にかぶせ、街路樹の根元に寝かした。

 せめて、誰かが見つけてくれるまでの間は寒さで死ぬことがないように。

 そのせいで、全身の鳥肌が立ち震えるが、それは恐怖ではなく寒さによるものであると信じたい。


 もう、妹を助けるには、自分の命を捨てて囮になるしかなかった。

 そのためにも、妹と怪物の距離は離さなくてはならない。

 そう考えた少年は、なけなしの体力を振り絞って、走り出した。


「ウォオウン!!」


 しかし、走り出した直後、横から飛んできた拳を回避しきれずに掠め、その威力で真横に吹っ飛んだ。

 地面に打ち付けられた衝撃で身体が跳ね上がり、ゴロゴロと数メートル近く転がった。

 何かにぶつからなかったのは不幸中の幸いだったが、それでも絶望的なこの状況には変わりがない。


「く、くそ!!」


 このままでは、自分が殺された後、妹も手に掛けられてしまう。

 何とか、しなければ。


「ウォオホッホホッホォウ!!」


 そんな少年の足掻きを見て、怪物は醜い顔を愉悦に歪ませた。

 楽しくて仕方ないと、そう言いたげな表情だ。


 少年は、悔しさで初めて涙した。

 全身には力が入らず、怪物の方を見ることすらままならない。

 だが感覚は鋭敏に研ぎ澄まされ、一歩一歩近づいてくる怪物の足取りは見ているかのように感じ取れた。


「負けない!!俺は絶対に、負けない!!」


 諦めないその根性は計り知れないほどに強靱だが、もうそれは何の意味をなさない。

 怪物の足は、既に少年の隣に位置し、いつでも踏み潰せる態勢にあった。

 怪物が足を動かさず少年の眺めていたのは、苦しみもがく姿を楽しんでいたからに他ならない。


 少年がふと気がつけば、降り注ぐ雨はいつの間にか降りしきる雪に変わっていた。

 今日が、初雪かな――そう思いながら、少年は足掻きをやめた。


 瞼を閉じた裏では、様々な思い出か脳裏を駆け巡っていた。

 

 物心ついたときから父親がいなかった、いわゆる母子家庭で育った少年と妹。

 母親は優しかったが、ことあるごとにため息をついていた。

 その理由については分からなかったが、母親から毎日のように訊かされていた口癖、「あなたが妹を守るのよ」という言葉だけは、その言葉に隠された想いだけは、少年にも理解できた。

 自分が、父親の代わりをしてほしいのだと。


 だがもう、その母親は、今自分を殺さんとしている怪物に命を奪われてしまっている。

 だからせめて、妹だけは助けたかった。

 それももう、終わる。


 しかしその時、何かが変わった。

 いや、訪れたというべきか。

 その少年の、六歳の誕生日が。


 普通の人なら、特に特別な意味合いは持たないかもしれない。

 しかしその少年は、父親から受け継いだ特別な血により、選ばれた人間だけが使える技に目覚めた。


 それを一瞬で理解した少年は、雪雲で覆われた夜空を見上げ、何かを呟いた。


 その瞬間、降りしきっていた雪がそのばで止まり、怪物も動きを止めた。

 まるで、時間が止まったかのように見えるが、実際は違う。

 その本質は、その少年にしか分からない。

 だが、これだけははっきり言える。


 世界が、凍った。

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