最終章 第1話

 リシャールの帰国を翌日に控えたその日、聖堂に思わぬ客が現れた。


「わぁ。本当に城内の聖堂にいる、王女さまだったんですね」


 マセルだ。

ボスマン研究所にいたレランド出身の赤茶けた髪の研究者が、聖堂を訪ねていた。

リンダが案内役を務めている。


「なかなか立派な建物じゃないですか。実験設備もそれなりに整っているし」


 マセルはそう言って石造りの実験室の中を見渡した。

ボスマン研究所に行って、実際に中を見てきたから分かる。

ここの設備は、その足元にも及ばない。

聖堂で行われているのは、実験のまねごとみたいなものだ。


「研究所の方は、どうですの? 世界樹の庭の土は、お役に立てました?」

「あぁ、そのご報告をしなくてはいけませんね。その節は大変お世話になりました」


 エマお姉さまから陛下に申請が行ったのは知っている。

私も直接手紙を書いた。

許可が下りるのに、さほど時間はかからなかったように記憶している。


「無事、貴重な土は研究所に運び込まれましたよ。たった一握りの土ですが、それだけでも分析するには十分有り余る量でした。今は保存瓶の中に入れ、大切に保管されています」

「それで、分析結果は?」


 マセルの表情は、妙に落ち着いたままだった。

喜びあふれる報告を期待していた私に、リンダはゆっくりと首を横に振る。


「お庭の土は、ブリーシュアの他の土地の土と、全く変わりなかったそうよ」

「え? それでは……」

「はい。僕は研究所を首になりました」


 マセルはにっこりと笑顔を見せると、観念したかのように「あはは」と笑った。


「やはり僕には、ボスマン研究所のような高位の研究所は無理だったのです。レベルが高すぎました。せっかくリシャール殿下に高価な試薬まで用意していただいたのに。国に戻られると聞いて、それが申し訳なくて、ご挨拶がてら報告に来たのです」

「そうですか。それは残念でしたね」


 努力しても、どうにもならないことはある。

彼は彼なりにベストを尽くしたのだろうし、リシャールや私も協力は惜しまなかった。

少なくとも彼は、レランドでは優秀かつ期待の人物なのだ。


「それでも、悪いことばかりではないですよ。ボスマン研究所を首になった代わりに、殿下に王立の研究所へ誘われました」

「王立の研究所?」

「えぇ。これでもいちおう、僕も厳しい選抜を勝ち抜いて、推薦してもらった立場ですからね。その経験を生かして、これから立ち上げる研究所を手伝ってくれないかって」

「リシャールが?」


 マセルは「はい」とうなずいた。


「どうせこのまま、レランドに帰るつもりでここへ立ち寄ったのです。殿下の隊列に同行する形で、そのまま帰国の途につく予定です」


 レランドは、ここからとても遠い。

砂漠の民の暮らしも、話でしか聞いたことがない。

リンダがマセルに向きなおった。


「リシャールさまが、新しい研究所をおつくりになるの?」

「そうみたいですよ。今まであった研究所とは別に、新しい施設を作るって」

「それは、どんな感じになるのかしらね」


 ふとつぶやいたリンダに、マセルは力なく微笑んだ。


「さぁね。なにしろ、まだ何も決まってないみたいだから。僕も『行きます』なんて元気よく返事はしたものの、どうなるかなんて、何も分からないのです。なるようになるしか、ありませんね」


 彼はまるで、他人事のように笑っていた。


「ま、何とかなるでしょ。なんともならなくても、その時はその時です」


 何もかも設備の整った最高峰の研究所を追い出され、彼は傷ついているのだ。

かける言葉が見つからない。


「私には、あなたがうらやましいです。マセル」


 リンダは真っ直ぐに伸びた黒髪をサラリと揺らし、彼を見上げた。


「それでも行けるところがあり、チャレンジする場所があるでしょ。私には、ここしかないから」


 リンダはボスマン研究所から戻ると、実験室に籠もり出てこなくなってしまった。

彼女が長年続けていた研究は、彼らの興味を引くものではなかった。

彼女なりに、何かを感じていたのだと思う。

素人の私の目からみても、あの研究所は別格だった。

何をしていたのかは分からないが、リンダは聖堂に戻ってからもずっと作業を続けていたらしい。

本を読み装置を組み上げ、試薬を調合していたそうだ。

表情を沈ませるリンダに、マセルは寄り添うように微笑む。


「ここはとてもいい所だよ。君はここで頑張ればいい。整った環境で過ごすということは、それだけで十分幸せなことだからね。君のこれまでの実験は……。君だけのものだ。それを誰にも、否定される覚えはないよ」


 彼の言葉は間違いなく、リンダを慰めようと彼の本心から出た言葉だった。

だけどその気遣いが、余計に彼女を傷つけた。


「マセルは、私はこのままでいいと思ってるの?」

「思ってるもなにも、恵まれた環境にいて、僕にはうらやましいよ」


 彼は聖堂の実験室を、ゆっくりと見て回る。

聖堂の乙女たちが行っている実験作業を見学しながら、ただ黙って静かにその様子を眺めていた。

やがて外の植物園が見たいと、その場にいた乙女の案内を受け、出て行ってしまう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る