わたあめ雲が浮かぶ空の下

夜缶

わたあめ雲が浮かぶ空の下

薄い茶色のベンチに背中をあずけて、空を見上げる。


この行為を幾度と繰り返したことだろうか。


空にはわたあめ雲が、ぽつりぽつりと浮かんでいる。


僕はそれらを見ながら、昔の出来事を思い出す。


何だか老人にでもなった気分だ。


昔の出来事というのは、彼女と出会った年齢も考えて、およそ十年ぐらい前だろう。


そんなに経ったのか。


自分で考えて、つい驚いてしまう。


公園という小さな世界は、夕方あたりまで人が賑わう。


それ以降は寂しい世界に早変わり、という感じだ。


時刻は夕方、つまり早変わりする瞬間を拝めるわけだ。


仲良しグループであろう三人の男子、子供を連れた若い母親、初老の老人夫婦。


皆、散り散りに帰る場所へ歩く。


そして僕はポツンと一人残される。


空を見上げれば、いつの間にか染まった夕焼けの見慣れた空。


本当にいつ染まったのだろうか?


さっきまで、青色の空が染まっていたはずなのに。


時間の流れというのは早くて残酷だ。


何も考えないで、ただボーッと空を眺めているだけで時間は刻一刻と進んでしまう。


しかしそれは仕方ないことだ。


それがなければ、人というものは変わることができない気がするからだ。


実際、彼女と出会って僕は変われることができた。


僕は目を瞑って、彼女との出会いを思い出すことにした──。





昼の子供達の喧騒の中で、僕は相変わらずベンチに座って空を見上げていた。


何故僕が空を眺めていたのかというと、やることがないからだ。


遊ぶ相手も、喋る相手もいない、この公園という世界。


ただ僕は空を眺めることしかできなかった。


そんな日々が、永遠に続くと思っていた。


しかしとある日を境に、それらは途絶えた。


一人の小さな少女が、ベンチの前に現れた。


ノートを両手で持ちながら、僕を見つめていた。


正直驚いていた。


僕は一時期、公園にいる同年代の子と遊ぶために、その子達に声を掛けようとした。


けれど皆僕を無視して、また新たな遊び場を求めて公園から立ち去った。


嫌われているのだ。


悲しいことに僕はそれを受け入れ、一人で過ごすことに決めたのだ。


しかし少女と出会った。


彼女は僕を、不思議そうに見つめた。


僕も彼女の行動に倣って、見つめ返した。


「……何か用?」


その第一声は、僕から放たれた。


もう少し気の利いた言葉はなかったのだろうか。


きっとあれだ。


考えに考えて、考えすぎた挙句、頭がオーバーヒートして、そっけない言葉が選び抜かれてしまったのだ。


なら仕方ない。


僕の言葉に反応したのだろう。


彼女は何やら左右にもぞもぞと揺れ動いた。


それを見ていた僕は、まるで小動物のようだな、と思っていた。


それから、彼女はやっとこさ口を開きだした。


「……私ね。聞こえないの」


「……え?」


彼女の第一声の意味が、上手く汲みとれなかった。


一体どういうことだろうか。


「私、耳が聞こえないの」


僕が考えている間に、彼女は解答した。


「だから、これ」


「?」


彼女は大事そうに抱えていたノートを、僕に差し出した。


僕は素直に受け取った。


その後すぐに、彼女はポケットに手を突っ込んで、ペンを取り出した。


それも僕に差し出した。


「筆談か」


僕はポツリと呟いてから、ノートを開いた。


彼女は困った表情で、僕を見ていた。


本当に聞こえないんだ。


開いたページには、あちこちに言葉がつらねてあった。


空白がないように、ぎっしりと埋め込まれていた。


一ページずつ開いていくと、個性豊かな文字が現れた。


一つの物語が綴られているみたいで、何だか面白いと感じてしまった。


約二十ページ分を開くと、ようやく空白が姿を現した。


彼女からもらったペンを使って、書き始めた。


『こんにちは』


無難で、分かりやすい言葉だと思う。


「こんにちは!」


彼女も、僕と同じように挨拶した。


今思えばこんな風に喋るのも、久しぶりだった気がする。


しかし筆談で喋るというのは特殊だし、初めてだ。


彼女と一つの挨拶を交わした後、一つの間ができてしまった。


何を話せばいいのか、まったく見当がつかない。


またもや考え込んでしまった僕だったが、さっきと同様、彼女から話を振り出してきた。


「あなたの名前は?」


簡単な質問だった。


僕は質問に答えねばと、ノートにペンを走らせた。


できるだけ大きく。


『ユウキ』


彼女に見えるように、そう書いた。


僕も、流れるように質問を書いて見せた。


『君の名前は?』


これもまた、大きな文字だった。


「私、アオイ!」


屈託のない笑顔を見せて、彼女は質問に答えてくれた。


それから、僕はしばらく彼女と会話をし続けた。


筆談というものは特殊だけど、会話は至ってごく普通なものだった。


「ユウキ君って、何才?」


『十二才』


「じゃあ、私より年上だぁ」


『君は何才?』


「私は八歳!」


こんなありふれた会話だったけれど、それでも僕は楽しかった。


年が近い女の子と話せるなんて久しぶりだったし、嬉しかった。


ただ、一つ気になってきたことがあった。


それは公園の皆からの視線だった。


それが妙に痛々しくて、居心地が悪かった。


それでも、僕はアオイと話がしたかった。


アオイとの会話は楽しかったし、会話を途中で切ってしまったら、もう一生人との交流ができない気がしたからだ。


しかし視線は痛いままだ。


複雑な気持ちで、アオイとの会話を続行した。


『ねぇ』


「なぁに?」


『耳が聞こえないって、どんな感じ?』


「え?」


しまった。これは失言だ。


きっとこれは踏み込んではいけない領域というやつだ。


もう少し考えればよかった。


そんなこと分かりきっていることなのに。


「……んーと」


アオイは口元に指を当て、考える素振りを見せた。


今すぐにでも、謝ったほうがいいかもしれない。


僕はそう思って、ノートに謝罪の文を書いた。


『ごめん。辛い、よね』


ノートに書いたそれを、アオイに見せた。


速攻で書いた文字だから、読み取れないかもしれない。


アオイはポカンとした表情で、ノートをじっくり見続けた。


やはり汚くて読み取れなかったかも。


僕が書き直そうと、次のページを開いた時、彼女はゆっくり話しだした。


「えっと、ね。辛くないよ。確かに何も聞こえないのは怖いよ。でもね、私、あなたと話すのが楽しいんだ」


一気に言われた一瞬の出来事。


僕はきっと、さっきのアオイと同じような表情をしただろう。


アオイは「あ、つまりね」と照れくさそうな顔をしながら、前置きして言った。


「私、ユウキ君と話せるから、辛くない」


ノートに、丸い染みができた。


目頭が熱くなった。


何故、僕は泣いてしまったのだろう。


これが嬉し涙というやつなのだろうか?


悲しくはないから、きっとそうだろう。


初めての、感情だった。


「ど、どうしたの!? 大丈夫!?」


当然アオイは僕を心配した。


そりゃあ突然目の前で泣かれたら、誰だって驚くしその人のことを憂うことだろう。


僕は目元を擦ってから、慌ててノートに言葉を連ねた。


『大丈夫。嬉しかっただけ』


無理矢理、笑顔を作って見せた。


笑顔を作るのも、きっと久しぶりだった気がする。


アオイも、僕と同じように笑ってくれた。


こうして、僕らは少しずつ打ち解けあっていった。


しかし時間は待ってくれない存在で、アオイと話していたらすぐに夕方になってしまった。


その後に、アオイは言ってくれた。


「また明日。公園で!」


また明日。次があるんだ。良かった。


僕とまた、一緒に話してくれることが。


翌日の昼頃、僕はベンチに腰掛けて待っていた。


しかし、不安を抱えていた。


アオイは本当に来てくれるのか、と。


疑いたくないけれど、いささか恐怖があったのだ。


だが杞憂だったようだ。


約束通りに、彼女は最初に会った時と同じように、ノートを両手に持って現れた。


そして、挨拶をした。


『こんにちは』


「こんにちは!」


それから僕らは、他愛ない会話を始めた。


まさか、ただ空を眺めることしかできなかった僕が人と会話をするようになるとは。


しかも、年の近い女の子と。


アオイと話していた時間はとても楽しくて、僕にとってかけがえのない日々だった。


けれど、神様は甘くなかった。


その日はアオイと空を眺めながら、普段通りの会話をしていた。


空は青く澄み渡っていて、わたあめ雲が浮かんでいた。


「あのわたあめ雲、美味しそう!」


『甘いの、好きなの?』


「うん! とっても!」


『そうなんだ』


またいつものように、他愛ない会話が続くと思っていた。


続いてほしかった。


アオイが放った次の一言で、僕の何かが揺れ動いたのだ。


「私、引っ越すんだ」


静かで、はっきりとした声で言った。


唐突なその発言に、僕は驚きを隠せなかった。


彼女は、アオイは、何と言った?


「……えっ、と」


アオイは困っているようにも、苦しんでいるようにも見えた。


僕が抱いているこの感情は何なのだろう?


怒りとか、悲しみとか、後ろ向きの気持ちが全て統合されたような、不安定な感情。


言葉では、表せなかった。


とにかく、辛かった。


『どこに、引っ越すの?』


率直な質問をアオイにぶつけた。


「……うんと遠く」


『何で、引っ越すの?』


「……わたしの病気を治すために」


『そっ、か。あした、から?」


「うん。明日から」


『もう、帰ってこれない?』


「それ、は……」


アオイはそれ以降、押し黙ってしまった。


意地悪な質問だった。


帰れるかなんて、そんなの後にしか分かりっこない。


きっとこの時の僕は、どうかしていた。


「……分かったよ。だったらもう会うことはないんだね。じゃあさよならだね。それならさっさと帰ってくれ」


僕は強がって、彼女を突き放すように言った。


違うんだ。


僕はそう言いたいんじゃなくて、ただ我儘を言いたかった。


もう少し、アオイと話していたい。


引越しなんてしないでほしい。


そう言いたかったのに。


なのに。


僕は馬鹿で最悪だった。


しかし幸いにも、アオイは耳に障害があった。


皮肉だが、よかった。


僕がそれを思い出したのは、突き放した後だった。


「…………?」


当然だが、アオイは困惑の表情を浮かべていた。


僕は怒りの熱を冷ましてから、ゆっくりと、ノートに言葉を書いた。


たった一言で、簡単な別れの言葉。


『さよなら』


僕はノートを顔の前に突き出し、アオイに見せた。


アオイの顔は、僕には見えない。


同時に、アオイも僕の顔は見えなかっただろう。


アオイも、簡単な別れの言葉を放った。


「……さよなら。後、ごめんなさい」


何故君が謝るんだ。


それこそ僕が、謝らなければいけないだろ。


「ザッザッ」と小さな足音が聞こえた。


ノートをどけて、前を向いた。


アオイは、僕の元から離れていった。


足音が、彼女が、遠のいていった。


時間の経過と共に次第に小さくなってゆくアオイは、やがて見えなくなった。


ノートはベンチに置かれたままだった。


僕がアオイの顔を見なかった理由は、僕の顔を見せたくなかったからである。


きっとそれは、アオイも同じはずだ。


別れを言ったその声音は、どうも嗚咽をこらえているように聞こえたからだ。


心が痛い。

苦しい。

辛い。

哀しい。


その感情はきっと、僕の顔に表れていた。


アオイと別れたその後、雨が降り出した。


僕の気持ちに、ピッタリの天候だった。


アオイが来なくなってからも、僕はベンチに座っていた。


もう彼女は来ない。


そうだと分かっていても、心の内に希望を抱いていた。


晴れた日も、曇りの日も、雨の日も、雪の日も、アオイが現れることはなかった。


それでも僕は、公園のベンチに座っていた。


時間が大量にあるせいで、考え事も多くなった。


その時だった。


自分自身のことを考え始めたのは。


そもそも僕は、何故ベンチに座り続けているのだろうか。


何が僕をそうさせているんだろうか?


アオイといつか出会うために、公園のベンチに座り続けているんだろうか?


でも僕は、アオイと出会うずっと前から、そうしている。


アオイと別れてから僕は、それらが気になって仕方なかった。


しかし意外にも、その答えはすぐに出てきた。


快晴の、青空を眺めていた日だった。


公園にいる子供たちは相変わらず、騒がしく遊んでいた。


その中に、一人の男の子と一人の母親がこちらにやってきた。


その二人は、隣のベンチに腰掛けた。


なんだか不思議だ。


その二人を見ていたら、心の中でそう呟いてしまった。


その二人が会話をしだしたので、耳を傾けた。


「ねぇ。お母さん、何で僕の名前はユウタっていう名前なの?」


「あら。どうしたの急に?」


「僕の友達が、そう言ってたから」


「そうなの。変わった友達ね」


僕は不思議な親子の会話を聞きながら、頭の中で考察を逡巡していた。


きっとこの子の名前は勇気のある子、とか単純な意味合いなのだろうと、勝手に結論づけた。


だとしたら、自分の名前みたいだな、とも思った。


「……十年前に亡くなったお兄ちゃんの名前を借りたのよ」


母親のその一言で、僕は何故か鳥肌がたってしまった。


まさか。


「お兄ちゃんの、名前って?」


そんな偶然が、ありえるのか?


僕は、唾を飲み込んだ。


「……"勇気"」


ありえてしまった。


けれどこの真実が、本当に僕の事を指しているのだろうか?


いや、証明があった。


僕が親子に出会った時から抱いていた、不可思議な気持ちが物語っているんだ。


男の子の母親はきっと、僕の──。


「そろそろ帰ろうよ。ママ」


「そうね。ユウくん」


母さんだった。


母親が言った愛称は間違いなく、僕が過去に呼ばれたものだった。


それでは、何故僕が存在しているのか。


いや、本当は存在しないもので俗に言うところの──。


「幽霊、なんだ。僕」


そう決定づけるしか、なかった。


その日の僕は、茫然としていた。


辺りは暗くなり、それがまた悲壮感を漂わせていた。


考えてもみれば、僕は衣、食、住、を必要としなかった。


そんな当たり前だった事柄にさえ、疑問を持たなかった僕は、やはり人ではなかったのだ。


翌日、僕はノートにメッセージを書いていた。


もちろん、アオイに対してのメッセージだ。


アオイが果たして、帰ってきてくれるかどうかは、保証できない。


けれど、書かずにはいられなかった。


この日は、奇跡としか言いようがない日だった。


別れたあの日のように、わたあめ雲が浮かんでいた。


僕がそれらを眺めていた時だった。


セーラー服を着込んだ女子高生が、チラリと視界に映った。


その子を見た時、親子を見たあの日と同じ感覚があったのだ。


きっと、アオイなんだ。


確証はなかったが、直感的にそう思えたのだ。


アオイはキョロキョロと、何かを捜していた。


僕の事は見えていない、のか。


予想は外れたのかと思いきや、どうやら当たっていたらしい。


アオイはベンチの方向に、小走りで駆けてきた。


アオイはどうやら、僕の存在は見えなかった。


しかしノートを見つけてくれた。


メッセージを書いといて、よかった。


アオイは「見つけ、た」と少々息切れがあった。


やはりアオイだった。


僕は思わず、感嘆とした声をだした。


アオイは早速ノートを開いた。


ノートのメッセージは、こう書いたはずだ。


『このメッセージが君に届くかどうかは、定かではないと思っている。


けれど僕は書いた。


いつか君が読んでくれると信じて。


最初に僕は、君に謝りたい。


別れた時に放ったあの言葉は、ウソなんだ。


本当は我儘を言いたかったんだ。


君ともっと話をしたい。


いっその事、引越しをやめてほしいと。


僕は願っていたんだ。


君といつまでも他愛ない会話を続けられる事を。


それから気づいた事があるんだ。


僕が幽霊だということ。


だから君が僕と出会えたことは、偶然の偶然で奇跡だったんだ。


僕は自分が嫌われているんだと思っていた。


でも単なる思い込みだったんだ。


痛々しいあの視線も、僕にじゃなくて君に向けられていたんだ。


それでも君は、僕と会話をしてくれた。


耳が聞こえなかったから、気にすることもなかっただろうけど。


でも君は優しいから、僕に話しかけただろう。


だから、ありがとう。


でもごめんなさい。


僕はもういない存在だから、これでお別れだ。


もっと書きたいけど、ノートがもう、終わりそうだから。


楽しかったよ。


ありがとう。


アオイ。


さよなら』


そう、書いた。


アオイの顔色を窺うと、泣いていた。


優しい女の子だ。


僕はついこの言葉を、ポツリと呟いた。


「ありがとう。覚えてくれていて」


僕がそう言った時、アオイの両目が見開いた。


そして、アオイも一言呟いてくれたのだ。


「やっと、君の声が聞けた……!」


僕も泣いてしまった。


届いて、よかった。

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