クライ・ベイビー
烏丸千弦
scene 1. ロックフィールドじゃないけれど
どこまでも続くなだらかな丘陵地。三月になったばかりの今はまだ黄緑色のヴェールはうっすらとして、土の色を透かしていた。春の陽を惜しむかのような
ここはチェコ、プラハから車でおよそ二時間半、南モラヴィア州、ブルノからやや南西に位置する、のどかな農村である。
広大な農場のなかにぽつりと建つ
農場の主であるイェリネク一家は辺り一帯の農地を管理しながら、あるとき副業としてペンションを経営し始めた。初めは牛舎だった建物だけを改築し、一階はレストランやラウンジ、二階は客室と、夫婦ふたりで経営できる規模の小さなペンションだったそうだ。
聖ペトロ聖パウロ大聖堂や、無数の人骨が飾られた聖ヤコブ教会の地下納骨堂など見どころの多いチェコ第二の都市ブルノと、その近郊のレドニツェ城へのアクセスに便利の良い場所に建つ、牧歌的な美しい風景のなかでのんびりと休暇を過ごせるペンション――いつの頃からか、その評判は口伝で徐々に拡まった。
評判が評判を呼び、雑誌で紹介されるに至ると、予約の電話は鳴りっぱなしになった。客室を増やそうということになり、次に納屋が改築された。一棟めと違い、一階も客室にしたため収容人数は一気に三倍になった。一棟めは旧館、または本館と呼ばれるようになり、レストランの片隅にバーもできた。牛や馬、豚は臭いが気になることもあって近隣の知り合いに引き取ってもらうことにし、イェリネク一家はペンション経営に専念するようになった。
そして街の高級ホテルではなく、田舎の素朴なアコモデーションが客を呼ぶとわかると、他にもファームハウスを改築したペンションが何軒ができた。
そんな他のペンションと差をつけようとしたのかどうかは定かではないが、イェリネク・ドヴールはその後も改築、増築を繰り返し、今は単なる宿泊施設ではなく――
「――ここ、なーんかありがちな感じなんだよなあ」
「コード? じゃ、こう……」
「いや、もうちょっとテンポをあげてみちゃどうだ?」
元は穀物倉だった建物を利用しているという天井の高い、広い空間の中心で、ルカはスツールに坐ってアコースティックギターを抱えたまま頭を掻いた。無造作にひとつに纏められたウェービーヘアが、ふわりと揺れる。その向かい、膝を突き合わせるようにして同じくギターを抱えているテディが、少しずつコードを変えて鳴らしては顔色を窺うようにルカの目を覗きこむ。床に直にあぐらをかいて坐っているユーリは、ギターを抱えてはいたがリズムを確かめるように手でボディを叩いていた。
「いや、テンポはむしろもうちょっと落としてもいい……。ラヴソングだし、もっとこう、切々とした感じにしたいんだ」
「それがありがちになる原因じゃ?」
「かもな」
プラハを拠点とし、世界中で人気を博しているロックバンド、ジー・デヴィール。
ヴォーカルのルカ、ベースのテディ、ドラムのユーリと、今は別スタジオで他の作業をしているギターのドリュー、キーボードのジェシの五人は、この滞在型音楽スタジオとなったイェリネク・ドヴールで、次のアルバム用の楽曲制作のため合宿中であった。
バンドメンバー以外にも楽器テックや付き人、マネージャーなどスタッフたちも入れ替わり立ち代わり出入りしている。が、バンドの五人は曲作りに集中するため、ほぼ缶詰状態だ。
滞在型音楽スタジオと聞いてまず思い浮かぶのは、かの有名なイギリスのウェールズにあるロックフィールド・スタジオだろう。ロックフィールドも広大な農場のファームハウスを利用したスタジオであり、周囲の環境も似ている。
チェコにもこんな場所がある、そこを利用しようとマネージャーのロニーから提案されたとき、バンドは揃って不平不満の声をあげた。
「いや、チェコにも似たようなところがあるっていうのは喜ばしいが、どうせならロックフィールドに行きたかったな」
「ドリューの云うとおりだ。ロックフィールドといえば伝説のスタジオだぞ。どれだけのすごいバンドがロックフィールドですごい曲を生みだしたか知ってるか? 環境じゃないんだ、あそこだから意味があるんだぞ」
「だよなあ。クイーンとかブラックサバスとか……イギーとかストラングラーズも確か利用したことがあったよな……」
「あとストーンローゼズとかシャーラタンズとか、オーシャンカラーシーンとかオアシスとかもですよ! ああ、行きたかったです……」
「環境や雰囲気は似てるのかもしれないけどさ、それじゃロックフィールドごっこしに行く気分になるよね……」
ドリュー、ユーリ、ルカ、ジェシ、テディの五人がぶつぶつと文句を云いながら溜息をつく。レーベルの代表取締役であり、バンドのマネージャーでもあるロニーはパンツスーツを着た腰に両手を当て、悪ガキどもを前にした教師のようにぴしゃりと云った。
「我が儘云わなーい! 気持ちはわかるけど、そこまで詳しいんならロックフィールドがどこにあるかも知ってるわよね? そう、ウェールズ。遠すぎるでしょ! でも南モラヴィアのスタジオなら楽器や必要な機材を運ぶのも車で済むし、私も事務所と行き来しやすいし、便利なのよ。いいじゃない、ロックフィールドは確かに有名なミュージシャンがいっぱい利用した伝説のスタジオだけど、はっきり云ってこっちのほうが綺麗で快適よ? 食事も美味しいって評判だし」
そしてバンドはしょうがないなと渋々納得し、イェリネク・ドヴールへとやってきたが――いざ来てみれば、ロニーから聞いて想像していた以上の素晴らしい環境と快適さに、ロックフィールド・スタジオへの執着などあっという間に吹き飛んだ。
今、ルカとテディとユーリがいるサウンドスタジオにはドラムセットやキーボード、アンプなどの類が置かれているが、これはロニーが云ったとおり、メンバーたちが普段愛用しているものを持ちこんでいる。ここには
その理由は壁に貼られている過去の利用者たちの写真を見ればすぐにわかる――写っているのはヴァイオリンやチェロ、ヴィオラ、コントラバスやオーボエ、フルートなどを持った若き演奏家たち。クラシック音楽が盛んなチェコらしく、利用するのはほとんどがロックバンドではなく、室内楽の演奏家たちなのだ。
敷地内には録音が可能なこのサウンドスタジオの他、元は豚舎と厩舎だったという防音壁で区切られたリハーサルスタジオがある。そして客室のある三角屋根の家屋が二棟。その一方、門から入ってすぐ右手にあるのが本館と呼ばれている建物だ。濃いオレンジ色の屋根に淡いクリーム色の外壁は暖かみがあり、窓枠のグリーンと一部の煉瓦がアクセントのようになっている。
元は納屋だった別館は改築後さらにリノベーションされていて、客室はちょっとしたホテル並みの快適さだ。陽あたりの良い中庭にはガーデンチェアが並んでいて、そこから本館の前を通り抜けた先には煉瓦を積んで作られたBBQグリルもある。
別館やスタジオの並ぶ建物の裏手は池のある広い庭で、そこではガチョウたちが放し飼いにされている。今はまだ眠っている木々も、時期がくれば緑の葉が生い茂り、林檎やプラムなどの果実をつける。
近くにはサイクリングロードがあり、乗馬体験ができるところもある。食事は持ち込みも自炊することも可能だが、希望に応じて今では代の変わったイェリネク夫妻が、地元の食材をふんだんに使ったチェコ料理を提供してくれる。牛乳や卵も新鮮で、チーズやソーセージ、はちみつなど自家製のものも味わえる。風景に溶けこんでいて可愛いが、庭のガチョウだって食材だ。
そしてなにより、この地の名産はワインである。そう云えばそうだと今更に気づいた一行は、ブルチャークという発酵途中のフレッシュなワインが楽しめる葡萄の収穫期まで滞在したいと云って、ロニーに半年も居る気かとまたもや怒号を落とされていた。
「ちょっと休憩にしよう。喉が渇いた」
椅子にギターを立てかけ、ルカはうーんと伸びをした。それに倣い、立ちあがったテディが「賛成」と窓に近づく。
「そういや、今日はロニーが来る日だっけ。別に、そんなまめに来なくていいのにね」
「適当に手抜きして楽すればいいのに、いつもせかせか忙しく動いてるよな。ワーカホリックってやつか」
「貧乏性ってほうがしっくりくるな」
ルカとユーリが云いたいことを云っているのを聞いて、テディがくすくすと笑う。ちょうどそのとき。
「あ」
窓から外を見ていたテディが、脇道側から入ってくるグレーのフィアット500を指さした。「噂をすれば来たよ」
フィアットはバックして駐車スペースに収まり、程無く大きなショルダーバッグを抱えたロニーが降りてきた。ばんっとドアを閉める音が響いたと思ったら、キャリアウーマン然としたスーツ姿はかつかつと足音が聞こえてきそうな忙しなさで、あっという間に見えなくなった。
こちらを見向きもせずに通り過ぎていったロニーに、なんとなく顔を見合わせてふっと笑う。
「さて、じゃああっちでお茶にするか」
三人はそう云ってスタジオを出、ロニーが向かったであろうレストランやラウンジのある本館へと向かった。
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