二五章 美咲にもう遅い。ほだかにプロポーズ

 「美咲みさきさん⁉」

 その姿を一目見るなり、まことは目を丸くして叫んだ。

 自分の家の居間。そこに、テーブルをはさんんで誠司せいじ冬菜とうなと向かいあう形で高遠たかとう美咲みさきが座っていた。

 困惑気味、と言うか、どういう態度をとっていいのかわからないと言った様子の誠司せいじ冬菜とうなの前で、美咲みさきは以前とかわらない貴族令嬢のようにごく自然に人を見下す権高い顔付きで座っている。きちんと正座しているのがまだしも、と言うところか。

 「美咲みさきさん?」

 美咲みさきまことの言い方に眉を吊りあげた。

 怒りの前兆の表情だ。一年前までなら美咲みさきがこの表情を浮かべるとまことは這いつくばるようにしてご機嫌をとり、旅行やプレゼントの約束をしたものだ。もちろん、いまのまことはそんなことはしない。

 その態度のちがいに苛立ったのだろう。美咲みさきの声に険が含まれた。

 「ずいぶんと他人行儀な呼び方じゃない。どうしたの?」

 「えっ? いや、だって、他人だし……」

 まことはまったくの無意識にそう答えていた。

 美咲みさきの眉がますます吊りあがる。誠司せいじ冬菜とうなはホッとした様子でここぞとばかりに言った。腰を浮かせた。

 「そ、それじゃあ、おれたちはこれで……」

 「そ、そうね。あとはお若い方たちにお任せして……」

 『ホホホ』と、口元を手で隠して作り笑いしながら、まるで見合いの仲人のようなことを言ってそそくさと去っていく。すれ違い様『はあ~、やれやれ……』という誠司せいじの安堵の溜め息が聞こえた。

 「いったい、どうしたんだ?」

 まこと美咲みさきの真向かいに座りながら尋ねた。

 誠司せいじ冬菜とうなは出て行ったが、ほだかは出て行かなかった。それどころか、これ見よがしにまことにピッタリ寄り添い、くっつくほど近くに座った。

 美咲みさきはそんなほだかを見て思いきり睨みつけたが、そこは篠崎しのざきほだか。鬼女の睨みも余裕の笑みで押し返す。

 「あ、そう言えば……」

 まことは急に思い出した。

 心配する顔付きになった。

 「神崎物産が大変なことになったらしいな。ニュースで見たよ。脱税やら遺法取り引きやらでガタガタになって、創業者一族が責任をとらされて追放されたって。翔悟しょうごさんは大丈夫なのか?」

 言いながら、まことは純粋に心配している自分に気がついた。

 まるで、災害に遭った地域のニュースを聞いて、現地の人々を心配するようなそんな気持ち。同情はする。心を痛めもする。募金ぐらいには参加することもある。

 しかし、それだけ。我が事として心配することはない。気に懸けることはない。あくまでも、見ず知らずの他人に対する心配。

 それとまったく同じ思いをいま、目の前にいる美咲みさきに対して感じていた。

 ――本当に他人になったんだなあ。

 まことはつくづくとそう思った。

 大学に入ってすぐに一目惚れした。

 それから二年間、悩みになやんでようやく、玉砕覚悟で告白した。まさかのOKをもらって天にも昇る心地になった。

 以来、八年間、とにかく尽くすだけ尽くしてきた。美咲みさきの言うことはなんでも聞いてきた。そんな相手なのに、まだ別れて、いや、捨てられてから一年しかたっていないのに。それなのに、もう他人。

 ――いや。そもそも、存在自体、すっかり忘れていたよな。

 たった一年でなんというかわりよう。

 ――やっぱり、美咲みさきさん本人を好きだったわけじゃないんだな。

 つくづくとそう思う。

 ――ただ、美咲みさきさんのまとう都会の雰囲気に憧れていただけ。田舎農家という自分のコンプレックスを解消してくれる存在として、ついてまわっていただけ。そんなおれに八年も付き合わせて本当に悪いことをしたな。

 つくづくと罪悪感が沸き起こる。

 ――せめて、今後は幸せになってほしい。

 まことはごく自然にそう思った。

 自分とはちがう場所で。

 「アレとは別れたわ」

 美咲みさきが吐き捨てるように言った。

 仮にも婚約者だったはずの相手を『アレ』と斬り捨てるあたりが美咲みさきらしい。

 「別れた? どうして?」

 目を丸くするまことに対して、美咲みさきはやはり吐き捨てるような口調で語った。

 「御曹司なんてやっぱり駄目よ。他人にへいこらされて当然と思ってるんだから」

 「それこそ、あなたにピッタリじゃないですか」

 ほだかが無邪気を装った口調でツッコんだ。

 美咲みさきはすさまじい目付きでほだかを睨んだ。

 ほだかはそんな目付きをしかし、どこ吹く風と受け流す。

 「ほだか」

 まことがほだかをたしなめた。

 「はあい」

 と、ほだかはイタズラを注意された子どものように答えた。

 「とにかく。そう言うわけでアレとはもう別れたのよ」

 美咲みさきはそう言った。

 その一言ですべてを説明した気になっているらしい。

 「だから、まこと。やっぱり、あなたと結婚してあげるわ」

 「はっ?」

 まことの受けた驚きはこれが最大のものだったろう。

 「結婚? なにを言ってるんだ、いったい?」

 「それこそ、どういう意味? あなたはわたしが好きなんでしょう。だから、結婚してあげるって言ってるんじゃない。喜びなさいよ」

 「いやいや、まってくれ。おれたちはもう他人だぞ。なんでいきなり『結婚』なんて話が出てくるんだ?」

 「わからない人ね。あなたは、わたしが好き。だから、結婚してあげる。そう言ってるのよ」

 美咲みさきは苛々した口調で言った。

 まことはあっけにとられて思わず本音を口にしてしまった。

 「いや、あいにく、最初から好きじゃなかったから」

 「なんですって⁉」

 「いや。本当に悪かった。おれも君のことを好きなんだと、愛しているんだと思っていた。でも、ちがった。おれはただ、自分のなかの田舎農家というコンプレックスを解消するために君を飾りにしていたんだ」

 「飾りですって⁉」

 「ああ。その通りだ。認める。申し訳ない。本当に悪かった。おれはただ、君のもつ都会的な雰囲気に憧れていたんだ。君がそばにいてくれれば、おれも都会の人間になれる。そんなふうに思っていただけなんだ。そんなおれに八年も付き合わせてしまって本当に申し訳なかったと思ってる。この通り。謝る」

 まことはそう言って頭をさげた。

 「でも、君はそれだけの美人なんだ。翔悟しょうごさんとのことは残念だったけど、まだまだいくらでも良い相手は見つけられるさ。素敵な相手を見つけて幸せになってくれ」

 嫌味でも、皮肉でもなく、本心からまことはそう言った。

 本心からそう言いきれるぐらい、美咲みさきまことにとって『過去の人』になっていた。

 「ちょ、ちょっとまちなさいよ! なんで、あんたが、わたしに向かってそんな偉そうなこと言うのよ! 以前のあんたは……」

 「『もう遅い』ってやつですよ」

 ほだかが勝者の笑みを浮かべながら言った。

 「せっかく見つけた御曹司がただの人になったからって、捨てた玩具が富と名声を手に入れたからって、取り戻そうとしても無理なんです。そんな都合のいいこと出来るわけがないじゃないですか。自分のバカさを認めてさっさと引きさがるんですね」

 「な、なによ、この小娘。偉そうなことを……」

 「美咲みさきさん!」

 まことが叫んだ。

 美咲みさきを睨んだ。

 本気の怒りの形相だった。

 まことの本気の怒りをはじめてぶつけられて美咲みさきは明らかに怯えた。まことはそれでも自制しながら、なるべく穏やかな口調で言った。

 「ほだかは、かのはおれにとっても、この家にとっても大切な存在なんだ。馬鹿にするような言い方はやめてくれ」

 「な、なによ……。まさか、あんた、わたしを差し置いて、こんな小娘とどうにかなろうって言うんじゃないでしょうね?」

 「確かに、あたしはおふたりより年下ですけどね」

 ほだかは『ふふん』と美咲みさきを見下しながら言った。

 「まことさんと一緒にがんばって、まことさんと一緒に金持ちになったのはあたしなんです。まことさんにとって必要なのがどちらかなんて、その色ボケ頭でもわかるでしょう?」

 「い、色ボケ……!」

 いままで――まわり中から思われてはいても――面と向かって言われたこなどないことを言われて、美咲みさきは言葉を失った。

 「ちょっと、まこと! なにか言いなさいよ。まさか、本当にこんな小娘の言いなりになって……」

 「呼び捨てにするのは、やめてもらおう」

 まことはピシャリと美咲みさきの言葉を遮った。

 「おれたちはもうお互い、相手を呼び捨てにするような関係じゃない」

 「まこと……」

 まことは息をひとつ吸うと、はっきりと口にした。

 「美咲みさきさん。おれは代々つづくコマツナ農家だ。先祖から伝えられた畑を守りたいし、子孫に残したい。いまは本気でそう思っているし、そのことに誇りをもってもいる。でも、君は農家にはなれない。一緒にいてもお互い、いいことなんてなにもない」

 ――住む世界がちがうんだ。

 まことははっきりと美咲みさきにそのことを示した。

 「そして、なによりも……」

 まことはほだかを見た。

 ほだかはいつもの笑顔でまことを迎えた。

 「おれが一緒に人生を過ごしたいと思う相手はここにいる」

 まことは立ちあがった。

 真摯な瞳と表情でほだかを見た。

 「篠崎しのざきほだかさん」

 「はい」

 と、ほだかも立ちあがった。

 優しい微笑みを浮かべ、まことを見上げた。これからなにを言われるのかを正確に理解し、それにどう答えるかもすでに決まっている。そういう表情だった。

 美咲みさきの目の前で――。

 ふたりの人生最大のイベントが行われようとしていた。

 「篠崎しのざきほだかさん。あなたのまっすぐとさひたむきさに惚れました。あなたがいてくれたから、あなたが認めてくれたから、おれは自分を、代々つづくコマツナ農家てあることを誇りに思えるようになった。あなたと一緒に生きていきたい。小松こまつがわまことと結婚してください!」

 まことは頭をさげ、右手を差し出した。

 ほだかはその右手を受けとるような真似はしなかった。そのかわり、

 「はい。よろしくお願いします。まこと

 そう言って――。

 まことに抱きつき、思いきりキスをした。

 居間のふすまが開いて誠司せいじ冬菜とうな、それになぜか伊吹いぶきまでが入ってきて歓声をあげた。

 屈辱に震える美咲みさきの前。

 そこで、一組のカップルが誕生していた。

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