一四章 御曹司にざまぁ

 その日の昼下がり。

 まこととほだかはふたり並んで畑の様子を見回っていた。

 ほだかは相変わらす近すぎるぐらいに近い距離でまことにピッタリくっついている。まこととしてはどうしても身と身がふれあうのが気になるのだが、いつものことなので注意もしづらい。

 なんとも複雑な感情を抱えてモヤモヤしているまことのすぐ脇で、ほだかはコマツナの様子を見ながら言った。

 「どの苗もずいぶんつぼみが大きくなってきましたね。もうすぐ全部、終わりですかね」

 なにかと言うとからかってくる(からかってるだけだよな?)ほだかだが、自分から望んだこととあって仕事に関してはさすがに真面目。とくに、カメラマンという仕事柄、観察力が高いのだろう。収穫時期に関してはすぐにプロはだしになってしまった。

 「そうだな。いつも、このぐらいの時期になると全部とって、夏作の準備をはじめるし……」

 まことは答えながら空を見た。青い空の真ん中で黄金色の太陽が燦々と照っている。その日差しは肌に痛いぐらいで、とても三月とは思えない。まるで、初夏の日差しのよう。

 こうして日差しを浴びながら歩いているとすぐに汗ばんでくるし、半袖でも大丈夫そう。もっとも、畑には毒虫も多いので、刺されないように夏でも長袖なのだが。

 「……ほんと。三月とは思えない日差しだな。おれが子どもの頃はこの時期はもっと寒かったものだけど」

 まことの言葉に、ほだかは唇に指を当てて考え込んだ。

 「そうですかねえ? あたしは、昔からこんな感じだったと思いますけど」

 その言葉に――。

 ジェネレーション・ギャップを感じて思わず落ち込むまことであった。

 ふいに、クラクションが鳴り響き、聞き慣れないエンジン音がした。見てみると、いかにも高級そうな真っ赤なスポーツカーがやってきたところだった。スポーツカーには興味のないまことにはわからないことだが、それはイタリアはフェラーリ社のハイブリッドスーパーカー、SF90ストラダーレであった。

 しかも、高性能モデルのアセットフィオラーノ。まことではとうてい手が出せないのはもちろん、まことの運動能力では怖くて運転できないという代物である。

 ――あんなゴツい車が、こんなところになんの用だ?

 車種やくわしいスペックまではわからなくても、普通は畑の広がる田舎道を走っているような車ではないことはわかる。そんな車でわざわざやってくるなんていったい、どこの物好きなのか。

 いぶかしむまことの前で、真っ赤なSF90ストラダーレは音を立ててとまった。ドアを開いて降りてきたのは――。

 「美咲みさき⁉」

 まことは驚きのあまり両目と口で三つの大きなOの字を作った。真っ赤なSF90ストラダーレから降りてきたのはまぎれもなく、ついこの間、まことをすてて他の男に走ったばかりの高遠たかとう美咲みさきであった。

 もともと高級志向で、どこに行くにも必ず着飾り、そのための費用をまことに要求していた美咲みさきだが、今日はまた一段と金のかかった服装をしていた。付き合っている男の財布の厚さのちがいだろう。

 そして、運転席からはその財布……ではなく、現在の男である神崎かんざき翔悟しょうごも降りてきた。相変わらずの天下万民を見下すような薄ら笑い。イタリア製の高級スーツに身を固めたその姿が『洗練』ではなく『軽薄』にしか見えないという、スーツの作り手が見たら無理やりはぎ取ってやりたくなる印象もあのときのまま。

 「な、なんで、あのふたりが……」

 戸惑うまことの前で美咲みさき翔悟しょうごは並んで歩いてきた。畑の前で立ちどまった。

 「畑なんかに入れるか。靴が汚れる」

 そう言わんばかりの態度で足をとめ、まことを手招きする。

 本来であれば、応じる必要などない失礼極まる態度だが、このときのまことは戸惑いの方が大きかったので、催眠術にでもかけられたかのようにフラフラと近づいてしまった。その様子を見て、翔悟しょうごが大いなる満足の笑みを浮かべたことは言うまでもない。

 まことはふたりの目前に立った。こうして、目の前にしてみるとまことの戸惑いはますます大きくなった。美咲みさきに対してなんの魅力も感じていない自分に対して。

 美咲みさきの美貌。あれほどに恋い焦がれ、『こんな美女と結婚できるならなんでもする!』と思っていた美貌。捨てられたときとなにもかわることのないその美貌を目の前にしていると言うのに、心惹かれるものがまるでない。

 技術だけは高いが、個性も、特徴もなにもない下手くそな絵描きの絵を見ているような気分。捨てられたばかりの頃は夜ごとに思い出してはひとり、空しく自分を慰めていたというのに……。

 ――なのに、なんで、こんなになにも感じないんだ?

 まこと自身、そんな自分の反応が信じられなかった。

 「なんで、君たちがここに……」

 まことの言葉を遮って、美咲みさきが言った。

 「相変わらず、貧乏くさい畑ね」

 カチン、と、まことの頭のなかでなにかが鳴った。表情が怒りに引きつった。そのことがまこと自身にも意外だった。この程度のことは以前にも何度も言われた。それでも、頭にきたことなんて一度もなかったのに……。

 そんなまことの気など知らないとばかりに、美咲みさきは一方的に言った。

 「喜びなさい。あなたにいい話をもってきてあげたわ」

 「いい話?」

 「そう。うちでお前の畑の作物を買いとってやろうという話だ」

 翔悟しょうごがなんとも偉そうに胸に手を当ててそう言った。見下す笑みはいつものままだ。

 「うちの会社でもいわゆる『地産地消』というやつに力を入れることになってな。まず、手始めとして、東京都内の農家と契約することになった」

 「そこで、わたしがあなたのことを推薦してあげたの。貧乏くさい畑だけど、野菜だけは確かにおいしかったものね」

 ありがたいでしょう?

 喜びなさい。

 感謝なさい。

 そう言わんばかりの口調で美咲みさきが告げた。

 「おれとしては、こんな名もない零細農家と契約するなど社名の恥だと思うんだがな。婚約者のたっての願いとあっては無下にするわけにもいかない。そこで、今年からこの畑の作物はすべて、我が社で買いとる。まずは……」

 「断る」

 まことは胸を張ってそう答えた。表情にはいわおのような硬い意思が宿っている。

 ――師匠、カッコいい!

 まことの後ろでは押しかけ弟子のほだかが両手をグッと握りしめ、会心の笑顔でエールを送っている。

 「貧乏人のお前たちが食うに困らない程度の金は出して……なんだと? いま、なんと言った?」

 翔悟しょうごは、まことの言葉の意味にようやく気付いてそう言った。

 まこといわおのごとき意思を込めた表情のまま両腕を組んだ。足を肩幅に開いて仁王立ちした。そうするとやはり、子どもの頃から農作業で鍛えられてきた身。豪華な食事と最高級スーツで作られた、見かけだけは立派な翔悟しょうごとは迫力がちがう。

 「断ると言った。この畑は先祖代々伝えられてきた畑だ。ここで採れる作物はおれたちが丹精込めて育てたものだ。おれたちの誇りだ。その価値を理解しようとしない人間に売るわけにはいかない」

 「なにが誇りだ。たたが野菜だろうが」

 「そういうことを言う人間に売ることは出来ない。そう言っているんだ」

 「ちょっと! いいかげんにしなさいよ」

 美咲みさきが叫んだ。

 「せっかく、わたしが推薦してあげたのよ。わたしに恥をかかせるつもり?」

 美咲みさきがそう叱りつけた。

 そう。まさに『叱った』のだ。飼い主かペットの不始末に対してそうするように。

 実際、以前のまことはペット同然の存在だったし、美咲みさきにこうして叱りつけられるとたちまち身を丸めて従ったものだ。しかし、いまのまこと美咲みさきのそんな態度にも動じることなく堂々と対峙している。

 「それは、君が勝手にやったことだろう。恩に着せられる理由などない」

 「なんですって⁉」

 美咲みさきはカッ! と、眉を吊りあげた。いまだにペットと思っている相手に反抗されて、よほど腹が立ったらしい。

 「……おい。言葉に気をつけろよ」

 翔悟しょうごまことを睨みつけた。洗練された――つもりの――外見がはがれ、ゲスな本性がむき出しになっている。

 「貧乏農家に望外のチャンスをくれてやろうと言うのに、無下にするつもりか? 身の程を知った方がいいぞ」

 「身の程を知るべきなのは、どっちですかねえ」

 翔悟しょうごの言葉に――。

 余裕の笑みを浮かべながら篠崎しのざきほだかがやってきた。

 「なんだ、お前は?」

 「あまの育館いくだての出身者です」

 「あ、あまの育館いくだて……?」

 その一言に――。

 翔悟しょうごは明らかに怯んだ。

 その様子は美咲みさきはもちろん、まことにとっても意外なものだった。

 ほだかはそんなまわりの反応は無視してつづけた。

 「神崎かんざき翔悟しょうご。神崎物産社長の次男」

 「し、知ってるのか……⁉」

 「あまの育館いくだて出身者ならそれぐらい当然です。なんと言っても、グローバル企業の大幹部並の教育を受けているんですから」

 ほだかは自信の笑みを浮かべると、胸に手を当てた。小柄な体がまるで仁王像のように頼もしく見える。

 「だから、知ってますよ。あなたのことも。大学を卒業と同時に支社のひとつを任されたのに、取り引き相手を怒らせるばかりでなんの成果も出せない。おまけに、女性社員に手を出して、孕ませる始末。それで怒った親御さんが『手元において監視しておかないとなにをしでかすかわからない』って、本社勤務にかえたんですよねえ」

 そう言われて――。

 翔悟しょうごは真っ青になって後ずさった。まるで、高山病にかかったような顔になってあえいでいる。

 美咲みさきもそんなことは聞いていなかったのだろう。驚いた顔でいま現在の財布、もとい、婚約者を見つめている。

 「そもそも、神崎物産そのものが危ないですもんねえ。あまの育館いくだてに寄付していない数少ない大手企業。しかも、寄付したくないわけじゃなくて、寄付しようとしても断られた。あまの育館いくだてがそんな態度をとる理由はふたつ。あまの育館いくだての理念にあわない悪どい真似をしているか、業績不安で先が見えないか。そのどちらか、あるいは、その両方。他人相手にマウントとってないで、せっせと働いた方がいいんじゃないですか?」

 高級スーツを着て、スポーツカーを乗りまわす生活を失いたくないならね。

 ほだかは嫌味たっぷりにそう言った。

 「こ、小娘……。図に乗るなよ。うちがその気になったらこんな貧乏農家、いつでも潰してやれるんだからな」

 「こっちの台詞です。あまの育館いくだての人脈をたどれば、国家元首級の大物にすぐ行き着くんです。神崎物産ごとき半端大手、いつでも潰してあげますよ」

 ニヤリと笑ってそう言われ――。

 翔悟しょうごはますます顔面蒼白。小便ぐらいチビっているのではないかという表情になった。

 「か、帰るぞ、美咲みさき! いつまでもこんな貧乏くさいところにいられるか!」

 「ちょ、ちょっと……!」

 翔悟しょうごは無理やり美咲みさきを愛車に押し込むと、そのままエンジン音を響かせて走りさった。あとには『ふんぬ!』とばかりに会心の勝利に胸を張るほだかの姿があった。

 「さあ、師匠。邪魔者がいなくなったところで仕事に戻りましょう。やるべきことはまだまだありますよ」

 「あ、ああ……」

 言われて、まことは鼻歌など歌いながら前を歩くほだかについていった。

 「な、なあ……。あまの育館いくだて出身者はグローバル企業の大幹部並の教育を受けてるってほんとなのか?」

 「もちろんです。『親のいない子に最高の教育を』が。あまの育館いくだての設立理念なんですから。それぐらい、当然ですよ」

 そもそも、それだけの教育を受けているからこそ、大手企業がこぞって寄付して自分の所に社員として囲いたがるんじゃないですか。

 ほだかは自慢げにそう付け加えた。

 「な、なるほど……。でも、勉強の苦手な子どもだっているだろう?」

 もし、自分がそんな超高度な教育を詰め込まれたら……。

 そう思うと、恐怖すら覚えるまことであった。

 「もちろん、いますよ。でも、なんにも興味もなければ、才能もない、なんて人間はいませんからね。誰だって、なにかしら向いていることはあるものです。あまの育館いくだてでは早期に向いていることを発見して、その芽を伸ばすように別個の教育をしますからね。

 勉強は全然ダメだけどオリンピック級のアスリートになったとか、動物好きが高じて腕の良いトリマーになったとか、そういう知り合い、たくさんいます」

 「な、なるほど……」

 まことは思わず感心した。これなら確かに、あまの育館いくだてで育った方が幸せなのかも知れない。

 そう思った。

 「あっ! と、ところで、あまの育館いくだての人脈をたどれば国家元首級に行き着くって……本当なのか?」

 本当だとしたら、かなり怖い。

 「それは……」

 「それは?」

 ほだかは唇にそっと人差し指を当てると、ちょっと妖しい笑顔を浮かべた。

 「ひ・み・つ、です」


 その夜。

 まことはめずらしく父親の誠司せいじとふたり、晩酌を付き合っていた。

 「……そうか。美咲みさきさんがきたのか」

 「……ああ」

 冬菜とうなが用意してくれた熱燗と肴を前にしながら誠司せいじが呟き、まことが答える。なんともしんんみりした父と息子の夜だった。

 「今日、会って気がついたよ。おれはかの自身に惚れてたんじゃない。かののもつ都会の雰囲気に憧れていたんだって」

 ――結局、農家であることをバカにしていたのはおれ自身だったんだな。

 そう思い知らされた。

 ――『先祖代々の畑を守る』なんて言っていたのも言葉だけ。本当は家を出て勝負する度胸がなかっただけ。それをごまかすために家業にすがりついていたんだ。だから、美咲みさきさんに惹かれた。都会の女と付き合えばおれもそうなれる。そんな風に思って。だから、美咲みさきさんの言うことにはなんでも従ったし、農業をバカにされても腹も立たなかった。おれ自身が誰よりも農業をバカにしていたから。でも――。

 まことは熱燗を一口、飲んだ。

 ――ほだかがおれを認めてくれた。だから、おれはやっと自分に、農業に誇りをもてた。だから、美咲みさきさんにも惹かれなかったし、誘いにも乗らなかった。

 「おれが馬鹿だったせいで……親父たちにもいやな気持ちをさせたな」

 親の前でのあの美咲みさきの態度。あの態度を見て誠司せいじ冬菜とうなが不愉快でなかったはずはない。

 「馬鹿だったのはお前だけじゃないさ」

 息子の思いを汲み取ったように、誠司せいじが言った。

 「おれも、母さんも同じさ。『先祖代々の畑を守る』なんて格好良いこと言っときながら結局、貧乏農家であることを心のどこかで恥じていた。だから、美咲みさきさんに見下されるような態度をとられても怒ることもできなかった。まったく、情けない話さ。だが――」

 誠司せいじは力強く言った。

 「ほだかちゃんがすべてをかえてくれた。かえるためのチャンスをもってきてくれた。やってやろうぜ、まこと。なんとしてもオーバーアートを成功させて、農業を億単位の金を稼げる夢のある仕事に、誰もがこぞって憧れ、なりたがる職業にするんだ」

 「おう」

 父と息子は酒の入った杯を打ちあわせた。

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