第46話 ただ、貴方と一緒に

 月明かりが照らす薄暗い部屋。お風呂上がりの火照った体。男女2人の心地よい沈黙。

 悪くない雰囲気だ。今日はシャーリーにもこの部屋には近付かないように伝えているし、紫乃ちゃんも気を遣って弥太郎君と2人きりにしてくれた。

 後はほんの少しの勇気だけ。

 それだけなのに、私は踏み出せないでいた。


「ねえ、弥太郎君」

「なんだ?」


 弥太郎君の声が耳元で聞こえてきて、私は言葉を詰まらせる。

 細身なのに筋肉質な体に後ろから抱きしめられて、私の心臓は体内から飛び出さんと暴れ回る。

 今夜こそはと意気込んで、いつもより念入りに体を洗った。

 弥太郎君に興奮してほしくて、可愛い下着を選んだ。

 ありのままの私でいたくて、お嬢様の仮面は脱ぎ捨てて来た。

 それなのに。


「う、ううん。なんでもない」


 あと一歩、あと一言を絞り出す勇気が出ない。いつもの私なら自分から弥太郎君を押し倒す勢いで遂げられるのに。

 弥太郎君に抱かれたい。愛されたい。初めてを奪われたい。そんな気持ちに勇気がついてきてくれない。

 それなのに、どうして私は震えてるの?


「……今日は大人しいな。どこか悪いのか?」


 下心に塗れているだけなのに、優しい弥太郎君は私の身を案じてくれる。

 小さく首を振って否定すると、弥太郎君の大きな手が私の髪を梳く。


「今日は深愛が頑張ったご褒美なんだ。できる限りのことならしてやるから、何でも言ってくれ」


 じゃあ、私とエッチして。思いっきり犯して。そう口にするだけ。

 弥太郎君は嫌だって言うかもしれないけど、言ってみるだけなら自由だ。いつも私が言ってることで、今更恥ずかしがることもない。

 それなのに、私は上手く言葉にできない。


「弥太郎君」

「どうした? 何かしてほしいことがあるのか?」


 彼の言葉に私はひとつの原因に至った。

 勇気が出ない理由。あと一歩のところで怯えてしまう原因に。


「弥太郎君は、何かしてほしいことはないの?」


 弥太郎君は求めない。これまでも彼から私に何かを求めたことはほとんどない。

 大抵は私が強請ってばかりで、彼はそれを叶えてくれるだけ。

 私は弥太郎君の幸せを求めてる。弥太郎君が幸せになることが私の幸せ。その気持ちはずっと変わらない。

 だから、私は怖いんだ。

 弥太郎君に求められないことが怖い。私が求めることが弥太郎君を傷つけてしまうことが怖い。

 弥太郎君は唸り声を上げて、しばらくの沈黙の後に答える。


「俺は深愛の傍に居られるだけで満足だ」


 違う。違うんだよ。

 そう言ってくれるのは嬉しい。私も弥太郎君と一緒に居られるだけで幸せだから。

 でも、私が知りたいのはそういうことじゃない。

 こうして弥太郎君が抱きしめてくれるのは、私がそれを望んでいるから。弥太郎君が撫でてくれるのは、そうすることで私が喜ぶから。

 これは弥太郎君がしたいことじゃない。


「……弥太郎君は私のこと好き?」


 面倒臭い質問だと思う。こんな質問をしても答えはひとつだ。

 彼はきっと好きだって言ってくれる。私はその一言で喜ぶだろうけど、こんな質問で引き出した『好き』という言葉は、私を安心させるための台詞でしかない。

 そこに彼の心はあるのだろうか。彼は私のことをどう思っているのだろうか。

 不安に押しつぶされそうになる私に弥太郎君は優しい声色で囁く。


「深愛、こっちを向いてくれないか」


 私は何も答えなかった。今、弥太郎君の顔を見たくない。弥太郎君に顔を見られたくない。


「頼む、深愛。お前の顔が見たいんだ」


 ずるい。そんなことを言われたら私は断れない。弥太郎君の望みを断れるはずがない。

 私は体勢を変えて、恐る恐る彼の方を向く。


「……なんで泣いてるんだ?」


 だから見せたくなかったのに。


「わからないの。わからないけど……」

「深愛の嫌がることをしたか?」

「違う。違うけど……」


 私も泣いてる理由なんてわからない。ただ、漠然とした恐怖心に苛まれて、胸が締め付けられるような苦しさがあって、泣きたくないのにボロボロと涙が出てきた。


「弥太郎君、私を抱いて。思いっきり犯して。性欲の捌け口にして。そしたら……きっと安心するから」


 違う。今じゃない。こんな顔で言いたくなかった。泣きながら言われても弥太郎君だって困るだけなのに。

 わかっていても止められなかった。彼に求められないと、私の心にぽっかり空いた穴は埋まらない気がした。


「言っただろ。それは」

「弥太郎君は、本当に私のこと好きなの?」


 ああ、ダメだ。ダメだってわかってるのに、どんどん戻れなくなっていく。まさか自分でも自分がこんなに面倒臭い人だとは思わなかった。

 弥太郎君の気持ちも考えずに自分のことばかり。弥太郎君に幸せになってほしいなんて言いながら、私が彼の幸せを奪おうとしている。


「好きだよ」

「足りない」

「好きだ」

「足りないの! 私、怖いの! 弥太郎君がどこか遠くに行っちゃう気がして。私の声なんて届かない場所に行っちゃう気がして。怖くて怖くて仕方ないの!」


 気がつけば、声を荒らげてそう吐き出していた。ダメだってわかっていても止められなかった。

 弥太郎君の顔が見れない。彼の腕に包まれているのに、私は酷く震えていた。言い知れぬ悪寒が体を包み込んでいるみたいだった。

 嫌われたかな。急に変なことまで言い出して、付き合いきれないって思われちゃうかな。

 彼の言葉を待つ私に「悪かった」と寂しげな声が届く。


「紫乃から聞いた。俺が久瀬との勝負で我を忘れて、周りも見えなくなっていた時、深愛だけは俺を応援してくれていたって。それなのに、俺は深愛の声すら届かず久瀬を潰すことだけを考えていた」


 そう言った弥太郎君はとても苦しげな顔をしていた。


「俺が俺自身に負けないように応援してくれていたのに、俺は自分に負けていた。目的を見失って、ただ久瀬を苦しめることだけを考えていた。俺は深愛を悲しませないように闘うと決意したはずなのに」


 弥太郎はもう一度「悪かった」と目を伏せる。

 そっか。私は怖かったんだ。あの時の弥太郎君を見ていて、私は怖くなったんだ。


「違うよ、弥太郎君」


 私が彼の言葉を否定すると、彼は不思議そうに私を見た。


「私、怖かった。でも、弥太郎君が怖かったんじゃないよ。弥太郎君に私の声が届かないことが怖かった。弥太郎君を幸せにしたいなんて言っておきながら、弥太郎君を支えられないことが怖かった。弥太郎君にとって私は必要ないんじゃないかって」

「そんなわけないだろ!」


 今度は弥太郎君が声を荒らげて否定する。びっくりして目を見開くと、彼はバツが悪そうに目を逸らした。


「俺は深愛が好きなんだよ。絶対に手離したくない。ずっと傍に居てほしいし、深愛と一緒に居るためなら俺はなんだってやる。自分の幸せなんて二の次だって思っていた。だが、今は違う。俺は深愛を幸せにしたい。深愛と一緒に幸せになりたいんだよ、俺は」


 今までの弥太郎君なら、たとえ嘘でも絶対に言わないような言葉。だからこそ、この言葉が本心だと伝わってくる。


「だが、まだその時じゃない。俺たちはまだ主人とその従者でしかない。いつかこの関係が終わり、俺が深愛の隣に並べる存在になれたら、深愛が満足するまで抱いてやるから」

「そんなこと、気にしなくていいのに。私って弥太郎君が我慢できるくらい魅力がないの?」


 そんなことはないとわかっていながら、私は意地悪に挑発する。

 たまに不安になる。紫乃ちゃんみたいな綺麗でスタイルの良い女の子と付き合ってたんだもん。私の魅力が足りてないのかなって思う時はある。

 だから、彼からの言葉がほしかった。抱いてやる、じゃなくて抱きたいって言わせてみたい。

 弥太郎君は小さく溜息をつく。ちょっとやり過ぎちゃったかな、と思ったけれど、弥太郎君は「あのなぁ」と口を開く。


「深愛はよく俺に抱かれたいと言うが、俺が同じ気持ちじゃないと思うのか?」

「違うの?」

「抱きたいに……決まってるだろ」


 控えめな声でそう言った彼は、月明かりだけでもわかるくらい耳まで真っ赤にしていた。

 たぶん、私も同じだ。触らなくても顔が熱くなっているのがわかる。


「好きな人がこんなに近くにいて何も感じないわけがないだろ。正直、今すぐ深愛の体が見たい。欲望をぶつけたい。一緒に気持ちよくなって眠れたらどれほど幸せかと思う」

「……ほんと? 本当にそう思ってくれてるの?」

「ああ。恥ずかしながら既に勃ちかけてるくらいだ」


 布団の中をまさぐると、少し固くなった何かに触れて、私は急いで手を引っ込めた。


「……触って確かめるやつがあるか」

「だ、だって気になって……結構大きいんだね。入るかな……」

「ゆっくり慣れていけばいいだろ」

「ふふ、弥太郎君のえっち」

「深愛には言われたくないな」


 私たちは声を揃えて笑う。


「でも、私は弥太郎君に触られるだけでいっぱい濡れるから大丈夫かもね?」

「お前なぁ……こんな時までそうなのかよ」

「弥太郎君も触って確かめてみる?」

「……そそられる提案だが、止まらなくなりそうだから今日はやめておく」

「今日は、ね」

「ああ。今日は、な」


 今はこれでいい。彼の気持ちがわかればそれで。

 少し寂しい気持ちはあるけれど、弥太郎君には弥太郎君の考えがある。この先何十年と一緒に居るのなら、何も焦る必要はない。

 それでも……


「深愛。嫌だったら振りほどいてくれ」


 彼は私の頬を両手で挟むと、クイッと私の顔を上に向ける。

 彼の顔が近い。そう思った瞬間──


「んんっ……」


 突然のことに私は声が出なくなった。ううん、出せなかった。

 弥太郎君に口を塞がれていたから。幸せが頭を埋めつくして何も考えられなくなっていたから。

 少しでも前に進みたい。少しでも弥太郎君に求められたい。そんな私の欲望をわかっていたかのように、弥太郎君は優しくキスをしてくれた。

 違う。弥太郎君もきっと同じなんだ。彼も私を求めてくれている。その事実が私の心を満たしてくれる。

 唇を離した弥太郎君は何故か苦しそうに眉根を寄せていた。


「悪い……我慢できなかった」

「もう1回」

「……いいのか?」

「足りないの。今日は私のご褒美の日でしょ? 今のは弥太郎君がしたかっただけ。今度は私からのお願い」


 躊躇する弥太郎君の頭を抱き寄せ、再びその唇を奪う。今度は私が我慢できなくなっていた。

 いつも欲情している私が、彼に求められて我慢できるはずもなかった。

 閉じた唇をこじ開けるように舌を伸ばすと、彼はびっくりした様子で仰け反る。


「嫌だった?」


 彼を思う存分味わいたい。今すぐ下半身の疼きを満たしたくて仕方ない。

 けれど彼は私を抱きしめるだけでその先は許してくれなかった。


「それはまだ待ってくれ。これ以上すると我慢できなくなる」

「襲っちゃえばいいのに」

「勘弁してくれ。深愛のことは大切にしたいんだ。流れで至るようなことはしたくない」


 弥太郎君らしい答えに私は笑う。

 今はまだその時じゃない。でもいつか必ずその時は来る。

 それまでは彼と一緒に過ごせる日々を思う存分満喫すればいい。

 私の求めた幸せは今、ここにあるのだから。

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