第16話 やっと私のターンですわ!
「こちらへどうぞ、弥太郎君」
私は弥太郎君の部屋のベッドで彼を迎える。
お風呂上がりで濡れた髪。湿った肌のせいかいつもより幼く見える顔。使用人さんにお貸し出ししている薄手の寝具を身にまとい、彼は少し挙動不審になる。
「お、お前何して……」
「昨日は弥太郎君に構ってもらえなかったんですもの。今日は私が満足するまでお相手いただきますわよ」
できる限りの可愛さで弥太郎君を誘惑すると、彼は渋々といった表情でこちらに近付いてきた。
弥太郎君がお屋敷で働くことになって、私は危惧していたことがある。
義理堅い彼のことだ。お仕事が始まってしまえば、彼はお仕事に熱中して私の相手をしてくれなくなるんじゃないかって。
案の定、彼は真摯にお仕事と向き合い始めた。
21時ギリギリまでお仕事をしていたかと思えば、お部屋に戻るなり何か厚い冊子を取り出して目を通し始めた。
私がそっと扉を開けても彼は気付かないほど目の前の冊子に夢中だった。
真剣な彼の表情に、私は彼の邪魔をしないようにその場を後にした。
翌朝。弥太郎君を迎えにお部屋に行ったけれど、そこに彼の姿はなかった。
シャーリーの話では明け方から書庫にこもって鮫ちゃんとお仕事に勤しんでいるらしかった。
最初に顔を合わせた2人はすごく仲が悪そうだった。弥太郎君があれほど怒りを露わにする姿は初めて見た。
それなのに、あっという間に2人は仲良くなっていた。
モヤッとした感情が胸を覆う。
あの2人は似た者同士だ。似た境遇にあって、2人にしかわからない想いがある。
だから、2人が仲良くなるのは嬉しいことのはず。それなのに、私は少し嫌な気持ちになっていた。
登校中も下校中もその気持ちは続いた。
いつものように振る舞ったけれど、胸の内は複雑だった。
でも、お仕事が落ち着いたらきっと、弥太郎君とお話できる時間がある。今日はきっと、何でもないお話をして、一緒に笑えるはずだって、そう思っていた。
なのに、彼は鮫ちゃんを追いかけて行ってしまった。私のことなんて見てないみたいだった。
シャーリーと2人、取り残されてため息をこぼす。
「よろしいのですか? 慧、怒りますよ」
「いいんですのよ。弥太郎君への罰にはちょうどいいですわ」
ふんと鼻を鳴らす私にシャーリーは苦笑する。
弥太郎君はきっと勘違いをしている。私もシャーリーもそれはわかっていた。
鮫ちゃんはかっこよくて、育った環境のせいか口調も荒々しいけれど、本当は心優しい女の子だ。
だけど、私はあえて教えてあげなかった。
これは私なりの仕返しだ。仮にも主人である私を放って、他の女の子に逢いに行くんだもん。弥太郎君が悪いんだよ。
モヤモヤとした気持ちが湧き上がってくる。
これは多分、嫉妬だ。
弥太郎君が他の女の子と仲良くしている姿を見たくない。私だけを見てほしい。私のことだけを考えていてほしい。
もう、あの時のような気持ちはごめんだ。
雪宮さんと一緒にいた弥太郎君を見ているだけしかできない、辛く悲しい気持ちはもう嫌だ。
「お嬢様?」
私のことを気にかけて、シャーリーが顔を覗き込む。
「大丈夫ですわよ。私はもう、あの頃とは違いますもの」
見ているだけの弱い私は嫌いだ。邪魔をしないようにと気を遣って、自分の感情を押し殺す弱い私は嫌いだ。
でも、彼が言ってくれた。もっとワガママでいいって。
私のわがままがあれくらいで済むと思ったら大間違いだ。口にしたことにはきちんと責任を取ってもらわなきゃ。
「シャーリー、私はこのまま弥太郎君をお待ちしますわ。今日は先におやすみになってくださいまし」
シャーリーはふっと薄く笑って、軽く頭を下げる。
「かしこまりました。おやすみなさいませ、お嬢様」
「ええ、おやすみなさい」
シャーリーを見送って、私は小さく息を吐く。
たった1日ではあるけれど、私はもう限界だ。今日はとことん私に付き合ってもらわなきゃ。
※※
部屋に漂うほんのりと甘い匂い。2人きりの空間。ベッドで手招きをしている雲母。
これは……どういう状況だ?
最初は嫌いだった慧さんの想いを知り、仲良くなったと思ったら彼は実は彼女で、思いっきりその胸の柔らかさに触れ、放心状態で風呂に入り、慧さんと顔を合わせられずいそいそと部屋に戻ると、同級生で今や俺の主である女の子がベッドで待ち構えていた。
うん、整理しても理解できん。どういう状況だ、これ?
何故雲母が俺のベッドに居るんだ? 満足するまで相手をしてもらうってどういう意味だ? そういう意味か。いや、そういう意味でいいのか?
慧さんの件も相まって頭がピンク色だ。桃色のお花畑が見えてきた。
「弥太郎君、そこに居ては体を冷やしますわよ。ほら、どうぞこちらへ」
羽毛布団を捲り、隣へと誘う雲母。その所作のせいか、どこかいつもより色っぽい。
いやいや、主人相手に何を欲情してるんだ。浴場の後は欲情ってか。やかましいわ。
冷静なツッコミで平静を取り戻し、何食わぬ顔で雲母の待つベッドに歩み寄る。
「なあ、何してんだ?」
先程の質問を繰り返す。1日とはいえ、雲母とまともに話せていなかったため、彼女が何か仕出かすのではと思ってはいたが、まさか俺を誘惑するほど溜まっていたとは。
いやいやいや。雲母が如何に男子顔負けの下心全開お嬢様だとしても、これまで行動に起こしたことはなかったんだ。これもきっと何かの間違い──
「あら。弥太郎君が構ってくれませんので、いっそ襲ってしまおうと思っただけですわ」
オーケー、前言撤回だ。今までは運良く助かっていただけで、とうとう俺は今日食われるらしい。
ベッドに入るといよいよ逃げ道はない。ここが俺の人生最大の分かれ道だ。もう寝盗られも勘当もどうでもよくなってくるレベルだ。
いっそ慧さんに助けを求めようかと逡巡していると、雲母は身を乗り出して俺の腕を掴む。
「往生際が悪いですわ!」
そのままベッドに引っ張り込まれ、バランスを崩して倒れ込む。ストロベリーブロンドの綺麗な髪がふわりと舞う。
馬乗りの姿勢で見つめ合う俺と雲母。顔が近い。腕の力を抜けば触れ合ってしまいそうだ。
(綺麗な顔してるな……)
改めて彼女の顔をまじまじと見て、そんな感想を抱く。
薄い唇。高い鼻。大きな瞳を長いまつ毛が覆う。華奢な体ながらも女の子らしくふっくらとした胸元。はだけた襟から覗く肌がやけに艶かしい。頬はほんのりと紅潮し、小さな吐息ですら聞こえてくる。
「今は2人きりですわ。恥ずかしがることは何もございませんわよ」
よくよく見るとシャーリーの姿がない。今まで気づかないほど視野が狭くなっていたらしい。疲れかな。煩悩のせいではない。
彼女はそっと俺の頬に触れる。ひんやりとした彼女の手。
「冷たいな」
「冷え性ですの。暖めてくださる?」
彼女の小さな手を俺の手で包み込むと、彼女はビクッと体を震わせる。
彼女に倒れ込まないよう空いた手で真っ赤な頬に触れると、怯える子猫のように目をぎゅっと瞑る。
「なんだ。誘ってきたのにビビってるのか」
「ち、違いますわ! これは武者震いですの!」
「何と戦うんだよ」
「……破瓜の痛み?」
「生々しいな」
彼女の突拍子もない言い訳に思わず笑ってしまう。雰囲気の欠片もなくなってしまった。
俺は体勢を立て直し、彼女の体を起こす。
「ほら、もう満足したろ。そろそろ寝るぞ。雲母も部屋に戻れ」
「や、やだ」
「やだじゃないだろ。もう夜も遅いし、明日も学校なんだ。今日は諦めろ」
俺は部屋の電気を消そうとリモコンを手に取るが、雲母に奪われてしまう。
「やだ!」
リモコンを離すまいと縮こまる彼女は、わがままな子供のようだった。
彼女はベッドの片隅で震えた声で問う。
「なんで、手を出さないの?」
「むしろ何で手出してほしいんだよ」
急にこんなことをして、彼女は何がしたかったのだろう。本当は怖いくせに、何をムキになっているのか。まあ、大方予想はついているが、まさかここまでするとは思わずその理由を尋ねる。
「だって、弥太郎君と話せなくて寂しかったんだもん」
「……それだけか?」
「そ、それだけって……私にとっては死活問題なの!」
顔を上げた彼女は目元に涙を浮かべていた。
「私、頑張ったんだよ。弥太郎君にもらってほしいって思って。そしたら、弥太郎君がもっと私のこと見てくれるかなって」
何を言い出すかと思えば、とんだ見当違いだ。
「俺、お前のことしか考えてないんだけどな」
「ふえ?」
間の抜けた声をもらす雲母の目尻を拭うと、彼女はくすぐったそうに目を細める。
「俺だって、たった1日雲母とちゃんと話せなかっただけで、なんかこう、寂しい気がしたし。俺がちゃんと働こうと思ったのも……まあ慧さんに感化されたのもあるが、元はと言えば雲母にお返しがしたかったわけだしな」
思えば雲母とまた話すようになってから、ほとんど雲母のことばかり考えている。主人だからとか恩人だからとか、それだけじゃない気がするくらいには。
「慧さんが男だと思ってたから、雲母が慧さんをあだ名で呼んだ時に嫉妬までしてたんだ。すげえ勘違いしてたらしいけど」
「鮫ちゃんとお風呂に入ったの?」
「そ、そこまではしてねえよ!」
「そこまで……?」
やべ。墓穴を掘った。
じーっと見つめる視線から逃げると、彼女は深いため息をついた。
「私のこと考えてくれてたなら、なんで襲わないの?」
「そりゃあ……」
「あ、やっぱり鮫ちゃんと」
「それは断じてない」
あまり洗いざらい言いたくはなかったが、背に腹はかえられない。変な誤解をされるよりはマシだ。あながち誤解とも言い切れない気はしてる。
「まだその時じゃないって思ってるだけだ」
「その時っていつ来るの」
「俺はまだ、雲母に恩返しができてない。なんなら今は、お嬢様とその従者でしかない。だからいつか、俺がちゃんと独り立ちして、雲母と並べるくらいになったら……その時は覚悟してくれ」
いつか。それは5年後かもしれないし、10年後かもしれない。もしかするとその時は訪れないのかもしれない。それは今後の俺次第だ。
お嬢様と肩を並べるなんて果てしなく遠い話だが、俺は雲母の隣に立っても恥ずかしくない人間になれるよう努力し続けるしかない。
俺の決意を聞いてくれた雲母は、ふふっと笑みをこぼす。
「もう。意気地無し」
「うるさいな」
まあ、怯える彼女を見て俺の理性が仕事してしまったのも事実だ。もう少しサボってくれても良かったのに。
ちょっとばかしの後悔に苛まれる俺を他所に、雲母はパッと電気を消して羽毛布団をガバッと被せる。
「お、おい」
「今日のところは折れてあげる。だからせめて、一緒に寝てもいい?」
「……まあ、それくらいなら」
「腕枕して」
「はいはい」
「こっち向いてギュッてしてて」
「わがままなお嬢様なことで」
細い腕が俺の背中に伸びてくる。胸に顔を埋める彼女から熱が伝わってくる。
「あったかい」
「そうだな」
「弥太郎君。もう1個わがまま言っていい?」
「10個でも100個でもお好きにどうぞ」
彼女は俺を力強く抱きしめる。
「深愛って呼んで」
「……深愛」
「もっと」
「恥ずかしいんだが」
「もっと」
「深愛」
「やたろーくん」
俺の名前を呼ぶ彼女はどこか幼く、無邪気な子供のようだった。
「待ってるね」
その言葉を最後に、俺たちは静かに眠りについた。
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