第15話 衝撃の事実

 朝4時。窓の外は夜の帳が降りたままで、屋敷の中は100を超える人がいるとは思えないほどの静けさだ。

 俺が普段起きる時間よりも2時間も前に起床したのには理由がある。

 寝ぼけ眼を覚醒させるために顔を洗い、動きやすい格好に着替える。

 万が一にも誰かが起きてしまわないように、俺は息を殺して部屋を出た。


 向かう先は書庫だ。

 俺は昨晩仕事を終えてから、使用人の雇用契約の内容を確認した。

 そこには確かに、鮫島さんの言うように就業時間は21時までと記載があった。

 だが、開始時間についての記載はなかった。

 どうやら朝食の用意や玄関の掃除等朝から仕事をする人もいるため、詳細な規則を決めていないらしい。

 ここから導き出される答え。

 それが、この時間ならこっそり書庫の掃除をしても問題ないのでは? という、恐らくルールギリギリのラインをほんのりアウト側に乗り越えた妙案だ。見つかったら多分怒られる。

 だからこうして人目につかないよう、忍び足で移動している。

 相変わらず長い廊下だが、この角を曲がればゴールはすぐだ。

 どうにか誰にも遭遇することなく書庫に到着する。

 ゆっくりと扉を開け、念の為にこっそりと中を覗き見る。


(……え?)


 そこには既に人影があった。

 上階の本棚をせっせと拭きあげている人物が1人。タキシード姿ではないが、その姿勢の良さから後ろ姿でもすぐに誰かわかった。


「鮫島さん……?」


 小さく声をかけると、彼はビクッと立ち上がる。そのままカクカクとこちらを振り返り、うげぇと聞こえてきそうな顔をする。


「んだよ、お前かよ」

「何してんですか」


 扉を閉めて、あくまで俺たちにしか聞こえないよう小声で問いかける。


「何って見ての通りだろ。掃除だ、掃除。お前こそ何しに来たんだよ」

「見ての通りですよ。掃除です」


 まさかこんな時間にこんな場所で出会うとは。彼の顔を見て罪悪感と少しの安堵が生まれる。


「電気はつけんなよ。この時間、茂野さんが外の見回りしてるから」

「わかりました」


 追い返されるかとも思ったが、どうやら許してくれるらしい。

 バケツは上階に運んであるらしく、俺は雑巾片手に階段を上る。

 俺が隣に来ても文句も優しい声かけもない。鮫島さんらしいと言えばらしいが、せっかくこうして話せる機会がきたんだ。俺は何か会話のきっかけを模索する。

 ……が、特に何も思いつかない。楽しく会話してくれるような人でもない気がするし、おかしなことを言えば二度と話してくれなくなりそうだし。

 俺も黙って仕事しようと思ったその時、


「お前にバレるとは思わなかった」


 と鮫島さんがボヤく。独り言のようにも思えるが、声を発してくれただけでも少し嬉しい。

 今なら会話を続けてくれるかもしれない。


「俺もです。鮫島さんの迷惑にならないようにこっそりやろうと思ってたんですけど……」

「2、3時間やったってあのペースじゃ終わんないだろ」

「その時は明日の朝もやるつもりでした」

「馬鹿だろ。ちゃんと寝なきゃ学業に支障出るぞ」

「勉強には自信があるので」

「うげ、ムカつくやつ」


 べーっと舌を出す鮫島さん。こんな顔もするんだな。

 もっとムカつく人だと思っていた。もっと遠い存在だと思っていた。だけどこうして話してみると、年相応のお兄さんみたいだ。


「鮫島さんこそ、規則はいいんですか?」

「バレなきゃいいんだよ」

「うわ。あれだけ語ってたのに」

「くく、残念ながらこれはお前のお嬢様の教えだ」

「雲母が?」


 あいつ、使用人に変なことばっか教えてないだろうな。シャーリーもたまに変なことを言い出すし。


「つかお前、ハウスダストアレルギーとかじゃないよな?」


 突然そんなことを言い出す鮫島さん。もしかして、昨日この部屋に来て噎せたことを気にしているのだろうか。


「いえ。昨日は埃を吸い込んで噎せただけで、特にそういったことはありません」

「……そうか」


 ふと会話が途切れる。数分間の沈黙。木と布が擦れる音だけが静かに響く。

 だが、昨日のような気まずさはない。こうして隣で一つの目的のために手を動かしていることが心地よくすらある。

 暫くの沈黙を破ったのは鮫島さんだった。

「あー、くそ」と吐き捨てて立ち上がり、真っ直ぐに俺を見る。


「悪かったな。お前を、それに深愛様のことまで侮辱するようなこと言って」


 頭を下げられ、俺も慌てて立ち上がる。

 失礼を言ったのは俺も同じだ。


「い、いえ! こちらこそすみません。鮫島さんの気持ちも考えずに、あんなこと言って」


 彼は静かに首を振り、再び本棚を拭き始める。俺もそれに倣う。


「俺、孤児だったんだよ。親に捨てられて、施設で育てられて。あそこの生活はそこそこ楽しかったけど、俺はこの先どうやって生きていくんだろうって不安で仕方なくて」


 鮫島さんはぽつりぽつりと語り始める。

 懐かしむような、寂しげな表情を浮かべて。


「そんな時に旦那様が俺を拾ってくれたんだ。施設が取り壊されることになってな。そこにいた子供を全員引き取って、ここで働かせてくれたんだ」


 雲母の親父さんには昔会ったことがあるが、優しくおおらかな人だったのをよく覚えている。俺を叱る父さんを宥めてくれたこともあったっけ。

 確かにあの人ならやりそうだと口角が上がる。


「俺にとって旦那様は、俺の居場所をくれた……生きる目的をくれた恩人なんだよ。あの人のためなら俺はドブ掃除でもゲロの片付けでも何でもやる。だから、お前が働くって聞いた時にちょっとムカついたんだ。温室育ちの能天気な野郎に俺たちの居場所を奪われるんじゃないかって」


 ようやく、彼がどうしてここまで仕事と向き合えるのか、その理由がわかった気がした。彼も俺と同じだったからだ。

 お先真っ暗な人生を照らしてくれた。進むべき道を教えてくれた。独りじゃないと寄り添ってくれた。

 そんな恩人への感謝と尊敬。それが彼を突き動かす原動力だったんだ。


「でも、違ったんだな。お前の気持ち、ちゃんと伝わったよ」


 彼はそう言って朗らかに笑った。

 初めて見る彼の表情は、朝焼けの薄い光を浴びてキラキラと輝いて見えた。


「そこの本棚、すげえ綺麗になってたな。昨日お前が言ってたことは本当だったんだって伝わってきた」


 俺は嬉しくなって、溢れそうになる涙をぐっと堪える。

 ちゃんと見てくれる人がいる。最初は分かり合えなくても、こうして理解し合える。認めてもらえる。俺がやってきたことは無駄じゃなかったって、そう思える。


「鮫島さん、俺の話も聞いてもらえませんか」


 気づけば俺は彼にそんなことをお願いしていた。

 静かに頷く彼に俺はこれまでの全てを話した。

 紫乃のこと。父さんのこと。遥太郎のこと。俺がこれまで何をしてきて、どうしてここに居るのか。

 今まで誰にも話したことがなかった話まで、全てを彼に話した。

 鮫島さんはその度に微笑んだり怒ったりと表情をコロコロと変え、話を終えた頃にはほろりと涙を流していた。


「鮫島さん……?」

「泣いてねえよ」

「まだ何も言ってませんよ」


 強がる彼がちょっと面白くて、俺のために泣いてくれる人がいることがすごく嬉しくて。

 彼は袖で目元を拭うと、勢いよく立ち上がる。


「ああもうやめだ、こんな辛気臭い話。俺はお前を許す! お前も俺を許せ! それでいいだろ!」

「あはは、強引ですね」

「弥太郎、お前が一人前になれるまでは俺が面倒見てやる。俺がお前を支えてやる。俺がお前の味方になってやる。だからお前は、深愛様のことをちゃんと見て差し上げろ」

「ありがとうございます。鮫島さんと出会えて良かったですよ」


 本当に。彼には感謝してもしきれない。

 俺たちはこうして分かり合えた……はずだったが、何故か彼は少し不機嫌そうに口を尖らせる。


「その呼び方、よそよそしいからやめろ」

「……鮫ちゃん?」

「絞め殺されてえのか」

「冗談ですよ。慧さんって呼んでいいですか?」

「……ああ」


 それから俺たちは協力して仕事に専念し、どうにか時間内に書庫の清掃を終えた。



 仕事を終え、一度自室に戻った俺はそのままソファへと倒れ込む。お腹は空いたし風呂にも入りたいが、体が悲鳴をあげて動けない。飄々としていた慧さんに比べ、なんと情けないことか。

 少し休もうかと思った矢先、コンコンとノック音が聞こえた。俺は慌てて飛び起きて扉を開ける。


「こんばんは、弥太郎君」

「ああ、雲母か」


 そこにはモコモコの寝巻き姿の雲母といつものメイド服に身を包んだシャーリーが立っていた。


「少しお話よろしくて?」

「ん、大丈夫」


 彼女らを部屋に招き入れ、ベッドに座らせる。ソファは俺がさっき寝っ転がったからな。埃がつくといけない。

 シャーリーは立ったままで居るようだ。俺もそれに倣おうとしたが、雲母に「お掛けくださいまし」と促されてしまう。


「お仕事は終わられましたの?」

「なんとかな。すげえ疲れた」


 主に対して弱音を吐くのは如何なものかと思うが、雲母と話していると安心感からポロッと漏れてしまった。


「ああでも、大変だったけど楽しかった。やりがいがあったって言うか。まだまだだなって思うこともあったけど、その分これからも頑張っていこうと思えたし」


 慌てて捲し立てると、雲母は楽しそうに笑ってくれる。こうしてゆっくりと話すのは久しぶりな気がする。たった1日2日空いただけでもそう感じてしまうのは、彼女と話せなくて少しばかり寂しかったからかもしれない。


「鮫ちゃんとお話できたみたいですわね」


 シャーリーだけでなく、雲母も彼をそう呼んだ。雲母が異性をあだ名で呼ぶことがあるんだな。何だか、少しだけモヤッと──

 いやいや。彼は俺よりも雲母との付き合いが長いんだ。慧さんの人柄を考えると、雲母が懐くのも納得できる。

 なんとなくモヤモヤする気持ちを隠し、俺は笑顔を向ける。


「話せたよ。もうずっと喋りっぱなしだった。最後までやり遂げられたのもあの人のおかげだな」


 俺としてはもう少しゆっくり話がしたかったんだけどな。食事に誘うと「大人しく休んでろ」と突き返されてしまった。

 まあ、それも今では慧さんなりの優しさなんだろうと思う。

 俺の表情から何かを察したのか、雲母は口元を押さえてふふっと笑う。


「鮫ちゃんなら今頃温泉に行かれてる頃かと思いますわ。鮫ちゃんは怖い方に見えてとっても乙女ですので、お仕事の後は温泉に入って半身浴をするのがご趣味ですのよ」

「そうか……なるほど」


 浴場であれば、彼も気を遣わずにゆっくりと話せるかもしれない。半身浴に付き合うのも悪くないな。

 そうと決まれば早速行こう、そうしよう。


「悪い、雲母。俺ちょっと行ってくる」

「え、弥太郎君!?」

「大丈夫だ。これでも仲良くなったしな」


 俺は彼女の制止も聞かず、急いで部屋を飛び出した。


「明朝に無惨な死体となっていなければよろしいのですが……」


 そう雲母が呟いたことを俺は知る由もない。



 急ぎ足で浴場へ向かうと、廊下で彼の後ろ姿を見つけた。相変わらず綺麗な姿勢で見蕩れてしまう。


「慧さん!」


 俺に気付いた慧さんは目を丸くしてこちらを見る。


「弥太郎? 何してんだよ、こんなところで」

「俺も慧さんにお供しようかと思いまして」


 最初の出会いが嘘であるかのように、俺はすっかり彼のことが気に入っていた。もっと仕事について教わりたい。彼のことを知りたいと思う。


「温泉ですよね。俺もお供させてください」


 俺のお願いに対し、彼は顔を真っ赤にする。男同士なのに何を恥ずかしがっているのだろうか。


「……お前、何か勘違いしてないか?」


 なんだ? 何か怒らせるようなことを言っただろうか。彼は怒気のこもった声でずかずかと近付いてくる。

 俺の腕を掴み、自分の胸に手を当てる。

 ドキドキと鼓動が伝わってくる。細身の体に似合う、柔らかい胸。


「……え?」


 俺が自身の犯し続けていた過ちに気付くのにそう時間はかからなかった。


「俺は……女だッ!」


 せっかく近付いた彼女との距離はまた少し後退りしてしまったようだ。

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