第6話 私だってわがままを通しますわ!
私が弥太郎君と初めて出会ったのは4歳の時だった。
私のお父さんと弥太郎君のお父様の商談に連れられたのが始まりだ。
あの頃の私は恥ずかしながらとても奥手で、同年代の男の子と顔を合わせることになり、逃げ出したい思いでいっぱいだったのを今でも覚えている。
私が生まれた雲母家は当時、造船会社を経営しており、まだまだ中小企業の1つでとても有名な企業とは言えなかった。
だからきっとお父さんは、上り調子にあり、いずれは日本の経済を担うとされていた神宮財閥に取り入ろうと、政略結婚でも企てていたのだろうと思う。
今にして思えば酷い話だ。自分の会社のために娘をだしに使おうとしていたのだから。
でも、私はお父さんを恨んではいない。むしろ、とても感謝しているくらいだ。
だって、そのおかげで私の人生は大きく変わったのだから。
4歳の弥太郎君はとても無邪気で、自由な子供だった。
よく私をからかってはゲラゲラと笑って、部屋で大人しくしていろという両家の父親からの言いつけも守らずに私を外へ連れ出し、怪我をしては私まで一緒に怒られていた。
でも彼は、それでいて聡明で何でもできる子供だった。
小学校低学年で習う四則演算や漢字を独学で覚え、身体能力も同年代では桁外れに高かった。
彼はまさに神童。将来神宮家を継ぐ者として紛れもない才覚を発揮していた。
私はそんな彼が苦手だった。
いつも彼の自由奔放さに巻き込まれては一緒になって怒られていたのだから当然だ。
彼にはどんな分野でも勝てないし、同じ名家の跡継ぎとして力の差を見せつけられる。
それなのに、一緒にいて嫌だと思ったことがないのは、偏に彼の人を惹きつける明るい人柄と、私に無いものを持つ羨望からだった。
そんな彼への気持ちが好意に変わったのは、一体いつからだっただろう。
いつの間にか好きになっていた。それが一番しっくりくる。
でも、私の人生観が変えられた日のことははっきりと覚えている。
あれはそう、6歳の春のことだ。
「しゃちょー? そんなのならねーよ」
深い意味もなく問いかけた疑問に彼はあっけらかんと答えた。
「え? しゃちょーさんの子供はしゃちょーさんになるんじゃないの?」
「あー。父さんもそんなこと言ってたっけ。でもオレはやだな」
子供ながらにしても社長という立場が立派な役職であることは知っていた。
お父さんや弥太郎君のお父様の姿を見ていればわかる。大変そうだけど、部下に慕われ頑張る姿はとても目に焼き付いていた。
だから、弥太郎君が苦い顔をしていたことが不思議でたまらなかった。
「な、なんで? しゃちょーさんってすごいんだよ! やたろーくんならきっとなれるよ!」
「んー……」
弥太郎君は少しだけ考える素振りを見せると、眉を八の字に曲げて笑った。
「オレ、遥太郎っていう1個下の弟がいるんだけどさ、あいつすっげえんだよ。頭いいし、運動もすげーし。しゃちょーってすげーんだろ? だったら、しゃちょーになるのは遥太郎に決まりだぜ!」
私から見ても凄い弥太郎君が言うのだから、弟の遥太郎君はどれほど凄い子供なのだろう。
あの頃はそんな安直なことを考えていたけれど、今思えばあの言葉は彼の優しさだった。
弥太郎君が会社を継ぐと、次男の遥太郎君はどうなるのだろう。
たった1年遅く産まれただけで、跡継ぎの権利を失ってしまう。父親の会社に入ることは出来ても社長にはなれない。兄弟でありながら、明確な差をつけられる。
幼い私にそこまでの考えには至らなかったけど、弥太郎君は既に弟のことを考えていた。優しく聡明な彼だからこそたどり着ける答えだった。
「やたろーくんはどうするの?」
彼の考えなど露知らず、私はそんな呑気なことを尋ねる。彼は特に気にする様子もなく答えた。
「オレはそうだなー……世界一の幸せ者になる!」
「しあわせもの?」
えらく漠然とした答えに首を傾げる。
「死んだじいちゃんが言ってたんだ。じいちゃん、死ぬ時にもずっと笑っててさ。オレは泣いてんのに、じいちゃんは死んでも笑ってんの」
お爺様が亡くなった話。辛く暗い話題なのに、彼は笑顔で語る。
「なんでじいちゃんは笑ってんのって聞いたんだ。そしたら、じいちゃん言ってたんだ。幸せだからだって」
彼は今にも泣き出しそうな顔で、無理やり笑顔を作る。
「やりたいことやって、ばあちゃんとオレが最期に一緒にいてくれて、それが嬉しくてたまらないって。幸せな人生だったから、涙なんて出てこないってさ」
「すてきなおじいさんだね」
お爺様が笑っていたから自分が泣くわけにはいかない。そんな気持ちが声から、表情から伝わってきて、私も涙をこらえるのに必死だった。
「オレ、やりたいことがいっぱいあるんだ。勉強頑張って医者になって、ばあちゃんを助けてやりたい。運動も頑張ってサッカー選手になって、ワールドカップで優勝したい。他にも宇宙に行ってみてーし……あ、料理人になって死ぬほど卵料理も食べたい!」
「ふふ、わがままだね」
「いいんだよ、わがままで。わがままも貫き通せばカッケーじゃん? それに、毎日やりたいことがいっぱいやれたら、絶対に幸せだと思うんだ。すげーやつにはなれないかもしれねーけど、オレもじいちゃんみたいに幸せだったって言える人生にしてーんだ」
とてつもなく高い理想だったけれど、彼にならなれる気がして私は頻りに頷いていた。
彼の言葉に感銘を受けていると、彼は「あっ!」と声を上げる。
「オレ、もっとすげーこと思いついた」
「すげーこと?」
「じいちゃんは幸せだったって言ってたけど、ばあちゃんはどうなんだろうな? オレだけ幸せでもダメな気がすんだよなー」
そう呟いて、彼はパンッと手を叩く。
「よし! オレの目標はみんなが幸せになることだ!」
「ええっ! もっとわがままになった!」
「父さんも母さんも遥太郎も、それにみあのこともみーんな幸せにする! そんでオレも幸せになる!」
とんでもないことを言い出す子だと今でも思う。
自分だけでなく周りの人たちまで幸せにしようなんて、夢物語にも程がある。
でも、彼なら出来てしまいそうな気がするから不思議だ。
「みあはどうなんだ?」
圧倒されていた私に彼は問う。
「私は女の子だから、しゃちょーさんにはなれないって」
「いやいや、みあはやりたいこととかないのか?」
「やりたいこと……」
私に弥太郎君のような立派な目標はない。こうなりたいという強い夢もなかった。
返答に困る私に彼はにこりと微笑む。
「難しく考えなくていいって。好きなこととか、楽しいこととか、そういうのでいいんだよ」
「好きなこと……私、歌うのが好き、かな?」
「歌! オレも歌うの好きだぜ!」
彼はそう言ってふんふんと歌い始める。お世辞にも上手とは言えなくて、初めて彼の弱点を見た気がした。
好きなだけ歌い終えると、今度はこちらに矛先が向いた。
「なあ、みあの歌も聴かせてくれよ」
「え、でも恥ずかしいから……」
「いいからいいから。今はオレしか聞いてないって!」
強引な弥太郎君に気圧されて、私は嫌々ながら歌った。
当時見ていた女児向けアニメの主題歌だった。弥太郎君が知っているはずもない。
震えた声で、いつもより下手くそな歌を彼は真剣に聴いていた。
1番だけを歌い終えて、私はふうっと呼吸を整える。
それと同時に彼は私の手をぎゅっと握った。
「すげー! みあ、めっちゃ歌上手いじゃん! 歌手だ、歌手になれる!」
「そ、そんな……大袈裟だよぅ……」
腕がちぎれんばかりに振り回される私の手。
すごく恥ずかしかったけれど、彼があまりに手放しで褒めるものだから私は嬉しくてたまらなかった。
そして、私の目標が決まった瞬間でもあった。
「本当になれる、かな……?」
「なれる! みあのファン第1号が絶対にほしょーする!」
「ふふ、なにそれ」
彼の言葉には不思議な説得力がある。私ならなれると、そう確信した瞬間だった。
あの時、頬に帯びた熱と胸の高鳴りは生涯忘れることはないだろう。
※※
警察署で遺失物届を提出し、お屋敷へと戻る。
帰りの足取りはどこか重い。帰りたくないという気持ちが歩幅を小さくしている。
弥太郎君が気を遣って会話を盛り上げようとしてくれていたけれど、私は上手く返せない。
次第にぽつぽつと言葉数は減っていき、やがて沈黙が訪れる。
違う。こんな空気にしたいんじゃない。もっと弥太郎君とお話がしたい。
どんな話でもいい。くだらない話でも品のない話でも何だっていい。
ただ、弥太郎君ともう少し一緒にいたい。それだけなのに。
だって、このまま帰ってしまったら弥太郎君はお屋敷を出て行ってしまう。
優しい彼のことだ。これ以上私に迷惑をかけたくないんだ。私が迷惑だと思っていなくても、優しい彼は私が少しでも負担に思うようなことはしない。
でも、それは違う。弥太郎君はわかっていない。
そんなことないって、一緒に居てほしいって、その言葉が喉につかえて出てこない。
私も同じなんだ。弥太郎君が嫌がるようなことはしたくない。
弥太郎君が決めたことなら、私はそれを応援するだけ。
「雲母、大丈夫か?」
いつの間にか止まっていた私の足。弥太郎君も足を止めてこちらを見ている。
言わなければ。行っちゃ嫌だって。もう独りは嫌だって。今度は私のことを見てって。
でも、出てこない。いつもなら言えるのに。冗談みたいに笑って、思いの丈を吐き出せるのに。
「大丈夫、ですわ。ちょっと歩き疲れたのかもしれませんわね」
「ああ、悪いな。1日付き合わせたもんな。何かあったら言ってくれ。世話になった分、返したいからな」
そう言って彼は歩き出す。私の歩幅に合わせてゆっくり、ゆっくりと。
やっぱり弥太郎君は優しい。こんなに優しい彼が酷い目に遭わなきゃならないなんて、間違っている。
私、知ってるんだよ。弥太郎君は周りに気を遣い続けてきただけなんだって。許嫁さんの件もお父様の件も、弥太郎君はただ、みんなのためを思って行動してたんだって。
ただみんなの幸せを願っただけなのに、1人だけ不幸になるなんて間違ってる。
「悪いな、本当に。助けてもらっといて礼もせずに出て行くとか言って」
彼はにへらっと笑った。
そんなこと、どうでもいいよ。お礼なんていらない。だから、もっと自分を大切にしてほしい。
「気にしなくていいですわよ。お礼はいつでもお待ちしておりますから」
そう心にも無い言葉を吐く。
弥太郎君の気持ちに寄り添うってこういうことなのだろうか。本当にこれで正しいのだろうか。
私には、どうすべきなのかわからない。
長い時間をかけてお屋敷に帰ってきた。
身支度をすると言う弥太郎君に私の部屋を貸して、廊下で彼を待つ。
「お嬢様、本当によろしいのですか?」
同じく隣で待機するシャーリーにそう問われ、私は静かに首を横に振った。
「ですが、弥太郎様はこれ以上私たちに迷惑をかけまいとしているご様子。放っておいても何も変わりませんよ」
シャーリーに言われなくてもわかってる。時間が解決する話じゃない。むしろ、期限は刻一刻と迫っている。
でも、どうしたら……
「少し、お話をされてはいかがですか? このまま悲しいお別れも寝覚めが悪いですよ」
そうしたい気持ちは山々だ。でも、今対面したところで何を話せと言うのだろう。
私が決断できずにいると、シャーリーは突然私の腕を掴む。
「失礼します」
「ふぇっ?」
抵抗する間もなく、私は弥太郎君がいる私の部屋にポイッと放り込まれた。
「ちょ、シャーリー」
「では、私はこれで」
呆然とする私と弥太郎君を残し、扉はバンッと勢いよく閉められた。
「雲母、どうかしたのか?」
干していた制服を畳みながら彼は問う。その姿を見て、いよいよ彼が出て行ってしまうのだと理解する。
ああ、本当にあっという間だった。たった1日の出来事だったけど、とても濃くて長くて短い、幸せな時間だった。
「いえ、何も……」
「ああ、シャーリーか。また何か変なこと吹き込まれたんじゃないだろうな。まったく、誰に似たんだか」
弥太郎君は畳んだ制服をバックパックに詰める。
「雲母もあんま変なこと覚えないようにな。ああでも、多少わがままな方がお嬢様っぽくはあるか」
「わがまま……?」
言っている意味が飲み込めず、彼の言葉を反芻する。
「あー、ほら。雲母の口調って、アニメや漫画に出てくるお嬢様って感じがするだろ? そういうキャラって、大抵はわがままで高飛車なイメージがあるんだよな」
彼はそう言って何かを思い出したようにくすりと笑う。
そういえば、彼が昔読んでいた漫画のヒロインはまさに弥太郎君が言っているキャラクターそのものだった。
「雲母はむしろ、もっと自分に正直になっていいかもな。俺だって、わがままでも多少は聞く……ように努力するし」
「わがままって、あまり良い言葉には思えませんわね」
わがままで高慢なお嬢様は、どんな世界でも嫌われる傾向にある。
だから私は、弥太郎君に倣って人に親切に、自分の欲求はできる限り口にしないようにしてきた。
それなのに彼は、「そうか?」と否定の言葉を口にする。
「わがままって要は自分の信念とかどうしても叶えたい希望ってことだろ。口だけなら確かに悪い意味になるかもしれないが、貫き通せばそれはかっこいいことだと思うけどな」
そう言った彼の表情は、どこか昔の弥太郎君に似ていた。
ああ、昔の彼も似たようなことを言ってたっけ。
── いいんだよ、わがままで。わがままも貫き通せばカッケーじゃん?
その時、私の中で抑えていた感情が溢れ出した気がした。
「わがままになってもよろしいの?」
「うん、まあ。俺に可能な範囲なら」
「じゃあ、弥太郎君にも叶えられるお願いがありますわ」
私はずんずんと弥太郎君に詰め寄った。
そして、彼が纏めた荷物をぶんっと奪い取る。
「え、ちょっと何して」
「シャーリー!」
お部屋の出入口に向かって叫ぶと、すぐさまシャーリーが姿を現す。
「こちらを空き部屋へ。それから、お部屋の設備の点検もお願いしますわ」
「かしこまりました」
「いや待て」
弥太郎君が必死に荷物を取り返そうとしたけれど、流石はシャーリー。弥太郎君の伸ばす腕をひらひらと避け、部屋から出て行ってしまった。
「雲母、どういうつもり」
「弥太郎君には今日からここに住んでいただきますわ!」
私ははっきりとそう言い放つ。
呆然とする弥太郎君に返答する隙を与えないよう、私は畳み掛ける。
「私、たくさん考えましたわ。どうするのが弥太郎君のためになるのか。弥太郎君が望むなら、私はただ見送ってあげるべきではないか。そうすれば、弥太郎君も恩だお礼だと気負わずに済むのではないかと」
「だったら荷物を返し」
「でも、全部どうでもいいですわ!」
弥太郎君が望むなら。弥太郎君のために。そう言い訳をして我慢するのは、辛いことだけど難しいことじゃない。
けれど、それが本当に正しいのか。私にはわからない。
わからないから、私は私のわがままを通すことにした。
「どうでもいいってお前……わがままにも程が」
「あらぁ? 先程わがままを言えと仰ったのはどなただったかしらぁ?」
「くっ……余計なことを言った」
「もう遅いですわ!」
こうなった私は、もう弥太郎君にも止められない。
だって今の私はわがままなお嬢様なんだから。
「良いですこと? 弥太郎君がこの家を出て行ったとして、高校生が働きながら一人暮らしをするのは弥太郎君が考える以上に大変なことですの。弥太郎君のことですから、最悪野宿でもと考えているかもしれませんが、それこそ危険な目に遭われては私たちが後悔してしまいますわ」
「それは……そうだが……」
ふっふっふ。これで彼はなにも言い返せない。なんだか楽しくなってきた。
不思議なことに、さっきまで喉の奥でつかえていた言葉たちがすんなりと口から出てくる。
「い、一緒に住まわせてもらっても迷惑には変わりないだろ。金も何もないんだぞ。恩返しなんて」
「今のは全部建前ですわ! 恩返しも私にとっては全部どうでもいいですわ!」
私は胸の内にある想いを全て吐き出していく。
「私はただ、好きな殿方と一緒に暮らしたいのですわ! 弥太郎君を1人にしたくないだけですわ! 私がずっと傍に居るって教えて差し上げたいだけですわ! 弥太郎君のことが好きだから助ける。それ以外に何か理由が必要でして?」
「だ、だけど、俺を匿ったとなれば神宮家と対立することに」
「知ったこっちゃないですわ!」
食い下がる彼もズバッと切り捨てる。
家の関係? 親同士の権力争い? そんなことはどうでもいい。
「地位や名声がなんですの? 私の幸せは弥太郎君と一緒に居られることですわ! そのためなら名前もお屋敷も捨ててやりますわよ!」
「そ、それはまずいだろ。落ち着けって」
「私は本気ですわよ。父上が反対されると言うのなら、私は弥太郎君と一緒に家を出ますわ! これまで16年共に過ごした父上よりこれから数十年と共に過ごす弥太郎君ですわ!」
「わかった! わかったから!」
言いたいことを散々言い終えて息切れした肺に酸素を送る。
体はすごく疲れているのに、ちょっとスッキリした気分だ。
息を整えた弥太郎君は深い深いため息をつく。
「雲母の気持ちはわかった。だけど、やっぱり素直に受け取れない。雲母のことが嫌いなんじゃない。むしろ、雲母ときちんと向き合うためには雲母に甘えてばかりじゃダメなんだ」
これだけ思いの丈を伝えても弥太郎君は頑なに首を縦に振らない。
私がわがままを通したいように、今回私が弥太郎君を助けた恩返しをすることが弥太郎君の通したいわがままなんだ。
「でも……」
弥太郎君の気持ちだってわからないわけじゃない。でも、私も折れたくない。
信念なんてかっこいい言葉じゃない。ただの意地の張り合いだ。
2人の意見が真っ向から対立してるから、話はずっと平行線のまま。
何か良い案はないだろうか。弥太郎君が負い目を感じずに一緒に暮らせる妙案が……
「そんな御二方に朗報です」
どこからともなく聞こえたシャーリーの声。でもその姿は見えず、私と弥太郎君はキョロキョロと部屋を見回す。
程なくして「こちらです」とベッドの下からシャーリーが顔を出す。びっくりして「ひっ」としゃくり声が出てしまう。
「な、何をしておられますの、シャーリー」
「緊急事態のためにお嬢様のベッドの下に隠し通路を作らせていただきました」
「なるほど……って、そういうことではなく!」
「軽く犯罪だな」
のそのそとベッドの下から出てきたシャーリーは私たちの顔を交互に見て、懐から1枚の紙を取り出した。
「これは……契約書ですの?」
「はい。私たちメイドや執事の雇用契約書です。執事長と旦那様に許可を取り、ご用意いたしました」
「父上が?」
まさかお父さんが出てくるとは思わず私は思わず聞き返す。
お父さんは今出張で家を空けているはず。こんなもの、いつの間に準備したのだろう。
「弥太郎様をお屋敷の執事として引き入れてはいかがでしょう? 弥太郎様はお嬢様に恩を返し、お嬢様は弥太郎様と一緒に暮らせます。御二方の意見を取り入れるなら、ちょうど良い折衷案かと」
「それ……それですわ! それしかありませんわ!」
私は思わずシャーリーの手を取ってぴょんぴょんと跳ね上がる。
弥太郎君のわがままも私のわがままも通る。これ以上ない提案だ。
「とは言え、弥太郎様には学業もございます。毎日私たちの仕事をお手伝いいただくわけにもいきません」
それはそうだ。仕事で手一杯になり弥太郎君が学校を辞めては本末転倒だ。
「では、弥太郎君はこの御屋敷ではなく、私の執事としてお迎えしてはいかがかしら? そうすればずっと一緒……じゃなくて、学校に行くこともお仕事ということになりますわよ」
「心の声漏れてんぞ」
「そうですね。私もこれ以上学校へ無断で立ち入ると警察を呼ばれかねません。お嬢様の身辺警護をお任せできるなら私としても安心です」
「もう前科があるのかよ。何してんだあんた」
それに関しては私も同感だ。シャーリーってばいつの間にそんな無茶をしてたんだろう。
シャーリーの普段の生活が心配にはなるけれど……
「と、とにかく! これで弥太郎君も納得ですわよね!」
「いや……」
「ね!!」
最大のチャンスが訪れたんだ。もう弥太郎君の好きにはさせない。
契約書を掲げて弥太郎君に詰め寄ると、困ったように頭を掻いてため息をついた。
「わかった。俺だけが美味しい話にしか聞こえないが、雲母がいいならそれで手を打とう」
「やった! ありがとシャーリー!」
「お嬢様、キャラが」
「ですわ!」
これで弥太郎君と一緒に暮らせる。弥太郎君が幸せになるために、力になれる時が来たんだ。
シャーリーには感謝してもしきれない。お父さんと執事長にも後でお礼を言わなきゃ。
「まさか雲母がこうも頑固だとは思わなかった。ほんと変わったな。昔はもっとオドオドしてたのに」
弥太郎君は渋々な様子で雇用契約書に必要事項を記入しながらこちらを見上げる。
「俺ばっか助けられてて本当にいいのか……」
「お嬢様はわがままですのよ。それに、弥太郎君が言ったことですわ。私を幸せにするって。私の幸せは弥太郎君が幸せになることですわ」
「そんなこと言ったのか、俺」
やっぱり覚えてなかった。
でもいいんだ。私の幸せは私の手で掴み取ればいいんだから。
「はっ! つまり私が弥太郎君を幸せにすれば永久機関の完成ですわ! こうなれば弥太郎君を今すぐ私の旦那様に」
「ちょっと待て俺の意見は!?」
「子供は11人欲しいですわ! 目指せサッカーチームですわよ!」
「聞けよ!」
焦った様子の弥太郎君も新鮮でちょっと可愛らしい。
弥太郎君が約束を忘れているから悪いんだ。
だから私は意地悪で返す。私の一挙一動にタジタジになればいいんだ。
ねえ、弥太郎君。覚えてる?
私がこんな話し方になったのは弥太郎君のせいなんだよ。
弥太郎君がお淑やかで真っ直ぐな人が好きって言うから、私なりに勉強したんだよ。
弥太郎君の理想とは少し違うかもしれないけど、少しは君の理想に近付けたかな?
今は難しくても、いつか弥太郎君が私を好きになってくれるように頑張るから──
「覚悟してくださいまし、未来の旦那様?」
私は勇気を振り絞って、弥太郎君の頬にそっと口付けをした。
これくらいのわがままは許されてもいいよね。
今の私はわがままなお嬢様なんだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます