1-2
「こっち」
不意に横手から女性の声がした。それと同時に強い光が差す。声の方に目をやると扉が開いているのが見えた。光はそこから漏れている。扉の上には『授乳室』と書かれていた。春斗は急いで扉の中に飛び込む。
「えっ」
春斗が入ると女性は驚いたような声を漏らし、目を大きく見開いた。春斗も女性を見て目を丸くする。
そこにいたのは幼馴染の
春斗は安堵感と驚きで声を発しそうになるが、ピエロのことを思い出し、言葉を飲み込んだ。衣擦れすらも起こさぬようじっと固まり、扉の外に耳を澄ます。
――キヒヒヒヒ
笑い声と足音が近くなった。ピエロが部屋の前の通路に現れたようだ。鎌を引きずる音が近づき、離れ、そしてまた近づき、離れていく。しばらくすると鎌を引きずる音が小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。
春斗は安堵のため息を漏らし、夏美を見る。夏美の表情は緊張で強張っていた。
「夏美はどうしてここに?」
「わからない。家で寝てたはずなのに、気付いたらここに……。それでナイトメアゲームの参加者に選ばれたとかスマホに表示されてて」
「俺と同じだ」
「なんなのこれ」
「俺にもわからない」
「夢を見てるのかな?」
「夢だと思いたいけど。夢だとは……」
ここまで感覚がはっきりしていると夢だと思うのは難しい。
「脱出しなきゃだよね……」
「そうだね」
春斗は室内を見回した。試着室を思わせる小部屋が三つほどあり、そこには椅子が置かれている。授乳スペースだろう。
「夏美はここで目覚めたのか?」
「いや、外のフロア。それでピエロを見かけて、ここに逃げてきた。それよりもこれからどうする? ここにずっといるわけにはいかないし」
「六時までに脱出が勝利条件だと説明に書いてあったから、一応、それまでには出たいな」
春斗は言って、スマートフォンの画面を見る。
時刻は一時ニ十分。
夏美が不安げな表情を向けてくる。
「脱出できないと悪夢に閉じ込められるって言ってたけど、春斗はどういう意味だと思う?」
「わからない。でもいいことではないと思う。ピエロのこともあるし、何をされるかわからない。だからなるべく早く動きたい」
「でもどうやって下までおりる? エレベーターかエスカレーターか階段か」
「エレベーターは怖いな。扉が開いたところにピエロがいたら逃げ場がないし」
「じゃあ、階段かエスカレーターだね」
「夏美はエスカレーターと階段がどこにあるかわかる?」
春斗はここまで出鱈目に走ってきたため、フロア内の位置関係がわかっていない。
「多分だけど、この部屋を出て通路を真っすぐ進むとエレベーターがあって、その横に階段があるはず。それでエスカレーターはフロアの中央」
「詳しいな。この部屋に逃げ込む前に確認したのか?」
「いや、そうじゃないんだけど、多分わたし、前にここに来てるんだよね」
「え、どういうこと? ナイトメアゲームは、はじめてじゃないのか?」
「いやそれは、はじめてだけど。でもこのパルゴって、品川店と同じつくりなんだよ。売り場とかお店の並びが全く一緒。わたし、このフロアでよくデカフェのインスタントコーヒーを買ってるから覚えてるんだけど」
「俺たちは品川にあるパルゴに連れてこられたってこと?」
「そうなのかなってわたしは思ってる」
得体のしれない場所に連れてこられたのかと思っていた春斗は、夏美の言葉を聞いて少しだけ安心した。
「でもそういうことなら、心強い。夏美はフロアの地図が頭に入ってるみたいだし」
「細かいところはわからないけどね」
「じゃあ、とりあえず階段から下を目指す方向でいいかな? エスカレーターは中央にあるから目立つだろうし」
「うん。それでいいと思う」
「それともしピエロと遭遇したら二手に分かれよう。どちらかが助かるように」
「わかった」
話がまとまり、春斗はドアノブに手をかける。
「それじゃあ、開けるぞ。電気を消してくれ」
夏美がスイッチを押したのを確認してから、春斗は慎重にドアを開いた。首を出して左右を確認する。ピエロの姿はない。
春斗がフロアに出ると、夏美が後に続いた。
このまま左に真っすぐ進んでいけばいいのだろうか。
春斗の逡巡を悟ったのか、夏美が一歩前に出た。
「わたしが先に行く」
フロアを熟知している夏美が先導し、春斗は後方を警戒する。幸いなことにピエロに出くわすことなく、エレベーターの前までやってくることができた。横には階段があり、夏美がそちらを確認する。
「大丈夫。ピエロはいない」
春斗はフロアから目を切り、夏美と肩を並べた。階段には非常灯が設置されており、隣の夏美の顔が見える程度には明るい。足元に気をつけながら三階から二階へおりる。
そのまま一階へおりて行こうとしたが、二階のフロアか悲鳴が聞こえてきて、足を止めた。
「やめろ! 来るなあ!」
フロアの方へ顔を出し、声の方に目を向ける。すると少し離れた通路に学生服を着た少年を発見した。少年はフロアの壁に背を預け、座り込んでいる。
ピエロが少年の前に立ち、鎌を大きく振り上げた。春斗は思わず、身を固くする。
――殺される
そう思った次の瞬間、フロア内に雄叫びが轟いた。それと同時にピエロの背後に金属バットを持った男が現れる。男は勢いよくバットを振り、ピエロの側頭部を捉えた。
ピエロは横に吹き飛ばされ、通路に転がる。
「立て! 走れ!」
男の言葉を受けて少年は立ち上がり、春斗たちがいる方に駆けだす。しかしその歩みはおぼつかない。
男は少年の背後を守るようにバットを構え、焦ったように声をあげる。
「早く走れ!」
「ひねって走れないんだ!」
少年は悲鳴に近い声をあげた。
通路の先でピエロがゆっくりと立ち上がった。関節を感じさせない軟体生物のような動きでゆっくりと上体を起こす。
「死なないのかよ……」
男はバットを構え、ピエロと向かい合う。
春斗はフロアに出ると、すぐ近くにあるエレベーターのボタンを押した。
「こっちだ!」
少年が足を引きずりながら、こちらへ向かって駆けてくる。少年の背後ではピエロが男に襲い掛かっていた。鎌を振り上げたピエロの胴に男がバットを叩きこむ。再び、ピエロはフロアに転がる。
その時、少年が足を滑らせ、転倒した。
堪らず春斗は少年のもとへ駆け寄った。そこで彼が同級生の
「秋彦?」「春斗?」
二人の言葉が重なる。春斗の後ろでエレベーターの到着音がした。振り向くと、夏美が中に入ってドアが閉じるのを阻止していた。
春斗は秋彦に肩を貸す。
「つかまれ」
秋彦はすぐに春斗へ体重を預けた。春斗と秋彦はエレベーターへ駆け込む。それとほとんど同時に、バットを持った男も追いついた。
ピエロは通路の先で倒れている。しかしすぐに先ほどと同じ要領で立ち上がり、こちらに向かって駆けてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます