青い空の下を恐竜がかけるなら、なんだってできそうな気がしたんだ

三間

 

 年度が改まったばかりの社内には、浮ついた空気が漂っていた。緊張と興奮を浮かべた新入社員たちが黒っぽいスーツをまとい、統率されたペンギンの群のようにあちこちを案内されている。人が入れ替わった部署では、挨拶の声が飛び交っていた。

 幸い、僕のいる経理部に入れ替えはなかった。しかし、提出書類は増え、忙しいせいか間違いも多い。それだけならまだいいが、忙しさにかまけて適当な書類を出してくる輩までいる。今日も昼を過ぎた頃、近づく足音に顔を上げてみれば、何が楽しいのかいつもニヤニヤ笑いを浮かべている営業の佐藤さんがいた。

 右隣の井上さんの肩が、わずかに強張る。気の優しいお父さんといったこの先輩は、差し戻すべき間違いがあってもごり押しされると強く言い返せない。それがわかっているのだろう、僕が顔を上げているにも関わらず、佐藤さんは井上さんに向けて書類を突きだしてきた。

「すみませーん。立替金精算書なんですけどー」

「こちらで受け取ります」

 立ち上がって手を伸ばすと、佐藤さんはむっと唇を引き結んだ。無造作風に固めた前髪が揺れる。構わずに受け取った書類には、一目でわかる間違いがあった。

「項目は領収書ごとに分けてください。再提出は二十日までです」

 返そうとすると、ぱっと後ろに手を引かれた。

「えー、そっちで直してくださいよ」

 ヘラヘラした声に背筋を伸ばす。無駄に伸びた百八十七センチの身長と、いまひとつ働きの悪い表情筋は、こうして無理を通そうとする相手には役に立った。

「再提出をお願いします」

 睨み合った後、舌打ちして書類を奪い取られる。憤然と去る背中を見送ると「細かいんだよ」という呟きが耳に入った。息を吐いて、腰を下ろす。

「……ありがとね」

 井上さんが、小さな声で言う。頷きを返して、またパソコンに向き直った。

 

 夕方、予定を知らせるポップアップが表示された。新卒向け部署紹介。新入社員に、各部の社員が業務を紹介するイベントだ。会議室に向かうと、扉を開いた瞬間に立ち上がり「よろしくお願いします!」と大声で挨拶してくる新卒たちに驚いた。軽く頭を下げて、右端に作られていた席に腰を下ろす。

 説明が始まると、新卒たちは総務や企画、営業にシステムといった部署の紹介に、目をキラキラさせて聞き入っていた。特に最前列の真ん中に座ったポニーテールの女の子は笑顔で頷いたり、メモを取ったりして熱心に聞いていた。ふさふさと揺れる髪が、元気な子リスを思わせる。

「次は、経理の坂口さんです。彼は四年目ですが非常に几帳面で、私はいつも書類にダメ出しをされています」

 司会の人事の女性に紹介されて、前に出る。自虐的な発言に、新卒たちは笑いを漏らした。けれどこちらだって、好きでダメ出しをしているわけではないのに。

「経理の仕事は、お金の管理です。例えば……」

 数人が、退屈そうに息を吐いた。気持ちはわからなくもない。経理の仕事は地味だし、社員からは細かい、煩いとばかり言われ続けて、恐竜にでもなって世界を吹き飛ばしてやりたくなることもある。それでも、淡々と説明を続けた。

「……皆さんも、書類は期日までに提出してください」

 頭を下げて終わらせる。まばらな拍手が起きたけれど、質問をどうぞと言われても誰も手を上げなかった。気まずい沈黙が広がる。少しの間の後、おずおずと挙手をしたのは子リスのような女の子だった。気を遣ったのかもしれない。

「あの、期日までにできそうになかったら、どうしたらいいですか」

「期日前に相談してください」

 答えると、彼女はいっそう不安げに眉尻を下げてしまった。もしかしたら、事務作業が苦手なのかもしれない。その予想が当たっていたと知ったのは、新卒がそれぞれの部署に配属されてしばらくした梅雨のころだった。書類を持ち、どこに出せばいいのかわからない様子でうろうろしている。後ろで結んだ髪に、新卒の子だと気づいて声をかけた。

「精算書なら、こちらで受け取ります」

「あ、……っ、はい! あの、交通費の精算なんですが……」

 渡された書類に目を落とす。営業部所属、藍田美咲。大きなリアクションやわかりやすい表情は、いかにも営業向きだ。けれど書類はといえば、自動で結果が出てくるはずの欄がいくつも空になっていた。

「ここ、なんで空欄なんですか?」

 彼女がいっそう眉を下げる。

「藍田さん?」

「わ、わかりません……」

「パソコン、苦手ですか?」

 きゅっと唇を結んで黙ってしまう。この様子では、差し戻しても一人では直せないだろう。

「ファイルをメールで送ってください。入力方法を説明します」

 無言で頷いた藍田さんが、急いで席に戻っていく。その途端、名前を呼ばれた。

「坂口くん。今のはあまり、良くないんじゃないかな」

 穏やかだが非難の含まれる声に驚いて振り向くと、井上さんが首を左右に振った。娘さんが生まれてから、見る間にふくふくと丸くなった頬が揺れる。

「パソコン苦手ですか、って、ちょっと言い方キツいよ」

 温厚な先輩からの滅多にない注意に、慌てる。

「悪気は……なかったんですが……」

「わかってる。誰が相手でもストレートに伝えられるのは坂口くんの良い所だしね。でも、言い方に気をつけることも覚えたほうがいいよ。もう、だいぶ先輩なんだしさ」

 思わず俯く。昔から僕は、悪気がなくても人を怒らせてしまうことがあった。だけど同時に、悪気はなかったのに、と自分を庇いたい気持ちも湧き上がった。だけど、慌てて戻ってきた藍田さんの顔を見た途端、気持ちはぐんと申し訳なさに振り切れた。目元が、擦ったように赤い。

「送りました……っ! すみません……」

 焦った声に、慌てて立ち上がる。空き席の椅子を引き寄せて、座るように促した。すみません、とまた謝った彼女が座る。僕も謝りたかったけれど、なんて言っていいのかわからなかった。困って、とりあえず腰を下ろしてファイルを開いた。

「……一個ずつ、説明します」

「はいっ」

 藍田さんは唇を引き結び、片手にぎゅっとペンを握り締めていた。

 書類を見ると、やはり無理に文字を書き込んで、必要な数式を消してしまっていた。新しくファイルを開き直し、一つずつ説明しては入力し、メモを取ってもらう。

「……説明、書いてあったんですね。すみません」

「説明は大体左上に書いてあるので、最初に見るといいです」

「はい、すみません」

 何度も謝られて、やるせなくなる。藍田さんは、しょんぼりと肩を丸めてしまっていた。最初に見た時には、あんなに元気で楽しそうな顔をしていたのに。無邪気な小動物を虐めてしまったかのような罪悪感が湧き上がる。

 入力し終えた書類を印刷し、再度確認をする。

「これで大丈夫です」

 藍田さんが、ほうっと息を吐いた。それでも晴れない表情に、自然に謝罪が口から零れた。頭を下げる。

「キツい言い方をして、申し訳なかったです」

「と、とんでもないです。私こそ、ご迷惑かけて……」

 慌てて首を振った藍田さんの大きな目が、じわりと潤む。息を飲んだ。

「迷惑では、ないです!」

 焦って声を上げると、彼女はぱちりと瞬いた。

「……書類をチェックするのが、僕の仕事です」

 抑揚の乗りにくい声を、恨みたくなる。それでも必死に、言い募った。

「確認は、迷惑ではありません」

 彼女は一瞬、ぼんやりと僕を見つめた。また息を吐く。頬を両手で押さえたのが心配で、でも顔なんて覗き込めずにおろおろしていると、彼女はかすかに首を振った。

「……ありがとう、ございます。大きな案件が入って、皆忙しそうで、全然聞けなくて……」

 震える声に、営業の席を見やった。客先に行っているのか、誰もいない。これでは聞こうにも聞けないだろう。責任感の強い子が、仕事の邪魔になることを心配して質問できなくなるのは時々あることだった。

「もし、パソコンや書類作成で困ったら、いつでも聞きに来て下さい。僕は、大抵席にいます」

「でも、部も違うのに……」

「同じ社内です。構いません。僕にわからないことは、一緒に調べます」

 藍田さんが、ようやくかすかに笑みを浮かべた。

「……よろしくお願いします」

 深く頭を下げてくるのに、こちらも頭を下げた。顔を上げると、なぜか隣で井上さんが満足げに頷いていた。


 それから藍田さんは、困ったことがあると遠慮がちに声をかけてくるようになった。説明して書類を作り上げると、安心した顔で笑ってくれる。僕はいつしか、その顔を見るのを心待ちするようになっていた。

 そのためにも、もう傷つけたくはない。何か参考になる本はないかと休憩室の書棚を探し、雑談やコミュニケーションの本を借りてくると、それを見た井上さんが吹き出した。

「坂口くん、雑談の勉強してるの⁉」

「はい。言い方に気をつけようと思いまして……」

 井上さんは、しげしげと僕の顔を見つめた。

「真面目だなあ……」

「よく言われます」

 子どものころから、通知表に真面目だと書かれなかったことはない。頷くと、井上さんは肩を揺らして笑い出した。


 だけど、夏も終わるころになると、藍田さんが来る頻度はぐっと少なくなってしまった。毎日忙しそうに電話をしたり、客先訪問に走り回っていたりする。本格的に仕事を任せられ始めたのだろう。良いことのはずなのに、寂しかった。

「仮払いの申請なんだけど」

 顔を上げると、営業の佐藤さんがむっとした顔で立っていた。ずいと押し付けられた書類を確認する。またしても間違っている内訳に差し戻してやろうとして、ふと手が止まる。彼の目の下には、黒いクマができていた。大きな案件というのが、続いているのかもしれない。

「今、忙しいですか」

 訊ねると、彼は驚いた顔で目を見開いた。

「え。まあ、ちょっと立て込んでるけど……」

「内訳が違いますが、これは僕の方で直せます。直したら送るので、確認して署名をもらえますか」

「……いいの。そうしてもらえると助かる」

「二十日までに返送ください」

 ぱちぱちと瞬いていた佐藤さんが、にやりと笑う。

「なに、話せるようになったじゃん。よろしく!」

 浮ついた口調は、やはり好きではない。勉強したおかげか、最近では他人とぶつかることが少なくなったように思える。だけど、それは何よりも彼女と話すためだったのに。大きな溜息が漏れた。

「坂口くん、何か困ってる?」

 隣にいた井上さんが、心配げに首を傾げる。

「いえ、なんでも……」

 首を振ろうとして、はたと止まる。困った時には助けを求めるのも大切なコミュニケーションだと、確か本にも書いてあった。

「あの、……声をかけたい、人がいるんですが」

 声を抑えて話し始めると、井上さんは目を輝かせて先を促してきた。

「きっかけが、なくて」

「そっか、坂口くんがねえ……!」

 嬉しそうな声を上げた井上さんが、ぐんと顔を寄せてくる。良い人ではあるが、日に日に小太りになっていく同性の先輩と間近に見つめ合いたいものではない。腰が引けたけれど、井上さんは浮かれた声で続けた。

「やっぱりさ、仲良くなりたいと思うなら、もう一歩踏み込んでみるのがいいと思うよ。殻を破るっていうかさ!」

「殻を……」

「新しいことにチャレンジするとかさ。俺の時もね、出会った時は奥さんお客様窓口の人だったし、お昼休憩も合わないし、なかなか話しかけられなくてね……」

 なぜか馴れ初めを滔々と話し出したのを聞き流し、空の席へと目を向ける。僕は藍田さんと仲良くなりたいのだろうか。よくわからない。だけど、そこに彼女が居てくれればいいのにと思っていた。


 帳簿を付け終えて会社を出ると、強い風が吹き付けてきた。日が暮れると、もう暑さも感じない。かすかに虫が鳴く声がして、大通り公園を通って帰ろうと足を向けた。

 夜になっても煌々と明かりの灯る広い公園は、絶好の犬の散歩スポットだ。涼しくなったからか、通りすがる犬たちの足取りも弾んでいる。ふさふさと楽しげに揺れる尻尾を見ているだけで、仕事の疲れが癒えていくようだった。通り過ぎる犬を遠目に眺めていると、地域のお知らせが貼られた掲示板の下に人影を見つけた。くるんと巻いたリスの尻尾のようなポニーテール。藍田さんだ。一枚のポスターにじっと見入っている。何を見ているのかと目を眇めると、そこには着ぐるみらしき色とりどりのティラノサウルスが映っていた。

「ティラノ……レース?」

 呟いた瞬間、藍田さんがこちらを振り向いた。あ、と口を開くのに、会釈する。話しかけても、迷惑ではないだろうか。おそるおそる近づくと、笑顔になってくれたのにほっとする。改めて目を向けると、ポスターには大通り公園で行われるティラノレースの出場恐竜募集、と書いてあった。

「へえ。こんなのあるんですね」

「最近人気なんですよ。ラジオ体操したり、走ってるのが可愛くて」

 携帯を出して見せてくれる。画面の中では、手足の短いティラノサウルスたちが青空の下でえっちらおっちらと不格好なラジオ体操をしていた。顔は怖いのに、平和な光景に笑ってしまう。

「ね、可愛いでしょう?」

 得意げな顔に、頷き返す。こんなところでポスターに見入っていたというのは、もしかしたら出たいんだろうか。営業さんたちは、こうした催しにもノリよく参加しそうだ。藍田さんは、誰かを誘うんだろうか。

「……出ません、か」

「えっ⁉」

 気づいたら、口から言葉が飛び出していた。藍田さんが驚いた声を上げて、自分でも驚く。

「いや、あの、ちょっと新しいことにチャレンジしたい気分で……!」

 慌てて言い繕う。まずかっただろうか。けれどぱちぱちと瞬いていた蓬田さんは、ぴょんと跳ねるようにして僕の顔を見上げた。

「ほんとに? あの、出たかったんですけど、なかなか付き合ってくれる人いなくて……!」

 何度も頷く。ぱあっと、彼女が笑顔になった。

「よろしくお願いします!」

 弾んだ声に、胸を撫で下ろす。ポスターを見直して、はっと気づいた。

「では、僕のほうで申し込みをしておきます」

 申込書をダウンロードして作成して送付。これは、確実に僕がやったほうが早いだろう。藍田さんもはっとして、頭を下げてきた。

「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 お辞儀を返したけれど、その間中、心臓はとくとくと早いリズムを刻み続けていた。


 次の日すぐ、申し込みをして蓬田さんに連絡すると、楽しみです! と元気なメールが返ってきた。そして、会社で行き会うたびに、きぐるみはどこで買おうか、楽しみだ、なんて話をする機会が増えた。勇気を出して、よかったとは思うけれど、ひとつ、大きな問題があった。

 僕は、運動があまり得意じゃない。

 だけど、みっともないところは見せたくなかった。それなら、努力するしかない。早朝ランニングだ。体育の授業以来の運動に、最初の数日はすぐに息が上がった。だけど、五日、十日と走る内に、少しずつ長く、早く走れるようになってゆく。ティラノレースなんて勝つためのものではないけれど、少しだけでも、格好をつけたかった。

 そうして迎えたレースの日。晩秋の空は、宇宙まで覗けるかと思うほどすこんと青く澄み切っていた。まさに、恐竜が走るに相応しい天気だ。

 改札を抜けた途端、後ろから声がかかった。

「坂口さん、おはようございます!」

 ばたばたと走ってくるのに、慌てなくていいと手を上げる。けれど彼女はそのまま勢いよく駆け寄ってきた。後ろで結んだ長い髪が、元気な尻尾のようにぴょんぴょん跳ねる。藍田さんは、動きやすそうな黒のパンツに、カーキのブルゾンを羽織っていた。会社では見たことのない服に、ドキドキする。僕は何を着ていけばいいのかわからずに、店頭のマネキンが着ていた臙脂のカーデに白いシャツ、濃い色のデニムをワンセットで買って着たけれど、彼女と並んでおかしくないだろうか。周囲をこっそり見回して、注目を浴びてないことを確認する。

「同じ電車でしたね」

「そ、そうですね」

 満面の笑みも、会社で見るのとは違う気がする。どもってしまった僕を気にする様子もなく、彼女は弾んだ足取りで歩き出した。

 大通り公園には、すでにたくさんのテントが立ち並び、準備をする人たちが忙しく行き交っていた。オクトーバーフェストと看板が出ている。ティラノレースは、このお祭りの一部として執り行われるらしい。ドイツから来たビールの祭典らしく、銀色の樽が次々テントに運び込まれ、金色に染まった銀杏の葉が日差しをいっそう明るく見せる。

 公園の中央に広がる芝生が、五十メートルほどポールで囲まれていた。ここでレースが行われるのだろう。ティラノレース受付と書かれたテントに並ぶと、出走順のクジを引いた。二人でゼッケンを見せ合う。

「五番でした!」

「僕は十六番です。分かれてしまいましたね」

「でも、別々だったら写真撮れますよ!」

 示されたスマホに、確かにと頷く。

『レース出場のティラノの皆様は、ポールの中に入ってお着替えをお願いしますー!』

 クジを引き終わると、テント脇のスピーカーからアナウンスが響いた。芝生に入って着ぐるみを着始めると、藍田さんはピンク色のティラノを取り出していた。

「ピンク、可愛いですね」

「坂口さんの茶色も格好いいですね!」

「やはり、トラディショナルなティラノかと思いまして」

「トラディショナル!」

 なんてことのない会話を交わすたび、声が弾んでいく。ジッパーを閉めてファンを入れると、あっという間に着ぐるみが膨らんでいった。生地が薄くて軽いし、空気が入るだけに呼吸もしやすい。お互いの写真を撮ったところで、アナウンスが響いた。

『それでは、ここからティラノレース出場の皆様によるラジオ体操ですー! 恐竜のみなさまはお集まりくださーい!」

 芝生の上に、よたよたと恐竜たちが広がってゆく。すぐに聞き慣れた音楽が流れた。短い手足を振り回して体操する恐竜たちに、ポールの外から見物している観客からわっと笑いが上がる。それに応えて手を振ったり、転びそうになったりするティラノたちの中で、ピンクの恐竜は生真面目なくらい一生懸命にラジオ体操をしていた。

 

『それでは第一レース、一番から八番の成獣は番号順にお並びください!』

「行ってきます!」

「頑張ってください」

 駆け出す藍田さんに声をかけると、ピンクのティラノサウルスは短い腕でビシリとファイティングポーズを決めて見せた。コースの先に、ゴールテープがピンと張られる。首に番号のゼッケンを貼った恐竜たちが、スタートラインに並んだ。

『成獣の部、第一レース……、ゴー‼』

 色とりどりのティラノサウルスが、一斉に走り出す。どてどてとがに股でゴールを目指すのに笑いが巻き起こった。だけど僕の視線は、レーンの真ん中あたりにいるピンクサウルスから離れなかった。一生懸命に手を振って、頭と尻尾を揺らして走る。三位でゴールに走り込むと、藍田さんはくるっとこちらを向いて両手を上げ、ぴょんぴょんと飛び上がった。左手を振って応え、右手で写真を撮る。どちらもおろそかにしたくない。あたふたしているうちに、ゴールテープが貼り直された。

『第二レース、九番から十六番の成獣はお並びください!』

 こちらに戻って来る藍田さんに手を振ってレーンに入る。右にずらりと並んだティラノサウルスを眺め、気合いを入れ直した。勝って、決勝に進みたい。

『それでは第二レース……、ゴー‼』

 ぱあん、とピストルの音が響き渡る。精いっぱいに足を引き上げ、揺れる頭を押さえて駆け出した。けれど、突然誰もいない筈の左からにゅっと白い頭が突き出された。前が見えていないのか、白いティラノサウルスが俯きがちに突っ込んでくる。脇腹にどんとぶつかられて、短い足では踏み止まれず一緒にすっ転ぶ。

『おおっと、茶色ティラノと、白いティラノが接触ー⁉』

 アナウンスが響き渡る。芝生に寝転んだまま、大きく息を吸う。胸に受け止めた体重は、ひどく軽かった。

 ぴょんと白いティラノが顔を起こす。透明窓の中にいたのは、小学生くらいの男の子だった。首に付けられたゼッケンは、一六番。僕と同じだ。幼獣の部に出るはずが、番号を呼ばれて慌てて出て来てしまったんだろう。

 体を起こすと、もう他のティラノたちはとっくにゴールしていた。男の子が、泣き出しそうに顔を歪める。反射的に、手を差し出していた。こんな時にはなんて言えばいいのか。言葉を探す。

「……大丈夫。一緒にゴールしよう」

 どうにか呼びかけると、男の子がきょとんと瞬いた。おずおずと伸びてきた手を握って立ち上がる。

『おおっと! クラッシュした二頭に友情が芽生えたかー?』

 アナウンスに応えて左手を振ると、わっと周囲が沸いた。ほっとしたように、小さな手が握り返してくる。トトッと白いティラノがスキップをしたのに、さらにわあっと笑い声が湧き上がった。なんだか楽しくなってきて、一緒になってスキップでゴールに走り込む。ぱっと手を離すと、白いティラノの中で男の子はこちらを振り向き、バイバイ、と笑顔で手を振ってくれた。

 何事もなかったように、次のレースの案内が始まる。一頭多いと誰も気付かなかったんだろう。スタート地点に戻ろうとすると、ぱたぱたとピンク色のティラノが走ってきた。五番のゼッケンを確認して手を振る。藍田さんは、僕の前できゅっと急ブレーキを踏むようにして止まった。

「転んでしまいました」

 ちょっとだけ、眉が下がる。格好の悪いところを、見せてしまった。だけどピンク色のティラノは、興奮した仕種で両手を振った。

「すごい可愛かったです! ほら!」

 目の前に出された携帯には、手を繋ぎスキップする茶色と白のティラノサウルスが映されていた。周りの人たちも、なんだかひどく楽しそうな顔をしている。

「坂口さんて、優しいですよね」

「え」

「いつだって細やかに見ててくれて」

 含羞んだ声に、瞬く。いつも、細かいとばかり言われていた。だけど、たった二つ送り仮名が変わっただけで、なんてその言葉は柔らかく変わるんだろう。思わず、訊ね返していた。

「煩く、なかったですか。……藍田さんにも、ずっと注意ばかりしていましたが」

 ぶんぶんと、ピンク色の両手が振られる。

「とんでもないです! いっつも丁寧に教えてくれて、すごく助かりました!」

「よかったです。……怖がらせてるんじゃないかと思っていたので」

「怖かったら、一緒にレース出ようなんて思いません」

「それはそうですね。失礼しました」

 ちょっと不貞腐れた声に、不思議と嬉しくなる。つとピンク色の恐竜が歩き始めた。その隣を、歩き出す。ゆっくりと、同じペースで。

「坂口さんは、……なんでこんなに書類作るの苦手なんだろうって呆れてませんでしたか。すぐ間違うし。遅いし。なかなか覚えられないし」

「とんでもないです。苦手なのにちゃんと聞きに来て、覚えようとしてくれて、いつも一生懸命で、すごく可愛いなって……」

「え」

「あ」

 口が滑った。立ち竦んでしまった藍田さんに、やってしまった、と口を結ぶ。立ち止まったピンクのティラノが、透明窓のちょっと下を両手で押さえた。僕もまた、かっと頬に上る血に俯く。

「すみません。嫌でしたか」

「っ、い、嫌ではない、です」

「良かった、です」

 焦った声に、僕も声が震えた。さっきまで適温だった着ぐるみの中が、やたらと暑い。

「ティラノ着てて、良かったです。顔、やばい、熱い」

 藍田さんが呟く。ちょっとラフになった口調が、嬉しかった。

「僕も、今めちゃくちゃ顔真っ赤だと思います」

「……それはちょっと見たいです」

「僕も藍田さんの顔が見たいです」

「それは駄目です」

 小声で言い争う間に、笑いが込み上げてくる。また一つレースが終わったのか、『ゴール‼』という大音声と共に周囲がわあっと沸いた。先ほどまでよりも大きくなった歓声に見廻してみれば、昼を過ぎて公園にはどんどん人が増えてきていた。皆、手にさまざまな色合いの金色をしたビールのコップを持っている。あちこちのテントからはじゅうじゅうと肉やソーセージを焼く音が響き、おいしそうな匂いが漂ってきた。

「藍田さん、ビール、飲めますか?」

「え、あ、飲めます」

 よし、と頷く。ティラノサウルスの頭が、頭上でゆさりと揺れた。

「では、完走を祝して一杯いかがでしょうか」

「は、はい」

 声が、戸惑っている。

「そこで、今後のことを相談させてください」

 一拍、間が空いた。ぷっと、藍田さんが吹き出す。きっと、何を僕が言うつもりかなんて、彼女にはわかっている。それでも笑ってくれている。

「はい!」

 元気な返事に頷いて、端へ移動する。ティラノサウルスを脱いで藍田さんを振り向くと、ピンクのティラノから抜け出した彼女は恥ずかしそうにちらりと僕を睨み付け、すぐ弾けるように笑い出した。その頬は真っ赤で、いつも綺麗に結んでいる髪はくしゃくしゃになっていたけれど、今までで一番、可愛かった。 

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