君はこの世のプルケリマ
しろた
夕食は鍋にしようか
四十歳手前の大和桜の恋人は、誰もが振り返るほど美人な女性だ。彼女の名前は一色八重、まだ二十歳を少しすぎた年齢の大学生である。品行方正、才色兼備、彼女を褒める言葉はやまほどある。対して桜のほうはと言うと、特筆すべき特徴も、褒める言葉もない男だ。
――よくもまあ、こんなくたびれたおっさんのことを好きになったよな……。
桜は待ち合わせ場所で自分以外の男に話しかけられている八重を遠くから見て、そのようなことを考える。
困り顔の八重はどう見ても男にナンパされているという状況で、恋人としては直ぐ様助けに入るのが正しい。一瞬卑屈なことを考えたせいで止めてしまった足を動かし、桜は八重のもとへと大股で歩みよった。
「はい、そこの青年。俺の恋人に何か用かな」
スマートな助けかたはわからない。なのではっきりと今お前がナンパをしている女性は自分の恋人だということを告げ、威嚇のつもりで八重の細い腰を抱く。人前で腰を抱くことは初めてで、桜はこれはやりすぎか? と思った。しかしここは恋人として毅然とした態度を見せなければ。桜は八重を離すのではなく、さらに彼女を自分のほうへと引き寄せる。
「は、こ、こいび? こっ? こいつが?」
八重をナンパしていた男は、桜の発言に戸惑いを見せる。どうやら邪魔をされたことよりも桜と八重が恋人ということに驚いているのだろう、二人の顔を何度も交互に見る。周囲を見回せば、男と同様に目を見開いてこちらを見ている者ばかりだった。八重のほうは視線が恥ずかしいのか、桜には思い付かないがはたまた別の理由があるのか、顔を真っ赤にしてうつむいていた。黙って手を引いて連れ出せばよかった……、と桜は数分前の自分の選択を後悔する。突き刺さるような鋭い視線に、居心地が悪い。
「行こう、八重」
「ひゃ、はい!」
これ以上この場に留まっている勇気がなくなった桜は、八重の腰に触れていた手を動かして彼女の手を握り歩き出す。離れないように強く桜が八重の手を握り直せば、控え目な力で握り返された。それのお陰で彼女からまだ愛想を尽かされていないことがわかり、安堵の息を吐く。
「あー……すまん」
しばらく無言で歩いたあと、桜はばつが悪そうに謝る。隣を歩く八重を見やれば、彼女はまだ顔を赤くさせていた。
「遅刻は……してないが、すぐに助けに入れなくてすまん。人前であんな触りかたしてすまん。おっさんに触られて気持ち悪かったよな」
八重も成人しているし、それなりの触れ合いはしているが、それとこれとは別の話だろう。さきほど自分から恋人と言ったくせに、どうにもマイナスな思考になってしまう。いつまでも手を繋いでいることすら申し訳なくなり八重の手を離そうとするが、八重がそれをしなかった。触れるような力であるが、桜の手を離そうとはしない。
「……な……です」
彼女の手を振りほどくことがてきずどうしたものかと考えていると、ぼそりと八重が粒やいた。小さな声でよく聞こえなかったため、「なに?」と尋ねる。すると八重は桜の手を強く握り、先程よりは大きいがそれでも小さな声で続けた。
「い、嫌じゃないです……。それどころか、恋人って……、私たちが、恋人って……言ってくれて……」
嬉しい、と消え入れそうな声で言うと、八重は繋いでいないほうの手を自身の頬に当て恥ずかしそうに目を伏せる。顔は耳まで真っ赤だ。そして「嬉しい」と言われたことに、桜はつい口許が緩みそうになる。
「そうか」
年甲斐もなく喜んでいるのを悟られないように返事をしようとしたら、随分そっけないものになってしまった。その代わり、もう一度手を握る。八重のほうから「ひゃ」と短い悲鳴が聞こえたら、拒絶の意ではないはずだ……多分。
「映画、行こうか」
本日のデートの目的である映画館へ行くことを提案する。まだチケットは買っていないが、昼前だし、まだ夕方のや夜の時間の映画ならばチケットは余っているだろう。
「はい」
八重がはにかんで返事をしてから、二人は手を離すことなく映画館へ向かうことにした。
普段は桜か八重の家で、動画サブスクリプションで映画を観るため、こうしてデートとして映画館に来たのは今回が始めてだった。桜がぼーっと上映している映画と座席状況が映っている液晶を見ていると、八重が桜の手を引いた。
「何を観ますか? 大和さんが観たいやつが私も観たいです」
年上を立てるリクエストとしては模範解答であり、いつもの桜ならそうするのだが、今回は絶対にそれはだめだ。
「今日は八重が観たいやつを観るって約束しただろ」
「で、でも……」
昨晩の約束をガン無視した八重の発言を諌めれば、八重は眉を下げて困ったような表情になる。
「なんでもいいとか言ったら、あれとかの年齢制限あるグロいのにするぞ」
二人のときは絶対に選ばない、年齢制限がある映画がちょうど上映していた。意地が悪いのは自覚しているが、それを利用して八重に無理矢理選ばせることにする。
「あっ、じゃあ、あれが観たいです! 私、チケット買ってきます!」
するとよほど年齢制限があるのが嫌だったのか、八重が慌ててそう言って、チケットを予約する電子パネルが置いてあるところへ行ってしまった。あれとしか言われなかったので彼女が何を観たいのか不明なままだが、上映中の映画のラインナップと八重の性格から考える限り、変なものではないだろう。
「しまった、チケット代」
このままでは八重にチケット代をおごられることになる。あとで支払えばいいのだが、意外と強情な八重はたまには自分が支払うと言ってきかずに受け取ってくれないだろう。首を傾げながら電子パネルを操作している八重を見る限り、彼女はまだチケット購入まで至っていないはずだ。まだ間に合う。桜は八重のもとへ走って行った。
結果としてチケット購入には間に合い、無事桜がチケット代を支払うことができた。その際に八重が自分が払うと言って強引に自身のクレジットカードをカード差し込み口に入れようとしてきたが、それよりも先に桜がクレジットカードを挿入して、彼が購入することができた。
しかし問題はそこではなかった。
「え、八重、これが観たいのか?」
発券されたチケットに書かれた映画のタイトルを見た桜は、戸惑いながら八重にそう問う。八重は桜の様子に気が付かないのか、楽しそうに笑った。
「はい。ネットですごく有名なので、観てみたくて」
「……」
「もしかして大和さん、観たくなかったですか?」
「いや、その、そういうわけではないが……」
どちらかと言えば観たかった。が、これも一応年齢制限がある作品で、桜としては八重は大丈夫なのかと心配だった。気になっていた桜はそのうち一人で観ようと色々調べていたので、この作品の年齢制限がもう少し上じゃないかと言われていることを知っていた。恐らく八重はこのことについて一切知らないのだろう。でなければ彼女が観たいと言うわけがない。
――というか、よく席が余ってたな。
観ようとしている映画は巷を騒がすほどに人気となっており、連日満員御礼とも聞く。席があったのが、運がよかったのか悪かったのか。
「よかった。楽しみですね」
「そうだな……」
そこまで子供じゃないから大丈夫だよな……、大丈夫だよな? 桜は不安になりながら、にこにこと笑っている八重へと言った。
エンドロールが終わり、シアター内が明るくなったあとに隣に座る八重を見れば、顔を真っ青にして座っていた。
「大丈夫……じゃないか」
「すいません……」
立てるか? と聞こうとした桜だが、どう見ても立てないだろう。やはり途中で退席するように勧めればよかったと後悔する。できれば体調が良くなるまでこのまま座らせておいてあげたいが、映画館のスタッフがシアター内に入ってきて清掃をし始めた。体調が悪そうにしている八重に出ていくよう言うことを躊躇っているのか、スタッフに声をかけられることはないが視線から出ていってほしいという感情か伝わってくる。
「ちょっと触るぞ」
今度は一言声をかけ、桜はぐったりと座っている八重の脇に腕を回して無理矢理立たせる。そして彼女のコートと荷物をもう片方の腕で持ち、ゆっくりとシアターを出ていく。
「本当にすみません……」
蚊の鳴くような声で八重が謝る。八重は自力で歩くことも難しいのか、ほとんど桜に引きずられているような状態だった。
「気にするな」
年上らしく気の利いた一言でも言えたらよかったのだが、すぐには出てこずに無難なことしか言えなかった。
「今日はもう帰るぞ」
本当は外で夕食を食べる予定だったが、八重がこの調子なので早く家に帰らしたほうがいいだろう。
予約はあとでキャンセルの電話を入れよう、確かキャンセル料は取られなかったはずだ。それと電車で一人で帰らせるのも危ないだろう。ならばタクシーで一緒に八重の家に向かうか……。
「そんな! 少し休めば元気になります……! レストランだって、予約してるって……」
桜がこれからどうするかを思案していると、案の定、八重が反論した。
「そんなのまた行けばいい」
ようやくロビーに着いた二人は、近くにあったソファに腰を下ろす。桜が八重の膝に彼女のコートをかければ、八重はうるんだ瞳で桜を見た。その目を見て、桜はすぐにこれはまずいと危機感を覚える。
「でも、私……」
桜は覚悟を決めるために、一度目を閉じる。そしてすぐ開き、真っ直ぐにこちらを見つめる八重を見つめ返す。二人の視線が合うと、八重がゆっくりと口を開き、こう言った。
「まだ、大和さんと一緒にいたいです……」
「…………ッ、――!」
普段は言わないとだめなことすら遠慮して言わない八重の、ここぞというときのわがままに桜はとことん弱かった。桜の記憶にあるなかで、八重のわがままを拒否できた経験は皆無だ。だって仕方がないだろう、こんなわがままを言ってくれるのは俺だけになんだぞ。そう脳内で誰にでもなく言い訳をする。
「すぐ元気になりますから」
それが効くとも知らず、無自覚に自分のほうへと寄ってくる八重に、桜は彼女の肩に手を置き距離を取ろうとする。しかし女性相手に力を強く込められないため、八重は簡単に桜が保った距離も詰めていく。
「だ、だめだ。帰るぞ」
「大和さん……!」
このままでは負ける。しかし今日は彼女のためにも譲れない。桜は周囲の目が集まっていることはわかっていたが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
無理はさせられないし、させたくない。月一のデートのためレストランは予約が取りづらい店にしたが、今日じゃなきゃ二度と行けないというわけではない。次のデートはまた来月だが、月に一回はするという約束があるから今日という日にしがみつくことはない。でも俺だっていられるのなら一緒にいたい。できるならば彼女の要望だって叶えたいわけで。しかしだからといって――
「なら、そうだ。それなら夕飯は八重の家で一緒に食べよう。だから帰るぞ」
様々なことに思考を巡らせた結果、桜は『八重を家に帰らせて』、『二人でいられる』方法を思い付き、そう申し出る。夕食の食材を帰り道で買って、二人でおかずでも作ればいい。我ながら妙案だと思い八重の返事を待っていると、八重から返事どころか反応すら返ってこない。何か間違えたか? と思い桜が八重を見ると、彼女はさっきまで青かった顔を真っ赤にさせていた。
「一緒に? それは、その……」
しかし八重はそう言うと、手に頬を添えて困ったように眉を寄せた。
「もしかして嫌だったか?」
まさかそこを拒絶されると思わなかった桜は、内心で少しだけショックを受ける。すると八重がすぐに顔を上げ、首を横に振る。
「い、いえ! そんな、嬉しいです。でも、でも……。あぁ、う、うぅぅ~」
今度は頭を抱えだしてしまった。照れたり困ったりところころと表情を変えるところがかわいいと思いながら、彼女のその反応に桜は一つの考えにたどり着く。これは自分が急遽八重の家に行こうとすると、絶対に八重がする反応である。
「掃除が終わるまで外で待つから、思う存分部屋の掃除していいぞ」
桜も八重を家に招くときは徹底的に掃除をしているので、なんとなく彼女の掃除をしたい気持ちはわかっていた。
「う、うう……。すみません……」
桜の言葉に八重はがっくりを肩を落とし、申し訳なさそうに言う。気にするなと言いたかったが、何を言っても彼女は落ち込むだろう。そう判断した桜は「どっこいしょ」と言いながら立ち上がり、若干涙目になっている八重へ手を差し出した。
「そら、行くぞ」
「はい、大和さん」
八重はその手をじっと見たあと、目元の涙を拭い、微笑んでから桜の手を取って立ち上がった。
――好きになってくれた理由がわからなくても、この手に触れてくれるなら、俺はそれでいい。
そんな年甲斐もなく甘ったれた思考になるぐらい、桜は八重を愛していた。
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