第5話



「おはようございます。今日は×月×日、×曜日。風が強いけど、良いお天気だよ」

 彩葉の反応を見ながら、覗き込むように青木医師がにっこり笑って言った。

 彩葉もゆっくりと瞬きしながら、表情をゆるめる。脳裏では、青木の言葉を何度も繰り返しながら。

「気分はどう?……そう、問題なさそうだね」

 彩葉は少し身体を起こせるようになっていた。ほんの少しずつだが、PTの意見を聞きながらベッドの角度を上げていった。少し視界が高くなるだけで、世界が大きく変わることに彩葉は驚いていた。


 誤嚥を心配され一部で反対もされたそうだが、身体を長く起こせるようになってしばらくして、彩葉の食事のリハビリが始まった。液体と言っていいとろみのついた粥をひとさじ、ふたさじ。赤ちゃんからやりなおしているようだ、と彩葉は思った。


 ゆっくりと様子を見ながら十倍粥を口に運んでくれるのは、彩葉と同年代の看護師だった。

「赤ちゃんみたいって思ってる?

 ……そうなの。長く口と喉を使っていないから、今は食べ方を覚え直しているの。ちょっと時間はかかると思うけど、退院に向けてのひとつのステップだから、頑張ろうね!」

 明るい笑顔で彩葉に語るその看護師は、青木医師が来た頃から見かけるようになった看護師だった。胸についている名札は彩葉には読めない。名前も聞けない。以前名乗ってくれたかもしれないが、忘れてしまった。


 次第に身体を起こしている時間が増えた。就寝時間と彩葉が眠そうにしている時以外は身体を起こすようになった。異動があったのか、PTは女性から男性に変わった。足や腕の大きな筋肉から手指のリハビリまで。少しずつできることは増えていった。PTの男性は彩葉の指のマッサージをしながらしみじみと聞いた。

「なにか指をよく使うこと、やってました?」

もちろん返事はできないし、できないこともPTは知っている。彩葉は微妙な顔をした、ようだ。反応があったことが嬉しかったのか、PTの男性は素敵な笑顔を見せた。彩葉はこの笑顔も文章にしたい、と心から思った。自分のキャラクターに、こんな笑顔をさせたい。

 彩葉は自分にこの気持ちを忘れずにいられるだろうか、記憶に留められるだろうか不安だった。

 不思議な夢を見る時間は、この頃から少しずつ減っていった。




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