独りぼっちのタンジェント

道草

第1話

 tanは、sinに恋をしていた。しかしsinはcosのことを好いていたので、tanの想いは中々伝わらなかった。

 彼らは紀元前二世紀、ギリシャの学者ヒッパルコスにより生み出された。モップのような髭を蓄えた、モップのような天文学者である。

 彼らは一つの三角形を共有し、それぞれの部屋を決めて暮らしている。

 tanは最も下の階、すなわち底辺に暮らし、時たま右側の辺を使って二階に上がってくる。一方sinとcosは三角形左側の斜辺をシェアハウスし、彼らもたまに右の辺や底辺にやって来る。

 tanはこの配置に不満を抱いていた。三角形には必ず三辺があり、三角比はsin、cos、tanの三種類であるのにもかかわらず、sinとcosだけがシェアハウスをしているためである。その上cosがtanのもとにやって来ることはあっても、sinがやって来ることは絶対にない。彼らが出会うことができるのは、誰も住んでいない右側の辺のみである。

 sinとcosは非常に密接な関係にあり、この二人はグラフにするとどちらも波型の曲線を描く。正弦・余弦曲線と呼ばれるもので、彼らはx軸の水面を交互に浮き沈みする。一方tanは正接曲線と呼ばれる爪痕に似た曲線を描き、その線はy軸方向に無限に伸びていく。

 sinとcosは値域が共に-1以上1以下であるのに対し、tanの値域は全ての実数である。その上tanでは特定の角度において値が定義されず、「無限」を示す。

 tanは生まれた時から自分が他の二人とはやや異なることを自覚しており、sinに思いを寄せつつも疎外感を抱いていた。

 またsinとcosの間には、このような式が成り立つ。


sin²θ+cos²θ=1


 tanはこの式に自分が含まれていないことに憤りを覚え、何としてでもこの式に加わろうと、彼も自身を二乗したことがあった。

 すると、このような式になった。


1+tan²θ=1/cos²θ


 tanはまたしても憤った。肝心のsinがこの式にはいないためである。余計な1が入ってきてしまったために、sinの入る余地がなくなってしまったのである。

 そこでtanはcosを退け、無理やりsinをこの式に加えようとした。


1+tan²θ=1/1-sin²θ


 tanはsinとの距離を更に縮めようと、sinと1を左辺へ招いた。


(1+tan²θ)(1-sin²θ)=1


 二人を隔てるのは、薄っぺらい括弧のみである。tanは更に更にsinに近づこうと、その括弧を突き破り展開しようとした。

 しかし、ここでヒッパルコスが登場し「いい加減にせんかね」と言った。「これじゃあ、せっかくの式がわけのわからんことになる」

 ヒッパルコスは髭の中からぶつぶつと文句を言いながら、式を元に戻した。


1+tan²θ=1/cos²θ


「既に完成している式に、余計な手は加えるべきではないのだよ。君たちには然るべき役割と然るべき居場所がある。それに満足できないからといって、無暗矢鱈にいじるのはよくない」

 それ以来tanは孤立的な立ち位置に甘んじ、仲を深めていくsinとcosをイコール越しに眺める日々が続いた。


tanθ=sinθ/cosθ


 それから二〇世紀ほどの時間が経ったが、彼らの関係は依然として変わっていない。sinとcosは二人で波模様を描き、記号を介して仲を深め、tanはそれを底辺から、あるいはイコール越しに見つめている。

 二〇世紀という時間は、tanが内面的に成長するには十分な時間であった。この長い時間の中でtanは自らの意義を考え、自分が何をすべきか理解した。

 tanがいなければ三角比の相互関係は崩れ、式は破綻し、三角比は全て-1以上1以下の世界に収まってしまうちっぽけなものになる。tanのいない三角比は、不完全なものである。

 tanはsinとcosのために、三角比の一員として自らの責務を果たすことに決めた。

 そこだけがtanの居場所であった。

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独りぼっちのタンジェント 道草 @michi-bun

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