セピアと千日紅
道草
第1話
その世界では花は枯れません。
その代わり、その世界には色がありません。
その世界では夏が続きます。
その代わり、その世界には夏しかありません。
その世界ではいつまでも遊んでいることができます。
その代わり、その世界には時間がありません。
その世界には君がいます。
その代わり、その世界に僕はいません。
その世界で君はずっと笑っています。
その代わり、その世界で君が泣いてくれることはありません。
その世界はこの世界とは違います。
その代わり、二つの世界を繋ぐ小さな窓があります。
僕は窓越しに挨拶をします。君は返事をせず、ただ微笑むばかりでした。
窓辺の千日紅は朝日を浴びます。コップの水が陽光を濾して、不思議な模様を作り出しました。
涼しい風が頬を撫でます。カーテンがふわりと揺れて、夏の匂いがしました。
雲が風に流されていきます。雨上がりの空は、青い光で満たされていました。
木漏れ日が手元を照らします。ふと視線を上げると、青々とした葉が輝いていました。
まるであの日の夏のようでした。
君はアイスをぺろりと舐めました。その唇にチョコミントがくっ付いて、君はくつくつと笑いました。
僕はソーダをくいと飲みました。喉の奥でぱちぱちと弾けて、僕は顔をしかめました。
バス停には二人だけでした。蝉の声が聞こえました。雨上がりでした。空気が湿っていました。アスファルトの匂いがしました。
水溜りに雲が映っていました。水溜りで君は軽やかに跳ねて、水飛沫が光りました。
虹の根本からバスが来ました。君はバスへ乗り込んで、白い細い手を僕に降りました。
バスは水のような蜃気楼へと潜っていきました。
その世界の花は綺麗ですか?
色の代わりに、何かありますか?
その世界の夏も暑いですか?
他の季節が、恋しくないですか?
その世界でいつまでも遊んでいるのですか?
時間がないなら、朝日も昇らないのですか?
君は元気ですか?
僕は元気です。
どうして笑っているのですか?
たまには泣いてもいいのではないですか?
分かっています。その世界はこの世界とは違うので。
唯一僕らを繋ぐ窓は、僕には小さすぎました。
僕は諦めてベッドに潜ります。月が雲隠れして、君の姿は見えなくなりました。
窓辺の千日紅は闇夜を纏います。コップに夜のインクが垂れて、じわじわと水を黒く染めました。
強い風が窓を叩きます。カーテンの影が夏の化け物となって、僕のベッドに近づいてきました。
雲が真上に溜まっていきます。紫色の雲は雨を降らし、雷の音で空気を割るようでした。
真っ黒な幹が窓を覆います。ふと視線を上げると、黒々とした葉に僕は飲み込まれていました。
まるであの日の夜のようでした。
君はどこか遠くへいきました。その頬を撫でてみても、君が笑うことはありませんでした。
僕は涙を吞みました。喉の奥でつっかえて、僕は色んなものを吐き出しました。
僕は独りでいました。蟬の声は小さくなりました。雨が降っていました。空気がすさんでいました。アスファルトが冷えていました。
水溜りに波紋が広がりました。水溜りで跳ねた僕の涙は、雨に交じって消えました。
薄霧の中からタクシーが現れました。タクシーのヘッドライトが無数の白い針を照らし出しました。
タクシーは闇夜を切り裂きながら交差点を曲がりました。
この世界では花は枯れます。
その代わり、この世界には様々な花があります。
この世界では夏は終わります。
その代わり、この世界には新しい季節があります。
この世界ではいつまでも遊んでいるわけにはいきません。
その代わり、この世界には変化があります。
この世界には僕がいます。
その代わり、この世界に君はいません。
この世界で僕はずっと泣いています。
その代わり、君がずっと笑っていてくれます。
その世界とこの世界はあまりに違いすぎます。
だから僕は、窓から君を眺めるのです。
セピア色の君ばかり眺めるのです。
セピアと千日紅 道草 @michi-bun
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