桜兎(さくらうさぎ)・明治悲運奇譚

瑠花

第壱話・少女

「いやぁ、そうは言われても」

 店主である中年の男は、露骨に渋い顔をする。

祖国を離れ、この地に移住して五年程。ようやく家業である和菓子店が軌道に乗り出してきたというのに。このような形で帰国するように促されても、到底納得のいくものではなかった。

「否。俺もだ、お上の命令で一件一件回っているだけだが。まぁ、情勢的にまずいのは本当だから、一応言っておきますよ」

「ああ、ああ、わかった。だが今直ぐにはお前さん方の言うことを聞き入れる気はねえからな」

 店主にシッシッと手を払われたが、特に気にするでもなく。「大日本帝国」とやらの軍服に身を包んだ若い男は、さぁお次は、と踵を返した。


明治中期、朝鮮南部。

 日本との交易のあったこの地には、多くの邦人が商売等様々な目的で在住していた。

異国の地とはいえ、邦人の住む町や集落は、祖国と変わらぬ姿に整備されており、件の和菓子屋一家も土地の言葉や風習の壁はあったものの、これといった不自由も無しに、店もそれなりに繁盛していた。

先程の軍人が、今度はうら若き少女と話している。あの和菓子屋の一人娘であった。名は三鈴、齢は十七である。未だあどけなさの残る少女は、軍人の腰に装着しているラッパが気になるようで、話をしながらちらちらと目線を向けていた。

「軍人さん。これは何ですのん?」

「ああ、ラッパ、見たことねえか?こいつで号令出したりするんだ」

 プッ。と軽く鳴らしながら返すと、三鈴にすっと手渡す。

「ちょいと吹いて良いよ」

 おずおずと、吹き口に口を当て、遠慮がちに小さな音色を立てる。と、次の瞬間に頬に力を込めすぎて力一杯に吹き込んでしまった。

 無論、凄まじい暴音が辺りに轟く。何だ何だと、こちらに目を向ける通りすがりの者、数知れず。うわ、と互いに目を合わせ狼狽えるも束の間、今度は軍人にえらく聞き覚えのある怒声が聞こえてきた。


「阿波野一等卒!何をしている」

「おっと、まっつんか。なら良かった」

「ここであだ名はやめい!俺は松野だ。往来で無意味にラッパを吹くな!というか…サボってたな、貴様」

まっつん等と呼ばれた上官らしき男はちらりと傍らの三鈴を見やる。慌てて彼女が「私が吹きました、申し訳ありません」と頭を下げるも、特に構うことなし、引き摺るように部下の阿波野を連れさって行く。

「またお前さんの店に行くと思うから。ちょっと深刻だからな」

 阿波野が振り返り様に三鈴に告げた。



「悪いことしちゃったな。今度改めて謝らないと」

父親の営む店の品を整理しながら、三鈴は己のそそかしい性分を悔いる。それは幼き頃からで、両親からもしばしば咎められるも、今に至っても中々改善されずにいた。それでも彼女の気立ての良い面で凌駕され、然程周りから嫌がられずにいるようだった。

「お父ちゃん、ちょっとでかけてくるね」

 店番も終え、草履を履き替えながら父に軽く声をかける。

「何だ?まさかお前」

「あんた、いちいちいいから!ほら、行っておいで」

あらぬ想像をしていぶかしむ父を母が制したお陰で、素早く家を後にすることが出来た。

午後の柔らかい日差し。思わずぼんやりとしてしまうような気候だ。ガラガラと音を立てながら走る人力車とすれ違う際に、砂ぼこりが舞い上がる。塵が喉を刺激してか、三鈴は軽く咳こんだ。

「咳…嫌だな。思い出すから」

父のあらぬ想像とやらは、おおむね間違いではなかった。幼げではあるものの、三鈴も年頃の娘。想い人がいても何ら不思議もない。とある人物と待ち合わせをしていた。彼女の顔が綻ぶ。

「若様っ」

目の前には、この地の主に貴族の着用する「道袍トポ」と呼ばれる衣服に身を包んだ、長身で凛とした顔立ちの青年の姿があった。



「あっ!」

ぷつん、と鼻緒が切れた。

少し遠出をしようと二人で決め、地元の民の町まで来ていた。日本のものとは似ているようで異なる景観や店の品など、あまり倭人街から出たことのない三鈴の目を楽しませてくれていた時である。

左足に履いた草履が使い物にならなくなり、三鈴は屈んだ姿勢でため息をつく。

「こんな時に、紐を持ってくるのも忘れたなあ」

困惑する少女を無言で眺め、青年はどうしたものかと辺りを見渡す。と、然程遠くない場所に履物を売る店があった事に気づいた。

「歩けルか?肩ヲ貸そう」

少々片言ではあるが、ある程度の日本語はわかるようだ。履物を買いにいこうと三鈴を促した。

「はい…。あ、でも裸足で歩くのも健康に良いものですよ」

少しばかり遠慮してみるものの、青年は軽く睨むような表情をし、無言で首を横に振る。

「あ、ダメですか」

 苦笑いで立ち上がると、言われるままに青年の肩に手を回した。彼の体に筋肉がしっかりとついていることが、あまり鋭いとは言えぬ三鈴でも腕ごしに伝わってくる。顔を赤らめるのを隠すように、俯き加減で歩いた。


「どうだ?大きイとか小サいとか、ないか

 」

「大丈夫みたいです…」

 紅色に黄色の小さな花模様の、『コッシン』と呼ばれる靴に足を通し、三鈴は少し歩いてみせた。いつも質素な草鞋や草履といった日本固有の履物でしか歩いたことのない彼女には、足そのものを覆われている靴を履くのは不馴れでありながらも、新鮮な気分になっていた。和服に似合うかはともかく、綺麗な花模様を施した綺麗な靴。

「可愛い」

青年がぽつりと笑顔で呟く。うん、可愛い靴ですねと三鈴が言葉を返すと、再び彼は先程のように首を横に振る。

「お前ガ」

 そのまま青年は勘定を済ませる。自分で払うと財布を取り出す三鈴をサッと制し、コッシンは三鈴のものとなる。

「なんか、すみません」

「ううん」

 コツリ、と軽快な足音が心地好い。さぁ次はどこを見て回ろう、と手を繋いだ二人は街中へと消えていく。


 時折、地元の住人の視線が三鈴を鋭く刺していた。





「兄ちゃんも、あんなふうに優しかったな…」

それから数日の後、我が家の縁側にて。父母が食材を買い出しに市場へと出向き、この日は店も閉めていた。

留守番を任された三鈴は、親子三人分の洗濯をゆっくりと済ませ、更に乾いた着物を畳んでいるうちに、呑気にもうとうとと、居眠りを始めてしまう。夢と現の間にて目蓋の裏に浮かぶは、亡き兄の姿。

思い出す。妹の頭を撫でる時の笑顔。文句を言うときの怒り顔。

 そして、死の間際…。

「死にとうない、助けてくれ…」

 普段は気丈で弱音を吐かない兄が、熱にうなされうわ言を言う。彼の横たわる寝具の周りには、吐いた血を拭ったハンケチやら布切れだらけ。お兄ちゃん、お兄ちゃん、と呼びながらわんわんと泣く幼き三鈴を、見かねた父が兄から引き離す。

「駄目だ、この病は治らねえ」

表に出ていろと促され、涙で濡れたまま外に佇んでいると、聞こえてくる。肺の病にかかった兄を蔑む声。

「うわ、あの源助の妹じゃ。外に出てるなよ」

「息とめろ、息を。俺らにも移れば大変だ」

近所の悪たれどもが、口を塞ぎながら足早に通りすぎていく。兄の病は近所中に知れ渡り、それまで親切であった人々も手のひら返しで一家を避けるようになる。隔離病院に送れと助言する者もいたが、そのような金もなかった。

そんな時、三鈴は歌うのだ。

 成人後、軍に志願しようと夢見ていた、兄の好きな歌。


 宮さん 宮さん お馬の前に

 ひらひらするのは何じゃいな?

 トコトンヤレ トンヤレナ


いつのまにか、現に戻された三鈴はぼそぼそと口ずさんでいた。

「あれは朝敵 征伐せよとの

 錦の御旗じゃ 知らないか

 トコトンヤレ トンヤレナ」

戦が好きな訳じゃない。けど、長生きして夢を叶えて欲しかったし、何より私の歌声をいつも褒めてくれた兄が聴いてくれている気がするから…。

「トッキ?」

一つ歌い終えると、聞き覚えのある声で、はっきりと意識を戻す羽目になる。

 縁側にて畳みかけた洗濯物に寄りかかった姿の三鈴。そして横には、先日時間を共にした貴族の青年がいつしか座っていた。


「あ、れ若様、いつの間に?」

「玄関入ろうとしたら、橫の縁側デ寝ていた。体の具合おかシいか」

 言いながら、三鈴の額に手を触れる。温かくも冷たくもない手指の感触が、三鈴の額を支配する。

「少シ、熱いか?」

「いえ、風邪っぽくないし、熱は出てないと思います」

 とはいえ、なまじ器量の良い男に触れられて平然としている方が、生娘である三鈴には無理な事であった。

「トッキ、何かアッたか?」

 何時しか、『トッキ』という単語が三鈴の愛称になっていた。朝鮮語で『うさぎ』の事であり、彼女の雰囲気がかの小動物に見えることと、本名の『みすず』の発音がいささか難しいということで、そのように呼ぶようになっていた。

「いいえ。ただ昔の事を思い出していて」

「倭国にいた頃のか?」

「うん、亡くなった兄さんの事を。労咳で呆気なく逝ったんです」

感染する病が故に、当時住んでいた集落の人間から弾き者にされ、挙げ句に三鈴を遊郭に売ろうとする仲買人に付きまとわれ。最早ここに居場所は無しと、日本の西側から比較的近いこの国へと流れ、心機一転をはかるべく、父が元からの夢でもある和菓子屋を開いた旨を、青年にゆっくりと打ち明けた。彼は黙って頷きながら聞いている。

「労咳はすぐに症状が出ずに、菌が数年も体の中に潜んで、年をとったり体力の落ちた際に一気に暴れまわる事があると聞きました。だから、」

 自分たち親子もいつどうなるかわかりません、と苦笑いをしつつも不安な気持ちがあらわとなっていた。

暫しの沈黙。

 勢いで己の過去を打ち明けてしまったが、やはり止めるべきだったかな…と俯く三鈴。しかしその不安は無用だったようである。


「でも、今は発病シていないんだろう?なら良いじゃナいか」

三鈴が顔を上げると、満面の笑顔の青年。こうして自分の過去を語ってくれたことが嬉しい、勇気がいることだったろうと笑う。

「いや、私も絶対に大丈夫ダとか、調子の良い事は言えぬ。だがいつカは何らかの病にかかる可能性は誰にデもある。無論私にも」

そっと、三鈴の小さな手を掴む。

 白くてか細く、少し力を込めると潰れそうな柔い手。

「今は不治デも、今後は良い薬が出回るやも知れん。少しハ望みを持っても良いんじゃないか」

「若様は、こんな体に爆弾を抱えたような私でも仲良くして下さるのですか?」

「爆弾とか!そんナ風に言うな」

 ぎゅう。三鈴を自分の体に思い切り押し付け、包み込む。

「では今ここデ、私諸トも爆破しテくれ」

 温かい。広い。青年の腕の中。

全身の血がわきだって、本当に今にも暴発しそうに三鈴の顔が朱に染まる。

 そしてふわりと、唇に柔らかい感触。いつしか青年のそれで塞がれていたのだ。どうしよう、門の前は普通に人の通る道がある。拒否出来ない。振り払えない。心地好い。貴方がとても…。

「んん…」

 舌が口内に差し込まれる。それでも暫し動けなかった。





「おっと、すまねえ!」

野太い男の声で、はっと我に返る二人。門前にて、先日家に来た軍人、阿波野一等卒と呼ばれた男がばつの悪そうに立ち尽くしている。

「あ、ああ阿波野さん?今日はお、お父ちゃんは…」

 慌てて青年から離れ、三鈴はしどろもどろに声をかける。

「本当に悪い、出直すか…って、そうじゃなかった今日は」

 阿波野も慌てながらも、用件があるようで何とか言葉にしようとしていた。

「裏の通りに、写真屋があるだろう。あの、何だ、くねくねした親父が店主の」

「ああ、あのおっさんかおばさんか良くわからない…」

「そう!あのおっさんがな、例の件の話を詳しく聞く前に、写真の素材になるような人間を連れてこいとうるさくて。誰でも良いからって事でとりあえず三鈴さん、君とだ…」

「えー、急にどうしてそうなるの?」

 ふと、阿波野の視界に綺麗な身なりの青年の姿が入る。朝鮮の両班と呼ばれる貴族であろう男か。なかなか写真映えのしそうな雰囲気だ。

「あの、あんたにもお頼みしたいんだが宜しいか?」

「えぇ!?」

 驚愕する三鈴を尻目に青年に駆け寄る阿波野。しかし青年は警戒しているようで、無言のまま訝しげに彼を眺めている。すかさず三鈴が間に入り、事の次第を分かりやすく青年に教えると、納得したようで漸く首を縦に振った。

「ああ良かった。自己紹介、まだだったな。俺は阿波野真作。日本の帝国軍人で、この街に駐在しています。今日は宜しく」

 阿波野が丁寧にお辞儀をすると、青年もすんなりとお辞儀を返した。

「私は、オ・ギョヌと申します。この土地の地方官であります。日本語はまだ勉強中です」

 懐から紙と筆を取り出し、漢字で名を書いてみせた。

実に達筆である。更には下っ端ながらも軍人の勘なのか。ギョヌの手指は細かい傷が沢山付いており、握りだこも少なからず出来ているのが確認出来た。彼も刀やら武器を沢山扱ってきたのだろう。

 俺も剣道や柔術をそこそこ学んできたが、彼ともし剣を交える事があれば、どちらが勝つか?

否、あまり自信がないかな…。


「よっしゃ、とりあえず二人とも行こう」

阿波野に連れられ、二人は家を後にする。ちょっと待って、と三鈴は一度引き返すと、ギョヌに買ってもらった紅色のコッシンに履き替えてきた。

「それ、履きやすイか?」

「はい、とても」


 その日は、とても久しぶりの快晴でありました。




 第壱章・終



























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