サイバーパンク叙事詩:吸血鬼の追憶
しげ・フォン・ニーダーサイタマ
第1章
第1幕
第1話
【第1幕あらすじ:自身を善良清楚だと言い張るハッカー「スミレ」は、恐ろしくスケベな下着一枚を身に纏い、悪漢から逃げていた。それを助けた傭兵「アスター」は、スミレが巻き込まれている陰謀の片鱗に触れてしまう。そこに素晴らしく豊満なバストを持った企業エージェントがやってきて、事態は混迷してゆく】
暗い町並みを、奇妙な車が走っていた。
低速であったからだろう、男は「誰か乗せて!」という切迫した叫びを聴き留めた。女の声だ。見てみれば、脇道から1人の女が走ってきていた。遠目にも美しい女であった。そして彼女の背を追うように、虚ろな目をした4人の男たちの姿も見えた。
「こんな夜だ、傷を舐め合う相手を乗せるのも悪くないか」
男はそう呟きつつ、車を停めてやった。そしてだんだんと近づいてくる女の姿を確認する。
ピンク色の髪を風になびかせる女の年の頃は、膨らみに欠ける胸のせいで幼く見えるが、20代前半といったところか。長い睫毛に縁取られた、意思の強そうな目元。すらりと通った鼻梁の下に、瑞々しくもすっきりとした唇。よく手入れされているのであろう白い肌からは、汗ばんでなお気品すら感じられた。なるほど男なら放ってはおけぬ美女であった。
しかしその身なりはキャミソール一枚。否、パンツも身に着けてはいたが、それはあたかも開け放たれた城門の中心に衛兵がただ1人立ち、勇敢だが絶望的な防衛戦に挑む――そのような有様のパンツであった。痴情のもつれか、はたまた犯罪に巻き込まれたか。
「……とんだ拾い物になりそうだな。まあいい、乗りなお嬢さん!」
女はオープンカーもどきと、男の赤い瞳にぎょっとした様子であったが、背に腹は代えられなかったのであろう、大急ぎで助手席に滑り込んだ。
「行き先は?」
「あいつらから逃げられるなら、どこでも良い!」
「よしきた」
白スーツの男はアクセルを踏み込んだ。エンジンが不満げに唸り、タイヤが金切り声を上げる――追いついた悪漢たちの手が車に触れる寸前、オープンカーもどきは走り出した。どんどんと離れてゆく悪漢たちに向かって、女は中指を立てて叫んだ。
「数しか取り柄のない粗チンどもが、一昨日来やがれ!」
「……なかなか元気が良いね、お嬢さん」
「あら失礼、ちょっと興奮していたみたい……助けてくれてありがとう、えーと、私はスミレ……OK落ち着いてきた、見ての通り善良清楚な美女、職業はハッカー。どうお礼をすれば良いか……」
スミレと名乗った女の顔は、確かに整っていた。しかしピンク色の髪とキャミソール、その裾から覗く、開け放たれた城門の中心に衛兵がただ1人立ち、絶望的な防衛戦に挑む――そのような有様のパンツという出で立ちからは、清楚さの欠片も感じられなかった。
白スーツの男は、「ああ残念な女だな」と直感した。おまけにスミレの、荒野を歩く旅人がふと地面の僅かな隆起に目を凝らせば、それは墓標なき骨塚であると気づき、思わず手を合わせる――そのような有様の胸元に残念そうな視線を送った後、スミレの自己紹介に応じてみせた。
「清楚かは疑問が残るし、ハッカーが善良だとも知らなかったが……丁度話し相手が欲しかったところだ、気にしなくていい。俺のことはアスターと呼んでくれ」
「アスター?」
男に花の名前とは、とスミレは訝しんだが、アスターの出で立ちを観察して納得した。白スーツの胸や腰に、不自然な膨らみがある――武器を隠し持っているのだろう。2124年の日本において、一般人の銃の携行は珍しくもないが、荒事を前に落ち着き払っている様子と合わせて考えれば、この男は傭兵の類なのだろうと推察できた。
「コードネーム、かしら」
「ご明察……むっ」
サイドミラーに目をやったアスターが眉をひそめた。黒いバンが追ってきていた――虚ろな目をした、先程の悪漢たちを乗せたバンだ。
「追手は熱心だな」
「それだけ私の美貌に価値があるってことね」
「なるほどね……おっとぉ!?」
アスターが急ハンドルを切り、オープンカーもどきを蛇行させた。バンから身を乗り出した悪漢たちが、拳銃を放ってきたのだ。
「畜生、いきなり撃ってくるかよ!?」
「前戯も出来ないクソ野郎どもね、私の寝室に押しかけてきたときもそうだったわ! 愛撫の仕方を覚えてから来やがれってのよ! で、振り切れないの!?」
「本当に下品な女だな!? いいか、この車は今傷ついているんだ、最高速度は出せない。あのバンが汁男優を満載していたって追いつかれるだろうな!」
「ファック! 乗る車を間違えたかしら!?」
「俺も乗せる女を間違えたかもしれん! とにかく応戦するしかない、銃は使えるか!?」
「股間のマグナムの話でないとすれば、無理よ!」
「車の運転は!?」
「四つん這いにした男の話でないとすれば、ゲームでしかしたことないわ!」
「それで十分だ、代われ!」
「ちょっと!?」
スミレが抗議するより先に、アスターは運転席から後部座席へと飛び移ってしまった。制御を失ったオープンカーもどきがゆらゆらと揺れる中、スミレは意を決して運転席へと身を移した。ハンドルを握れば、左右の揺れは収まった。だが車体は失速していく。アスターは胸から抜いた大口径リボルバー拳銃の撃鉄を起こしながら、スミレに向かって叫んだ。
「右のペダルがアクセル、真ん中がブレーキだ! 左は今回触らんでいい!」
「りょ、了解!」
スミレがアクセルを踏み込めば、オープンカーもどきは不満げにエンジンを鳴らして加速を始めた。
「わかってきたわ! ところで質問良いかしら!?」
「なんだ!?」
「亀の甲羅を投げるボタンはどれ!?」
「それは俺の手元にある」
アスターはニヤリと笑って引き金を引き絞り、発砲した。.44マグナム弾、人体を破壊するには十分すぎる威力をもつ弾丸はしかし、バンのフロントガラスに当たって亀の甲羅のような形にひしゃげた。フロントガラスは割れていない。
「防弾ガラス? ただのチンピラじゃあなさそうだ……だが」
アスターは再びバンのフロントガラス、運転席付近へと狙いを定めた。右手だけでグリップを握り、左手は撃鉄の上にかざすような姿勢。
「これならどうだ」
やや間延びしたような発砲音――次の瞬間、バンのフロントガラスが割れ、その奥にいた運転手の頭が爆ぜた。超高速で2連射し、初弾の命中箇所に2発目を叩き込んで防弾ガラスを砕いたのだ。
揺れる車上で正確な高速連射を披露したアスターだが、その技巧を褒めるべきスミレは「ヒャッホー、楽しくなってきたわ!」とアクセルをベタ踏みすることにご満悦の様子で、アスターの離れ業には気づかない。
「……前を向いて運転しているのは良いことだな……おっと」
アスターの左肩に血の花が咲いた。失速しつつあるバンから身を乗り出した悪漢たちが拳銃を乱射し、その1発が命中したのだ。
しかし銃弾はひとりでに傷口から吐き出され、アスターも蚊に刺された程度の不快感を示しただけだった。そして反撃として一発の銃弾をバンの前輪に向けて放った。バンのタイヤがパンクし、制御を失った車体は電柱にぶつかって爆発・炎上した。
「なに、やったの!? ワーオ、派手にイかせたわね!」
音を聞きつけたスミレが背後を振り向くと同時、ハンドルを僅かに右に切ってしまった。咄嗟にアスターが運転席に身を乗り出してハンドルを掴み、軌道修正してやる……その時、アスターの左肩の傷がスミレの目にとまった。
「ちょっと、怪我してるじゃない」
「かすり傷だ。……さあ、アクセルから足を離して、優しくブレーキを踏んで停めてくれ」
「優しくってどれくらい?」
「童貞に接するように」
スミレは急ブレーキを踏んだ。ハンドルに頭をぶつけたアスターが、うらめしげにスミレを睨む。
「……きみが初めての相手じゃなくて良かったよ」
「そう? 結構好評なんだけどな……」
アスターが運転を代わり、スミレは助手席に戻った……肩に被弾したというのに事もなげに両手でハンドルを切るアスターへと、申し訳なさと訝しみが入り混じった視線を送りながら。
その視線を真横から受け止め続けることに耐えかねたのか、アスターは笑ってみせた。
「ナノ止血ボットだよ。もう血は止まっているし、痛覚だって遮断されている」
「軍用でしょ、ナノ止血ボットって。元企業軍?」
「そんなところだ」
「……ねぇ、ところで。引き返している気がするんだけど」
「ご明察だ」
スミレの言う通り、アスターが駆るオープンカーもどきは来た道を戻っていた。すぐに、爆発炎上したバンのもとへとたどり着く。停車したアスターはオープンカーもどきから降りながら、バンから投げ出された悪漢の死体を検分しはじめた。
スミレも車から降り、そわそわとしながらその様子を眺める。
「……ああ、わかったわ。こいつらの財布を抜こうっていうのね? ごめんなさいね、確かに今の私じゃ治療費は払えないから……身体での支払いを認めてくれるなら別だけど」
「悪いがそんな気分じゃなくなってな、それより気になることがある……ふむ」
悪漢の死体が握っていた拳銃を調べたアスターは、スミレに微笑みかけた。
「この拳銃、シリアルナンバーが無い。購入ルートが辿りづらいってことだ。それに車も防弾ガラスが張ってあった。ただの人さらいにしては準備に手が込んでいるな」
「そうなの?」
「そうだとも。……きみ、誰に喧嘩を売ったんだい?」
「知らないわよ、私はただの善良清楚な美女で」
「清楚でないことは確信したし、善良かは今疑っているところだ……ハッカーさんよ、答えてくれ。誰に喧嘩を売って、追われるハメになった? 場合によっちゃ俺も連座で締められかねん、正直に答えな」
アスターは、拾った拳銃をスミレに向けていた。スミレの顔面が蒼白になり……やがて観念したように、喋り始めた。
「……センリョウ・テック社」
「ST? 大企業じゃないか。クソッ、最悪だ……何をやらかした」
「メインサーバーに侵入して、幾つかデータを引っこ抜いただけよ」
「待て待て、メインサーバーのデータを抜いただと? STは量子コンピュータの独占企業だ、同じような量子コンピュータでも用いない限りハッキングなぞ不可能なはずだ」
この時代の量子コンピュータは、ビルの1フロアをまるまる占拠するような巨大な代物で、STからそれを買った大企業しか保有していないものであった。個人で買えるようなものではないし、所有している企業の電算機室に忍び込んで使うにしても、若い女1人で成し遂げられるようなことではない。
スミレはふんと鼻を鳴らしつつ、その平坦な胸を張った。
「よく知っているわね? でもやってのけたのよ、私は。だから追われるハメになった……痕跡は消しきったと思ったけど、ツメが甘かったみたい」
「なるほど従来型コンピュータでそれをやってのけたのなら、確かにお前さんはSTにとって脅威だろうな。だがこんな事態になっているのを見るに、どこかの企業のバックアップがあるわけでもなさそうだ。遊びでやったのか?」
「遊びですって? ふざけないで! ……行方不明のママを探していたのよ。ママは量子コンピュータ研究者だった。でもある日ママが失踪して、それからSTの躍進が始まった」
「ふぅむ。それでSTに目をつけたと。それで、抜いたデータには何か証拠が?」
「本社に囚われているという確証は得たわ」
アスターは逡巡した後、銃を降ろした。
「……今すぐSTに引き渡すのだけはやめてやる」
「優しいのね」
「まだ信じてはいないし、見逃しもしない。俺より詳しいヤツに今の話を精査してもらって、判断はそれからだ」
「構わないわ」
そういって平坦な胸を張るスミレの表情には、自信が満ち溢れていた。精査すれば彼女の話が真実だとわかる、と確信しているかのようだった――だが不意に、その表情が崩れた。
「……あっ。ちょっと待って、精査するにも証拠が必要だわ」
「抜いたデータか? 持ってきていないのか?」
「うん」
スミレはくるりと後ろを向き、うなじのあたりをアスターに見せた。生体LANジャックが2つあったが、どちらにもメモリーチップは刺さっていなかった。
さらに言えばスミレはキャミソールと開放城門衛兵孤軍奮闘様相パンツしか身につけておらず、メモリーチップを隠し持てる場所は乏しかった。女ハッカー御用達の胸の谷間など論外である、存在しない場所に物は隠せないのだから。
「なるほどね」
「貴方がパンツの奥、秘密の花園まで調べたいとか言い出す変態じゃなくてホッとしているわ……そういうわけだから、私の部屋に連れて行ってくれないかしら。隠してあるから、こいつらが見つけて持ってきたって線は、時間的にあり得ないと思う」
スミレは悪漢の死体と、炎上したバンに視線をやった。アスターも同意し、2人はスミレの部屋とへ向かうことにした。
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