ocean eyes

白田 雨

ある小説を読んだ.

私の脳内ではある場面が何度も再生されていた.荒れた海を錨をつけた男が,果てへ泳ぐシーンである.

300ページある物語のたった5行での描写.それがずっと頭に残っていた.悲しくて仕方なかった.


本を読み終えたその日,私は植物公園へ向かった.自宅から2時間ほどかかるが,都内とは思えない非常に豊かな場所で,私は好いていた.

電車に乗り,音楽が聴きたくなった.私には社内の放送や電車の走ったり,止まったりする音が大きすぎて,よく耳を塞いでいるのだ.前日に知って新しくアプリにダウンロードしておいた曲を流した.その曲は名前にあるように,波が押し寄せては引いていくような穏やかな曲だった.私は小説のシーンを思い浮かべて涙が出てでも,ほおを伝うことはなかった.分からない.とても純粋に,悲しいだけだった.


駅から植物公園の間を,私は歩くことにした.30分以上歩く距離ではあったが,途中にきれいな川が流れていたし,何より金がなかった.学生の性である.

街や水の音を聞きながら,ずっと考えていた.愛する者のために錨をつけて,冷たい海を泳ぐ男のことを想っていた.泣かなかった.着くまでは泣いてはいけないと,電車の中でなぜか心に決めていた.その男に救いを願ったりなどしなかった.私はその男とともに悲しかった.


植物公園に到着し,年間パスポートを提示する.実は一週間前に一度訪れて,買っていたのだ.本当に好きなのである.

私は入ってすぐの建物の前を通り,右に曲がった.そこには様々な松の木が育っている.私は土の上を歩く.柔らかい.枯れ葉が音を立てる.私はある樹を見つける.

周りの樹々は5メートル以上の見上げるようなものばかり.その中に,私より少し背の高い樹がある.それは,クリスマスツリーのように幹の根元から一番上まで枝が四方に伸び,寒空にもかかわらず深い緑色の葉を残していた.名も知らぬ樹は風に揺蕩い,後ろの樹々の隙間から日を浴びて,輝く.足元の雑草が,あたたかな若葉の色をして,ともにいる.

考えてみようと思った.人間が本来悲しい生き物であることを知って,私は日常にある悲しさを探ることを自制してきていた.だから,海を泳ぐ男と私が共有するこの悲しみが,何なのか,なぜなのか,一度立ち止まって考えてみようと思った.

私は樹を眺める.思い描く.男を想う.涙が零れ落ちる.首に巻いたマフラーを濡らす.とめどなく涙があふれて,またマフラーを濡らす.

彼と同じ悲しみを過去に味わったことが,私にはあったのだ.私が中学3年生のころ,同じ部活動に入っていた人と同じクラスになった.その人は私のことが嫌いだった.私も彼が嫌いだったが,興味もないため,悪口を言うことも,必要以上に関わることもなかった.彼は私をいじめた.

私は当時周りにいてくれた人たちが,そばからいなくなることが一等怖かった.私は優しくいようと決意した.私は傷つき,そして他人は,私に優しくされた.それでも,私は本気だった.とてもよく人のことを考えて行動し,笑顔を向け続けた.救われることなど,考えていなかった.

この時の自分を私は,弱い者だと捉えていた.しかし,小説の中でその男は強いと表現されていた.そのことに私は涙をながしたのだろうと思った.若者が故の脆弱性や,人に傷つけられながらも人と親しまなければならない戦い,すり減った精神に少なからず気づき,このままではいけないと思う焦燥感が,すべて一緒になった思い出を,”弱かった自分”として否定することで片づけていた.ただ人を想って一生懸命に生きていた自分を,その男と同じ強い人間だと認めてもいいんじゃないかと,とてもまっすぐに思った.


目の前の樹が揺れ,きらめく.涙が止まる.ほおの跡を拭く.私は歩を進める.

公園内の温室にはさまざまなランやベゴニアが咲き乱れ,珍しい熱帯の草木が生い茂る.外に戻ると葉を落とした樹々が凍える.広場の芝生に寝ころび,夕日を浴びていると音楽が鳴り始め,私は帰途につく.

また,音楽を聴いた.行きのときと同じように穏やかな曲だった.

静かに電車は走り出した.



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ocean eyes 白田 雨 @ame_kasahara

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