泣き虫たちの島

ころっぷ

泣き虫たちの島

          1


2階席から振り下ろされるスポットライトが眩しくて、

視線を彷徨わせている内に舞台最前列の端の席に圭(けい)が座っているのが目に入った。

大きく身体を動かして手拍子をしている。

亜希がフィドルのネックで俺の方にそれを知らせる。

曲はチェコの民謡を亜希がアレンジした舞曲。

6人編成のバンドは打楽器を担当する俺と、

弦楽器を担当する亜希以外のメンバー全員ヨーロッパ出身の演奏家だった。

それぞれがトランペットやコントラバスにチューバ、

アコーディオンやバンジョーなんかを持ち回して演奏する。

所謂東欧を起源とするスラブ民族音楽を現代風にアレンジしたレパートリーで、

俺達は世界中を演奏して回っている。

今日は2年振りの日本でのコンサートだった。

俺がこのバンドに入って世界中をドサ回りする様になったのは、

勿論叔母である亜希の誘いもあっての事だったけれど、

15歳の夏に瀬戸内海の島で過ごしたあの日々が俺にとって、

掛け替えの無い思い出になっていたからだと思う。

水牛の皮を張ったボンゴを初めて指の先で弾いた時、

心臓が飛び出すんじゃないかって程ドキドキした。

陽の落ちた砂浜で火を焚いて、

腰に巻いたストールを翻しフィドルを弾きながら、

クルクルと踊る亜希の演奏に合わせて必死にリズムを取った。

圭もタンバリンを打ち鳴らしながら大声で何かを叫んでいた。

ベビーカーの中の赤ん坊は大きな青い目を見開いて俺達の事を見ていた。

沖から生ぬるい風が吹いてきて、亜希の長い黒髪が踊り、

燃え上がる火の粉が空に飛んだ。

そこだけ時間が止まっているみたいだった。

俺達は顔をクシャクシャにして沢山笑って、沢山泣いた。

あれは人生で一番悲しい夏で、最も美しい夏でもあった。

あれからもう10年の年月が経つ。

今でも太鼓を打ち鳴らす度に、

あの夏の俺達の心臓の確かな鼓動の音を思い出す。

多分一生分の涙を俺達はあの島に置いてきた。

本当に泣き虫だらけの島だった。

そう、俺達のバンドの名前は「プラチーバ」

セルビア語で泣き虫っていう意味だそうだ。


          2


島の待合所で暇を持て余し海を眺めていた俺は、

段々と近付いて来るフェリーの甲板の錆びた鉄柵に寄り掛かかって、

遠くをじっと見ていた亜希の姿に偶然気が付いた。

じいちゃんは売店のおばちゃんとの世間話に夢中だったし、

妹の圭(けい)は道路の向こうでずっと蟻の行列にちょっかいを出していた。

だから瀬戸内を抜ける風に長い髪を揺らしながら、

咥え煙草で島を睨み付けていた亜希の頬に、

大粒の涙がいくつもいくつも流れていたのを見ていたのも俺だけだったのだ。

真っ青な海の上を這うように広がる白い雲が目に眩しい位に光っている。

波は穏やかでフェリーの航跡が長く白い尾を引いていた。

俺はその時、なぜか泣きたい様な悲しい気持ちだった。

抜けるような青い空も何だか白々しく見えた。

大きな汽笛が2回鳴って、見送りの人達と迎えの人達が狭い待合所から船着き場へと出て行った。

外は痛い位の日差しで、蝉の声が喧しく響いていた。

桟橋から待合所に歩いて来る人達は皆、

眩しい太陽を背にしていてその顔が影になってよく見えなかった。

この島にどんな用事で来た人達なのか、俺には全く見当が付かなかった。

その列の一番後ろに大きなスーツケースをガラガラと引きながら、

背中に赤ん坊を背負った亜希がゆっくりと歩いて来るのが見えた。

真っ赤な柄のサングラスをおでこに乗せて、相変わらず煙草を咥えている。

半年前の母親の葬儀で見た時の亜希とは別人の様だ。

あの時は大人しくハンカチを頬に当て、悲しみに打ちひしがれる故人の妹を上手く演じ切っていた。

参列していた親戚達の目は誤魔化せても、俺には分っていた。

亜希の心には悲しみ以上に怒りがあった事を。

それを何とか押し殺そうと何度も斎場の裏に煙草を吸いに消えていた事を。

今、目の前に現れた亜希はまるで戦地から帰還した兵隊の様に見える。

港をぐるりと囲む小高い丘を睨み付け、新たな戦いを前に士気を高めている。

細かい花の刺繍が散りばめられたワンピースに色とりどりのビーズのネックレスを首に下げ、異国の民族衣装の様な出で立ちのその女は、その日誰よりも堂々と島に降り立ったのだった。


          3


その夏、俺と妹の圭は瀬戸内海に浮かぶ人口1000人程の小さな島のじいちゃんの家に預けられていた。

ずっと病を抱えていた母親が若くして死に、大学病院で医師をしている父親は俺達の世話を母親の実家に押し付けた。

俺は高校受験を控えた15歳で、年の離れた妹は8歳だった。

圭には軽度の障害がある。

普通の小学校に通ってはいるが、

周りの子供達に比べると知能の発達が遅れているそうだ。

よく笑う妹だったけど、感情を言葉で伝えるのが苦手だった。

母親は圭を産んで暫くすると、体調を崩してよく床に伏せていた。

よく覚えているのは実家の2階の寝室のベットで、

窓から見える隣の神社の造林を淋し気に眺めている母の横顔だ。

まだ若かった母は自分に降り掛かった不幸よりも、

俺や圭の日々の些細な出来事に感心の全てを注ごうとしていた。

優しくて穏やかな人だったけど、その微笑みが何だか今にも消え入りそうで、

俺はいつも母親の前では押し黙って余り心を開かなかった。

多分、妹の前で強がっていたんだと思う。

本当は寂しくて今にも泣き出しそうなのに、

不機嫌を装って1人になろうとばかりしていた。

あの頃よく学校に行くのにわざと遠回りして、

裏の勝手口から家を出て神社の裏手から出掛けていた。

いつも2階の窓から、母親が俺の背中が見えなくなるまで見送っているのを知っていたからだ。

本人は考えない様にしていても、母親の不幸に対して俺は腸が煮えくり返る様な怒りを覚えていた。

世界とか、神様とか、病気とかに、言い様の無い怒りを感じていた。

でも一番の嫌悪の対象はずっと父親だった。

それは殆ど恨みと言っても良い程に強く激しく憎んでいた。

殆ど家に帰って来ない父親に、別の女性がいる事を知っていたからでもあったけど、あの頃の俺は今考えても可哀相な位に沢山の物を抱えていたのだと思う。

1人で生きるには幼くて、誰かに頼るには生意気過ぎた。

だから遂に母親が死んで、夏休みに瀬戸内海の島に妹と厄介払いされた時は、

内心ほっとする様な気持ちだったのだ。

「こんな何にも無い島に押し込まれて、随分と居心地いいでしょう?」

亜希の待合所での最初の言葉に俺は、心を見透かされている様な居心地の悪さを感じた。

真っ直ぐ人の目を射貫く様に見つめる所は、俺の母親である双子の姉そっくりだった。

そう、母親とその妹の亜希は一卵性双生児というやつで、

顔も体形も生き写しの様によく似ていた。

ただ性格は真逆で、物静かで控えめだった母親と比べると、

亜希の奔放さと気の強さは頑固一徹のじいちゃんですら太刀打ち出来ない位だったらしい。

幼い頃から片時も離れなかった双子の姉妹は、

妹の亜希が音楽の道に進む為に島を出た時に初めて離れ離れになった。

それから母親は直ぐに見合い相手の所に嫁ぎ、やがて俺を産んだ。

この双子の姉妹が再び顔を合わせたのは、

俺が4歳の時にばあちゃんが島で死んだ時の一度きりだったそうだ。

俺はよく覚えてなかったけど、亜希はその頃ヨーロッパ中を放浪していて音楽で生計を立てていたそうだ。

真っ赤な髪の毛を幾筋にも編んだ奇抜なファッションで島に現れた亜希を、

親戚の誰もが口を揃え不良娘と噂した。

それからも世界中を旅して回った双子姉妹の片割れは、

セルビアで年上のバンジョー奏者との間に青い目の娘を授かった。

そして今度は双子の姉を失ったあの年の夏、シングルマザーになっていた亜希は結果として俺の人生を大きく変えてしまう事になるのだった。

今思い出しても強烈な日々だった。

あの頃のむず痒い様な苛立ちだったりが、

どうしてもあの島の風景とセットになっている事に、

大きく関与しているのは間違いなく亜希だった。

あの人は望む望まぬに関わらず、自然と周りの人間に影響を与えてしまう。

そんな星の元に生まれ落ちたとしか言い様の無い人間だった。

じいちゃんの軽トラックの助手席に赤ん坊と一緒に亜希が颯爽と乗り込むと、

フェリーの乗務員の若い男が両手一杯の荷物を抱えて近付いてきた。

「これ、全部亜希さんの荷物です。荷台に乗せますよ」

俺と圭は荷台で亜希の凄まじい量の荷物に取り囲まれる。

スーツケースや旅行鞄の他に、何やら大きな革張りのケースが4つも積み込まれた。

一体どうやって大阪の空港からここまで来たんだろうか。

ましてや背中に赤ん坊まで背負って。

俺は母親と同じ顔のこの得体の知れない女に、改めて警戒する気持ちだった。

カーブが続く山道で、軽トラックの荷台の俺と圭は亜希の荷物が落ちない様に2つも3つも鞄の把手を強く握り締めていた。

じいちゃんは島の反対側の丘の上で養鶏をしている。

何人かの親戚と一緒に畑もやっていた。

赤い大屋根が目印の昔ながらの農家に、

ばあちゃんが死んでからはずっと一人で暮らしてきたのだ。

そんなじいちゃんにとって、あの夏の賑やかさはさぞ特別だったのだろうと今になってみると思ったりもする。

過ぎ去ってしまえば、人生は本当に幻の様に儚いものだ。

俺もその後誰かさんの影響で放浪癖に憑りつかれ、

まるでジプシーの様な生活をずっとしてきたけど、

今でも故郷と言うとあの島の景色が浮かんできてしまう。

たった1か月そこら居ただけだと言うのに。

子供の頃の記憶と言ったら寝たきりの母親の姿か、幼い妹の世話をする為に住み込みで働いていた意地の悪い家政婦の事がまず頭に浮かぶ。

結局俺にとってあの夏の記憶だけが色鮮やかなものだったという事なのかも知れない。

実に騒々しくて、実に煩わしい生活だったとしても。


          4


じいちゃんの家の敷地にはずっと使われていない離れがあった。

古い木造の2階建てで、俺と圭が島に来た時には雨戸が全部降ろされていて中の様子は分らない状態だった。

亜希が島に来た明くる朝早く、俺と圭が使っていた部屋の引き戸が勢いよく開け放たれた。

「優、圭、起きて!何時まで寝てんの、朝だよ」

まだ目覚まし時計が鳴る2時間も前だった。

枕元に目も醒める様な派手なピンクの短パンを穿いた亜希が立っていた。

隣で寝ていた圭も眠そうな目を擦りながら、

亜希のすらりと伸びた足を見上げていた。

「2人共、着替えて外に来な。ほら、早く!起きて」

亜希がパンパンと手を叩きながら布団から2人の子供を追い出した。

こうしている時も亜希の背中には常に赤ん坊が背負われていた。

その背中から赤ん坊は静かに世界を眺めている。

ちっとも泣かず、僅かばかりも叫んだりせず。

思えば泣き虫だらけだったあの島で、

唯一涙を見せなかったのはあの青い目の赤ん坊だけだったかも知れない。

それは随分可笑しな話ではあるけれど。

まだ薄暗い庭で、白いむく毛の犬と咥え煙草の亜希がじゃれ合っていた。

「おお、来た来た。よしそれじゃあ早速ひと仕事やってもらおう。優はこの荷物を離れに運んで。圭は私と一緒に雑巾掛け。雨戸を全部開けて空気を入れ替えてね。分かった?よし掛かれ!」

亜希はそう言うと離れの入口の扉を勢いよく開け放って、

むく毛の犬ごと中に入っていった。

母屋の縁側の所に例の亜希の革張りの大きなケースが並んでいる。

俺は仕方なくその1つを取り敢えず持って離れの中に入っていった。

玄関は土間になっていて梁が剥き出しの天井が吹き抜けになっていた。

黴や埃で中は咽返る様な匂いだった。

バタバタと大きな足音をさせて板張りの廊下を駆けながら亜希が雨戸を開けて回っていた。

次々と光が差し込んできて、外の空気が流れ込んでくるのが分る。

俺も黙々と大きなケースを部屋に運び入れた。

兎に角それが終われば解放されるだろうと思い、

早くやってしまおうと思っていたのだ。

離れの1階部分は土間から一段上がって直ぐに広い畳の居間になっていた。

外された襖が部屋の端に積み上げられていて、かなり広い空間になっていた。

庭に面した廊下は回廊になっていて建物の奥へずっと続いている。

雨戸も硝子戸も開け放たれ、遠くに朝日をキラキラと照り返す海がちらっと見えた。圭は楽しそうに亜希の後を付いて回っていた。

ケースを全て居間に運び終わると、俺は回廊の突き当りに納戸があるのに気が付いた。

くすんだ羽目硝子が付いた木の扉を引くと、

錆び付いた蝶番が悲鳴の様な音を立てた。

その時薄暗い納戸の奥から、微かに風が吹いてきた様に感じた。

そこにあったのは大小様々な、色も形もバラバラの太鼓だった。

「何だ?これ」

俺がその場に立ち尽くしていると、

急に後ろから肩に手を置かれビクっとしてしまった。

「優、これも全部居間に運んでくれる?」

亜希が煙草に火を点けながら言った。

「これ全部?何これ?」

俺は額にうっすらと汗を掻いていた。

「うっわ~、凄い!太鼓がいっぱいだね」

亜希の後ろから圭が嬉しそうに覗き込んできて目を輝かせている。

埃を被ったカラフルな太鼓達が一斉に俺の事を見た様な気がした。

どれも使い込まれている様で皮の所が薄黒くなっていた。

両手がやっと回る様な大きな太鼓や、2つの小さな太鼓が繋がっている物、

平べったい太鼓に、穴の開いた木の箱の様な物もあった。

見た目ほど重く無い物もあれば、意外に重たい物もあった。

学校の音楽室にある様なタンバリンや木琴の小さい物まであった。

「何でこんな沢山、楽器があるの?これどうするの?」

俺は大きな箒を抱えてニヤニヤしながら様子を見ていた亜希に言った。

「優、それ運んだら全部はたきを掛けて拭き上げるんだよ。から拭きでね。圭は畳を水拭き。それが終わったらまた母屋から荷物を運ぶよ」

亜希は居間からむく毛の犬を箒で追い出して、畳の上を丁寧に掃き始めた。

背中の赤ん坊は青い目を見開いて不思議そうに周りを眺めていた。

俺は朝っぱらからこき使われて不機嫌だったが、

太鼓を触っていると何故か心が落ち着いてくる様に感じた。

色とりどりの太鼓が朝の光を浴びて、

新鮮な空気の中で心地良さそうにしている。

「つっめてー。優、サボっちゃだめー」

圭がバケツで雑巾を絞りながら俺に言った。

昨日から圭は随分楽しそうに笑っている。

圭は半年前の母親の葬儀で初めて会った時から亜希に直ぐに懐いた。

他の大人には近付かない様な内向的な性格だったのだが、

母親と同じ顔をした亜希の事は最初から信頼している様子だった。

「優、圭、ちょっとこっち来て」

庭の方から亜希が大声で呼ぶ声がした。

外に出るといつの間にか軽トラックが止まっていて、

タンクトップの若い男が何やら大きな物を荷台から降ろしていた。

「これ運ぶから手伝って、ほら優、こっち持って」

それは大きな絨毯だった。分厚くてとても重い。

亜希と圭も間に入って4人で肩に担いで何とか離れの居間に運んだ。

「はい、ここにダーっと敷いて。そうそう。その上に太鼓並べてねー。そうそう」

亜希の指示で謎の作業が着々と進んでいく。

若い男は手際よく銀色のスタンドを組み立てて、

それぞれ大きな太鼓や2つが繋がった太鼓や金属の円盤の様な物を取り付けていった。

亜希は俺が運んだ大きなケースを開けて中からまた色んな楽器を取り出した。

それは俺も知っている様なヴァイオリンや木製のギターやそれより少し小さなやっぱりギターの様な物だった。

若い男は更にトラックからよく分らない機械を幾つか運び入れて、

沢山のコードでそれぞれを繋いでいった。

黙々と何も言わず作業をするその男の腕や肩に、

外国の文字や花の模様の入れ墨が沢山あるのを、

俺はチラチラと盗み見ていた。

「よし、大体終わったね!ご苦労様でした!真守もありがとうね!後で店に寄るから皆にも宜しく言っといて」

亜希がそう言うと、男は軽く会釈して足早に去っていった。

「これ何て言うの?」

圭がヴァイオリンを指差して亜希に聞いた。

「それはフィドル、ヴァイオリンとも言うね。ほらこの弓でね、ここん所をこうやって擦ると・・」

亜希が茶色く磨き上げられた楽器をひょいと手にして糸の張られた棒をゆっくりと動かす。

その時居間に響き渡った低く透き通った様な音を、

俺はその後もずっと忘れる事が出来なかった。

亜希の手が棒を左右に動かす度に、遠くから誰かが呼んでいる様な音が響いて来た。

消え入りそうな声だったり、力強い声だったり。

寂しそうに聞こえれば、すぐに楽しそうになったりした。

それは俺にとって生まれて初めての、楽器が震わせた空気の圧を全身で受け止めた瞬間だった。

俺は言葉にならない感情というやつを、

多分その時初めて知ったんだと思う。

それは結局10年経った今でも、俺の心を掴んで離していなかった。


          5


その日から夏休みが終わるまで、

俺と圭は亜希の壮大な計画に巻き込まれる事になる。

あの時の亜希が色々と大変な事情を抱えていた事はずっと後になってから知ったが、15歳の俺とまだ8歳だった圭には勿論そんな事は知る由も無かった。

俺は人並みの思春期に母親を失ったばかりの怒りや悲しみが輪を掛けていたし、

妹の圭にも人には理解され難い苦しみやもどかしさがきっとあったはずだ。

でもあの時の亜希は、それを決して上から抑えつけようとしたり、

無理に方向を変えようとはしなかった。

学校の教師や同級生や実の父親がそうした様に、

俺達の気持ちを分かった様な振りもしなかった。

亜希はがさつで無神経で強引な人間だったけれど、

双子の姉である俺達の母親と同じ目で俺達の事を見ていた。

「よし、腹も一杯になった所で早速始めるぞ!」

じいちゃんが鍋いっぱいのお湯で茹でた素麺をお昼に皆で食べた後に、

赤ん坊をリュックの様に勢いよく背負って亜希が大きな声で言った。

「はじめるぞー!」

圭もタンバリンを手に持って大きな声を上げる。

亜希は圭に大きなリボンの付いた麦わら帽子を被せ、

背中の赤ん坊にも日除けの布を被せた。

庭ではむく毛の犬が張り切って吠えたが、

亜希の蹴りを食らって慌てて逃げ出した。

雲の無い青空から容赦なく陽が降り注ぐ。

遠くの海を昨日亜希が乗ってきたフェリーが横切っていくのが見える。

生ぬるい風に縁側の軒先に吊るされた風鈴がチリンと音を立てた。

目を閉じるとここが何処で、今が何時なのか忘れてしまいそうだと思った。

その頃の俺はいつも眠たくて、何を考えるでもなくただぼーっと過ぎる時間を眺めていた。

「優!ほら行くよ!これ持って付いてきな!!」

はっとして目を開けると、大きなラジカセの様な機械を持った亜希が俺に叫んでいた。

今度は一体何を始めるんだろうか。

俺は面倒臭いという振りをしながらも、

実は興味津々の自分に気が付いていた。

わざとらしくゆっくりと帽子を被って縁側からサンダルを履いて庭に降りる俺を見て、素麺の器を片付けていたじいちゃんが何か言いたそうな顔で微笑んでいた。

今思えばじいちゃんはずっと1人であの島に暮らしていたのだ。

亜希がどんなに喧しくても、じいちゃんが煩わしく感じる事は無かったんだろうと思う。

世話を焼かなければならない人間が突然増えて、

じいちゃんの生活は大きく変わっただろうけど、

あの夏のじいちゃんの顔は常にどこか満足げだったのを覚えている。

亜希はサンダルを引き摺りながら近付いてきた俺の肩に、

ラジカセの様な機械をベルトで担がせた。

「何?これ!」

重い機械を持たされて心外である旨を亜希に伝える為に俺は語気を強める。

そんなどこか人に甘えた様な態度を取るのも、随分久し振りな様に感じた。

「それはDATっていうの。音を録音する機械。結構高いやつだから落とさないでね。そんでこのマイクで音を拾うの」

亜希が黒い棒の先にスポンジを被せた物を圭に手渡した。

「圭、何でも良いから自分が好きな音を見つけて、これをこうやってその音に向けてみて。優がこの機械でそれを録音するからね。出来るだけ色んな音を集めて。この島中の面白い音を全部この中に閉じ込めていくんだよ」

亜希の言葉をじっと聞いている内に、

どんどん圭の目が大きく見開かれていくのを俺は横で見ていた。

興味のある事にはいつも時間を忘れてのめり込んでしまう圭にとって、

それは人生で初めて与えられた大事な役目になった。

好きな音を集める。

圭にとってこれ以上に魅力的な言葉はこの世に存在しなかっただろう。

肩を怒らせ、鼻を膨らませ、圭はマイクを持っていきなり駆け出した。

俺の持っていた機械に繋がれていたケーブルが勢いよくぶち抜かれ、

圭はそれを引き摺りながら家の前の坂を走っていってしまった。

「圭!待って!優と一緒に集めるんだよ!」

慌てて追い掛ける亜希の後を俺も仕方なく追った。

サンダルで歩きにくい坂道。遠くで吠えるむく毛の犬の声。

高い空を飛行機が雲を引いて通り過ぎていった。


          6


俺達の島の生活は急に忙しくなった。

マイクを持った圭の後を俺は毎日必死に追い掛ける羽目になった。

森に分け入り、浜を駆け回り、人の家の庭にも躊躇無く入っていく圭の背中を俺は見続けた。

思いのままにマイクを向け目を閉じる圭の横で、

俺はヘッドフォンから聞こえてくる葉が風に揺れる音や、

虫が幹を這う音を聞いた。

浜の波音を半日聞き、川のせせらぎ、雨音、遠くを走るバイクの音、

隣近所の老人達の独り言まで録音した。

俺達は毎日朝から晩まで島中を駆け回り、

60分テープはすぐにいっぱいになってしまった。

俺達が黒いケーブルで繋がれた奇妙な2人組として島の噂になっている頃、

亜希は離れの1階に籠りっきりになっていた。

そして例の入れ墨の男がほぼ毎日出入りしていた。

俺達が覗きに行ったりすると直ぐに亜希に追い出された。

昼から雨戸を締め切って、中から鍵を掛けて、怪しい事この上ない。

じいちゃんは何も言わず、知らん顔で毎日畑と養鶏場を行き来していた。

何となく居心地の悪さを感じ始めていた。

俺は小さい頃から人一倍敏感だったので、

突然帰郷した訳あり子持ちの亜希と、

入れ墨男の噂がちらほらと周りから聞こえ始めると、

直ぐに心を閉ざして録音機を投げ出してしまった。

俺はその頃人生で最も神経が尖っていたのだと思う。

特に大人の事情というやつに必要以上に過敏だった。

あの日、圭が1人でマイクだけ持って家を飛び出していっても、

俺は見て見ぬ振りをして不貞腐れた様に自分の部屋で漫画を読んだりしていた。

そして日が暮れてじいちゃんが養鶏場から戻ってきた時に、

まだ圭が帰って来てない事にやっと気が付いたのだった。

じいちゃんは俺の顔をじっと見て、

それから何も言わず軽トラックに乗り込んで坂道を下って行った。

俺は直ぐに離れの扉を叩き、出てきた亜希に事情を話した。

亜希もまた俺の顔をじっと見たが、

その目は怒っているというよりも少し悲し気だった様に思う。

それは俺達の母親である双子の姉にそっくりの表情だった。

「分かった。私は駐在さんを呼んできて近所の家を一緒に回るから。優はここで赤ちゃんの事見てて。真守は悪いけど裏山の方とか探してくれる?」

亜希は背負っていた青い目の赤ん坊を俺におぶわせた。

俺は肩に感じるその重みを今でも憶えている。

亜希が走って行ってしまうと、入れ墨の男も離れから出て行こうとした。

俺は急に不安になって気が付くとその男の腕を掴んでいた。

「あの・・・・俺も行きます。圭が行きそうな所、俺なら分るかも知れないから。お願いします」

俺は男の顔をまともに見られなかった。

自分の責任を感じてしょげる気持ちと、

その男に対する快くない気持ちとが態度に出ていたのだと思う。

それでも何も言って来ない男の顔を恐る恐る見上げると、

男は手の平を俺の顔の前に広げ、

もう一方の手で離れの部屋の中を指差した。

口元が何か言いたそうにもごもごしているが、言葉が出て来ない。

そして眉間に皺を寄せた男はズボンのポケットから紙とペンを取り出した。

何かを手早く書き終えると、無造作に俺に渡してきた。

「懐中電灯を貸してくれ、一緒に行こう」

そこにはそう書かれていた。男は自分の耳に手を当てて首を横に振った。

俺はその時やっとその男の耳が聞こえない事に気が付いた。


          7


森の入口辺りに圭の持っていたマイクが落ちていた。

俺は懐中電灯を振り回して

大声で圭の名前を呼んだ。暗い森の中は信じられない位に静かだった。

マイクで集めた音をヘッドフォンで聞く事にいつの間にか慣れていた俺は、

意識しなければ音は聞こえて来ないのだと知った。

そして音は自分がどこにいるのかを知る為にも必要である事も知った。

森はただ静かに、俺達に関係無くそこにあった。

音の無い世界で生きているこの若い男は、

こんな不安を常に感じているのかと思った。

生まれつきなのか、そうでは無いのか。俺はその時、

圭の目で見た世界もきっと俺のとは違うのだろうと思った。

俺は幼い妹の何を知っているつもりになっていたんだろう。

まだ圭が赤ん坊だった頃、脳に小さな腫瘍が見つかった。

それは放っておくと段々と大きくなり、

脳の発育に影響を与えると診断された。

母親は直ぐに手術を希望したが父親が反対した。

自分が医師であるが故に、色んな治療の可能性を模索する事が結果としてリスクを取る決断を鈍らせた。

当時の俺には勿論そんな事は分らないから、

もっと早く手術をしていれば圭の脳に障害が残る事はなかったという担当医の言葉で父親に不信感を抱く事になった。

その事がきっかけになって俺は聞きたくない事には耳を塞ぐ様になっていったのだと思う。

そして落ちにくい油汚れの様に、その不信感はずっと消えずに残ってしまった。

今思えば、あの頃から両親の間の空気も変わっていった様に思う。

母親は決して夫を責めなかったが、

俺はそんな母親にも言い様の無い不満を感じてしまっていた。

それは母親が死ぬその時まで結局変わる事が無かった。

気付くと俺は声を上げて泣いていた。

肩を震わせ大きな声を上げた。

静かな森に俺の不格好な泣き声が響く。

俺はどうしてあの時母親を許してやれなかったのか、

情けなくて悔しくて涙が次から次へと出てきた。

遂に膝を付いてしまった俺の肩を、男の大きな手が揺すっている。

はっとして顔を上げると男が少し先の茂みを指差していた。

俺が慌てて懐中電灯でその辺りを照らすと、

灌木の間に圭が朝着ていた服の裾が見えた。

「圭!」

俺達が近付くと、圭はぐったりとした様子で木の根方に倒れ込んでいた。

「圭!大丈夫か!?おい!」

俺が圭の肩を抱き起こそうとすると男がそれを止めた。

男は圭の首筋に指を当て、もう一方の掌を口元にかざした。

軽く圭の頬を叩き反応を見ている。

俺はその様子をただ横で見ている事しか出来なかった。

男は更に持ってきていたペットボトルの水を圭の口元に注いだ。

首筋にも水を掛けていると圭がゆっくりと目を開けた。

「圭!しっかりしろ!俺だ!分るか?」

俺はまた自然と溢れてきた涙を隠そうともしなかった。

泥と汗と涙でぐちゃぐちゃになった俺の顔を見て、

圭はその時確かに少し笑っていた。


          8


病院から戻ってきた圭を母屋の寝室に寝かし付けると、

亜希は俺を離れの2階に連れて行った。

狭い階段には裸電球が1つ頼りなく揺れていて、

部屋といってもそこは屋根裏の様な梁と柱が剥き出しの板間だった。

そこには大きな本棚が壁の様にそびえ立っていた。

そして小さな明り取りの窓の前に古いオルガンが置いてあった。

「ここは私とあなたのお母さんの秘密基地なの」

亜希は少し疲れた声で、いつになく優しくそう言った。

俺は何だかバツが悪い様な気持ちで、

まともに亜希の顔を見る事が出来なかった。

「私達はここで18歳まで一緒に育った。2人共音楽が大好きでね。ほらここにあるのは全部集めたレコード」

本棚にはびっしりと紙ジャケットのレコードが並んでいた。

亜希はそのレコードを懐かしそうに引き出しては眺めていた。

俺はその時何でこんな事を今話すんだろうと思っていた。

亜希は俺の事を怒っていないのだろうか。

そんな事ばかりが気になっていた。

「私達はね。双子だったから。離れていてもね。相手の事が何となく分かったの。本当よ。私が音楽やる為に上京して、そのまま外国行っちゃってもね。お姉ちゃんが何を考えてるかが分かったの。それってね、不思議に思うかも知れないけど私達には普通の事だった」

亜希は部屋の隅からダンボール箱を持ってきた。

「これ開けてみて」

亜希はそう言ってその箱を俺の前に静かに置いた。

蓋を開けてみると中には古そうなテープが沢山入っていた。

それはあの録音機の中に入っていたテープと同じ物だった。

「それは私とお姉ちゃんで集めたこの島の音。それと私が外国で集めた音をここに送り続けていたテープと・・・・お姉ちゃんが死ぬまでに集めた大切な音」

亜希が箱の中から1つのテープを取り出した。

それをあの大きなラジカセの様な録音機にセットすると俺にヘッドフォンを放り投げた。

「あなたの事を何よりも大切だと思っていたお姉ちゃんが残した音だよ。聞いて」

俺は震える手でヘッドフォンを耳に当てた。

亜希は優しい目で俺を見ていた。

目を閉じてゆっくりと息を吐いた。

テープが回り出して、俺はどこか遠くに意識が運ばれていく様な気がした。

今がいつで、ここが何処なのか感覚が無くなっていく。

体が浮いている様だった。

耳の奥に音が届いた。

どこか家の中の様だ。

遠くで車が通り過ぎる音や、鳥のさえずりが聞こえてきた。

ヘリコプターだろうか。

遠くから近付いてきてやがて離れていくのが分かった。

突然大きな音。ドアが無造作に閉められる音だ。

かなり近くで聞こえた。階段を誰かが掛け降りていく音がその後に続く。

よく聞き取れないが誰かの話し声が遠くで暫く続く。

そしてテレビのニュースの音。アナウンサーが時刻を告げている。

別の方向から子供の大きな声。それに何か返事をする声。

まだ声変わりしていない男の子の声だ。

ずっと誰かの呼吸する音がする。穏やかに吐く息と、懸命に吸う息。

衣擦れの音。ベットが軋む音。

やがてまた遠くの方で無造作にドアが閉まる大きな音。

するとすぐに窓を開ける音が近くで聞こえた。

鳥のさえずりが大きくなる。

風に揺れる木の葉の音。

その風の匂いが耳から伝わる。


その時、はっきりと聞き覚えのある声が突然聞こえた。

「いってらっしゃい。気を付けてね。優」

それはこの世で一番優しい母親の声だった。


          9


次の日の朝、圭は何事も無かった様に布団から跳ね起きて離れに走っていった。

俺も慌てて後を追い掛ける。

庭に出ると見覚えのある軽トラックが止まっていて、

運転席には真守が座っていた。

「おはよー」

圭が真守に向かって大きな声で言った。

俺は運転席の方に向かって深くお辞儀をした。

顔を上げると真守は笑って煙草を挟んだ手を上げてくれた。

むく毛の白い犬と圭が一斉に離れに入って行った。

間髪入れずに亜希の怒鳴り声が聞こえてきてむく毛の犬が蹴り出された。

圭もマイクを持って走り出てきた。

「優、ちょっと来てー」

中から亜希の声がした。真守も車から降りて一緒に離れに歩いていった。

「おお、真守も来たね。お早う。2人でさぁ、ちょっとこれ運んで。真守のトラックに。それと優は録音機も忘れずにね。今日は天気も最高だし、浜に行こう」

亜希は赤い柄のサングラスを掛けてピンクの短パンに咥え煙草。

更に今日は缶ビールを片手に勿論背中には青い目の赤ん坊をリュックの様に背負っている。

俺と真守は呆気に取られて顔を見合わせ、そして同時に笑った。

それから次々と亜希の指示通りに楽器やレコードやレコードプレーヤーや缶ビールやらをトラックに積み込んだ。

真守と亜希が前の座席を占領し、

俺と圭は荷台でまた沢山の荷物が落ちない様に監視した。

その日も雲1つ無い青空で、日差しがじりじりと腕や首筋を焼いた。

トラックは海辺の道をゆっくりと進み、やがて誰もいない浜に着いた。

大きく迫り出した岩場に挟まれた波の穏やかな小さな砂浜だった。

亜希は荷台から薄くて軽そうな絨毯と大きなパラソルを出して、

浜に素早く設置した。

車から飛び降りた圭はもう走って波打ち際でマイクを構えている。

俺は真守が楽器を降ろすのを手伝ってから、

ゆっくりと録音機にテープをセットして圭のいる方へ歩いていった。

圭はマイクを砂浜に突き刺すと、勢い良く波間に駆け出した。

その時ヘッドフォン越しに聞こえた圭の声には、

恐れや不安など微塵も混じっていなかった。

俺達は思いっ切り泳いで、浜で昼寝してまた泳いだ。

亜希と真守は古いレコードを掛けて、ビールを飲んで、笑っていた。

「これはね、ビートルズっていう4人組なの。お姉ちゃんが一番好きだった昔のバンド。イギリスのバンドだからね、あんた達の名前、ほら優と圭。2人合わせてUKってイギリスの事なんだってよ」

亜希は楽しそうによく喋った。

俺は改めて真守に礼を言った。

真守は俺の顔をじっと見て、何度も優しく頷いてくれた。

相手の口の動きで何を言っているのかが分るらしい。

ポケットから出したメモに真守は何かを書いて俺に素早く渡した。

後でこっそりそれを見たら、

「友達になろう」

と短く書かれていた。

あっという間に日が傾いて波間に一直線の夕陽の道が伸びた。

圭は膝まで海に入っていって夕陽にずっとマイクを向けていた。

真守がトラックから木材を運んできて火を熾した。

手慣れた仕草で瞬く間にパチパチという子気味良い音が辺りに響いた。

火の粉が風に踊る。

俺はこの島に来て初めて余計な事を頭から追い出せている様な気がした。

目まぐるしく形を変える火をじっと見ていて、

空っぽになっていく事の心地良さを感じていた。

「よし、本日のメインイベント!」

亜希が突然立ち上がる。

それを合図に真守もトラックの方に何かを取りに行った。

圭はベビーカーの中の青い目の赤ん坊にマイクを向けていた。

録音機の中ではずっと静かにテープが回っている。

俺は叶う訳無いと知りながら、

ずっと今日という日が続けばいいのにと思った。

「さあ、始めるよ。圭、しっかりと録音してね」

亜希がいつの間にか海を背にフィドルを構えていた。

夕陽が水平線に沈むその間際、遠くの海は群青色と朱色が溶けあっていた。

亜希の右手に握られた弓がフィドルの弦を叩くと、

短い足音の様に辺りに響いた。段々とその足音は強くなり近付いてくる。

そして弓をゆっくり引くと、透き通った歌声が浜を包み込んでいった。

亜希の手が左右に動く度に地面ごと揺れ動く様だ。

亜希の腰に巻かれたストールが風にたなびいて旗の様に見える。

段々と歌声のテンポが上がってきて、

亜希の右手は鋸で何かを切っているかの様。

全身を激しく揺さ振って音を出来るだけ遠くに飛ばそうとしている。

長い髪を振り乱し、亜希は火の粉の向こうから俺の目をじっと見ていた。

俺は指一本動かすことが出来なかった。

圭は真剣な顔でマイクを亜希に向けていた。

青い目の赤ん坊はその小さな手を音の方へ伸ばしていた。

すると突然後ろから太鼓の音がした。

振り返ると大きな筒の太鼓と二つの小さな太鼓が繋がった物の後ろに真守が立っていた。

真守が右手を上げると亜希のフィドルの歌声が止む。

そして真守は激しく両手を小さな太鼓に打ちつけ、

体を大きく上下に揺らしながら、けたたましい歌声を島中に届く様な勢いで鳴らす。そのリズムに合わせて亜希がまた弓を動かす。

2人の歌声が合わさった瞬間、止まっていた時間が動き出した様に感じた。

俺も気が付けば音に合わせて膝を打っている。

体が自然と動き出す。

圭は何処から持ってきたのか、

タンバリンを打ちながらクルクルと回り出した。

亜希もサンダルで砂を巻き上げながら激しく回る。

真守の叩く大きな太鼓の音を海が跳ね返してくる。

俺は夢を見ている様な気持ちだった。

音と星空と火の揺らめきが、この世のものとは思えない調和を見せていた。

気が付くと俺も立ち上がって亜希と圭と一緒にクルクルと回っていた。

足を強く踏み鳴らし、膝を高く上げ、声を上げて笑った。

真守も口を大きく開けて笑っている。

皆笑いながら、思いっ切り泣いていた。

意味も無く、理由も無く、誰の為でも無く、ただずっと涙を流した。

目の前の風景が透き通っていくみたいに感じた。

真守が俺に大きく手招きしている。

俺は涙も拭かずに真守の隣に立つと、

互いに大きく頷いてから大きく腕を振り降ろした。

その瞬間ボンゴに張られた水牛の皮が、

生涯で最高の音を俺に返してくれた。


          10


「優、3曲目のボンゴの出だしの所、タイミングが半拍早かったよ」

コンサートが終わったその夜、俺と亜希と圭は久し振りに3人でご飯を食べに来ていた。

誰も気が付かない様なパーカッションの音のズレを指摘したのは圭だ。

「確かに、優のいつもの癖だよね、悪癖」

亜希が赤ワインを飲みながら嬉しそうに笑った。

「そんな細かい所気にするのはお前ぐらいだよ。いいんだよボンゴはパッションだから」

俺はそう答えたが、内心圭の耳の良さにはいつも驚かされていた。

圭は今年の春、大学生になった。

小さい頃、知能の発達が遅れていると医者に言われた圭は、

地元の女子高をトップで卒業し奨学特待生として上京してきた。

「圭、入学おめでとう。高校中退の不良ミュージシャン2人からプレゼント」

亜希がテーブルの下から1枚のCDを取り出して圭に渡した。

「新しいアルバム?完成したの!?」

圭がパンを口に頬張りながら大声を上げた。

そして目を見開いて手を叩く。

圭は少しも変わっていなかった。

好きな物を鼻先にぶら下げられるとそのままどこまでも走っていってしまいそうだ。

「おい、圭、マイク持って走り出すなよ。ここは田舎じゃないんだからな」

俺がふざけて言った。

「あははは、本当、圭マイク持って海に飛び込んじゃったもんね」

亜希も楽しそうに笑う。

「もう、子供の頃の話でしょ!私もう大学生よ」

圭は鼻を膨らませながら、手の中のCDをじっと見つめていた。

そのジャケットにはあの島の風景。

あの離れの2階の母親の宝箱から見つかった古いフィルムを

ロンドンで現像したらその写真が混じっていたのだ。

丘の上のじいちゃんの家から、

夏の太陽をキラキラと反射して光る遠くの瀬戸内海を写した1枚の写真。

俺達の母親が、そして亜希の双子の姉が愛した風景だ。

「まだ発売前の特別バージョンだぞ。お前の好きな音を集めた特製テープだ」

俺が得意げに言った。

顔をゆっくりと上げた圭はありったけの笑顔を見せた。

そしてごく当然の様に、その頬に大粒の涙を流した。

圭は相変わらず泣き虫だ。

俺はそれを見て安心した。


          完

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泣き虫たちの島 ころっぷ @korrop

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