エアプ『キングダム』

@soccya

咸陽攻防戦

 紀元前244年(始皇帝の即位から3年)、趙(ちょう)将軍・李牧(りぼく)は趙国北部にある山岳地帯から攻め入る「匈奴(きょうど)」と呼ばれる民族と戦っていた。


 匈奴の規模は10万にも及び長期化すると思われたが


「報告! 匈奴の総大将を討ったとの知らせが届きました!」

「予定通りです。可能な限り匈奴を捕虜にし、私たちの味方につけるよう各所に命じてください」


 趙国の兵士が李牧に勝報を伝えると、李牧はさも当然と言った態度で趙兵に命令した。


「私たちが次に狙うのは隣国・秦(しん)の首都・咸陽(かんよう)です。すぐに移動しますよ。騎馬隊は私に付いて来てください」


 李牧はそう言い、自身を含めた騎馬隊を秦国に向けて走らせる。


 春秋戦国時代末期の中華では、当然だが現代のような戦車やヘリコプターといった軍事兵器は存在しない。このため戦争の主力となるのは自分の足で戦場を回る歩兵または馬に跨り戦場を駆ける騎馬隊だが、侵攻速度が速いのは騎馬隊であった。


 また、匈奴との戦いの直後なため歩兵の体力は回復しきっておらず、歩兵を待ちながら咸陽に侵攻しようとしても、咸陽側にこちらの侵攻への対策の隙を与えてしまう。このため李牧は匈奴との戦いでは最初から騎馬隊を最小限にしか用いず、歩兵を中心に戦わせていた。


 さらに李牧は、趙は匈奴と戦っていると咸陽に錯覚を続けさせるため、情報封鎖を行なっていた。匈奴との戦いが終結したことで、李牧の次の一手である咸陽への侵攻がバレないように立ち回る必要があり、歩兵を休ませ余裕をもって咸陽侵攻を進めるつもりはなかった。


 とにかく咸陽を落とすには騎馬隊の機動力と、侵攻中に加勢してくれるであろう匈奴の騎馬軍勢という二つの勢力、さらに咸陽に対策を練らせない侵攻速度が必要だったのである。


 李牧の騎馬隊は、山々に囲まれた秦国の国境を易々と突破し、首都・咸陽で秦の兵士を中心に蹂躙しようとしていた。


 だが、李牧には大きな誤算があった。


 咸陽には明らかに「平地の武将としては不釣り合い」な仮面を被った蛮族がそこに居たのだ。


「何故だ!? 山の民がどうしてここに!?」

「お前たちが倒した匈奴は既に私たちの味方だった。それを殺されて黙って見ていると思ったのか?」


 李牧は、秦国の山岳地帯に棲む山の民と呼ばれた軍勢の中にあった声の主に目を向けた。


 声の主は被り物を取ると、平地の人間に勝るとも劣らない美女だったが、山の民の軍勢にとって彼女のこの動作は「檄」そのものであったようだ。


 「仲間を討った趙軍を倒せ!」


 美女の檄とともに山の民の軍勢が趙軍の身体を野球の要領で撥ね飛ばし、その猛攻を李牧は止められなかった。


 そして多勢に無勢だった李牧の前に、山の民とは別に「明らかに平地の武将」と呼べる男が姿を見せた。


 「お前は昌平君! 全てはあなたの計画だったのですか!」

 「その通りだ。情報封鎖をしたつもりだったのだろうが、我々秦国と山の民、さらに匈奴は以前から極秘裏に同盟を結んでいた。今の秦国に趙軍を止められる将軍は居ない。そうなればお前たちにとって秦を潰す絶好の機会だ。だから乗ると確信していた」


 敗色濃厚を悟り苦渋の表情を浮かべた李牧に、端正な顔たちの美男子である昌平君は涼しい顔で説明した。


 まず、李牧は匈奴と山の民が極秘裏に同盟を結んでいたことを知らなかった。これにより「山の民と匈奴の連合軍が、李牧が戦っていた元々の相手」だったことを把握できていなかった上、匈奴を捕虜にする指示を出したことで、匈奴全体としての被害を最小限に抑えてしまった。


 次に、李牧は山の民と秦国が同盟を結んでいたことも知らなかった。山の民は趙国と匈奴との関係と異なり、秦国と戦争状態とまではいかなかったものの、400年間にわたり国交が断絶されていた。ところが最近秦国で即位した始皇帝が山の民との国交を回復し、同盟を結んでいた。

 

 そして最後に、李牧は上記の話が情報封鎖によって秘匿されていたのも知らず、咸陽に居る兵数を見誤り、李牧は敗れる結果となった。


 「馬陽(ばよう)を攻めていればこんなことには……」

 「報告が入った。馬陽の戦いで王騎(おうき)将軍が龐煖(ほうけん)を討ったそうだ」


 李牧はさらなる地獄へ突き落された。


 この咸陽侵攻で秦国に将軍が居ないと李牧が確信していた理由はもう一つあり、趙軍は龐煖を総大将として、趙と秦国の国境に位置する「馬陽」と呼ばれる地域に侵攻していたのである。ところが秦の王騎将軍と戦うも、龐煖は敗れた。


 つまりこの時、2つの戦いで趙軍の敗北が決したのである。


 さらに言えば、李牧と龐煖は当時の趙国を担う大将軍でもあったため、趙国は国防の要と言える人材を失ったことで、数年後に趙国は滅亡したのだった。



 後に秦国の兵士が年が明ける前の寒い時期にある軍略家から聞いた話では


「まず山の民を味方につけ、さらに匈奴を味方にすれば、趙は山岳と平地で秦に挟み込まれる形になるため、趙兵がジリ貧になっている邯鄲を簡単に攻略できるだろう」


 と。

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