和凧のストラップ

カミーネ

和凧のストラップ

「あっ」

 思わず、僕は声を上げていた。

 直径一メートルほどはある大きな和凧が、冬の澄んだ青空の中で強い風に流されていた。

 やがて、ほんの数秒間だけ風が止んだ。その間に、凧はまるで力を失ったかのようにヒラヒラと落ちていった――奈良の大仏ほどの高さがある木の中腹に。

 それから、再び風が吹き始めた。しかし、凧が再び舞い上がる気配はなかった。

 サッカーコート一面ほどの広さがありそうな芝生の真ん中から、小学校高学年くらいの女の子が僕のほうに走って近づいてくるのが見えた。

 地面を打ち付ける、規則的で軽やかな足音。

 肩の辺りで切りそろえられたつややかな黒髪。

 黄色のライトダウンに、グレーのズボン姿は、まるで町内会のパトロール着のようだった。

「……はぁ……はぁ……あの、お兄さん!」

 その子は息を整えると、何かを思い出したかのように反射的に顔を上げて言葉を発した。

「な、何?」

 僕にはほんの一瞬だけだけど、女の子の姿が実際よりも一回り大きく見えたような気がした。

 女の子は一度深呼吸した末、一気に感情を吐き出すようにして言った。

「木に凧が引っかかってしまったんです。取りたいんですけど、私だと無理そうで……」

 女の子の瞳は、うっすらと水の膜が張っているように、僕には見えた。どうやら、よっぽど大事な物らしい。

 僕は凧が引っかかっている木をじっと見つめた。

 地面からそう高くない場所に枝が伸びているようだった。

――あれなら、僕でも取れる。僕はそう確信した。

「わかった。僕が取ってあげる」

 念のため腕時計で時刻を確認してから、僕は言った。

「えっ……ほ、本当ですか? ありがとうございます!」

 女の子の潤んだ瞳が、一気にキラリと光ったかのように僕には見えた。

「いやいや。ちょっと待ってて」

 女の子は首をブンブン横に振った。

「いえ、私も行きます!」

「ん、わかった」

 そうして、僕は女の子の走るスピードに合わせるようにして、木の下へと向かった。

 近づいてみると、木は遠目で見た以上に縦にも横にも壮大だった。

 ただ、足をかけられそうな枝が多いという僕の見立ては正解だった。

「よし。じゃあ登るね」

「あ、あの、気を付けて下さいね」

 女の子の声が少し震えているように、僕には聞こえた。

「うん。わかった」

 僕は地面から最も低い位置にある枝に右足をかけた。

 葉は茂っているものの、中に入って周りの景色が判別できないほどではなかった。

 僕が凧の所にたどり着くまで、カップうどんの待ち時間程度しかかからなかった。

 凧は枝の端のほうに、ある意味上手く引っかかっていた。

「じゃあ、これから取るね」

「はい。お願いします」

 数メートル下に女の子が見えた。その顔はどこか落ち着かなさそうだった。

 僕は凧を壊さないように、絡まった糸を慎重にほどいていった。

 五分ほど経ったころ、絡みが完全にほどけ、凧は地上にヒラヒラと舞い降りていった。

「ありがとうございます!」

 下から、女の子の声が聞こえた。その声は、大切な宝物を見つけたかのように嬉しそうに聞こえた。

 僕は落下に注意しながら木を降りていき、無事降りることに成功した。

 降りた僕を迎えたのは、凧を手に持つ女の子の弾けるような笑顔だった。

 その凧に文字が書いてあることに気付いたのは、その時だった。

『お父さん、私を育ててくれてありがとう』

「お兄さん! あの、良かったらですけど……これ、もらって下さい」

 女の子はズボンのポケットに白い手を突っ込み、何かを取り出した。

 ストラップだった。それには和凧の飾りが付いていた。

「えっ、もらっていいの?」

「もちろん、いいですよ」

「わかった、せっかくだからもらうね。ありがとう」

 僕は女の子の手からストラップを手にそっと取った。

 一瞬だけ触れたその手は、雪のようにひんやりとしていた。

「じ、じゃあそろそろ行くね」

 僕は女の子に向かって出来る限りの笑顔を浮かべたのち、冬の公園を後にした。




 それから、五年の歳月が流れた、一月のとある日のこと。

 僕は紺のジャケットをせっせと脱ごうとして、ズボンのポケットの違和感に気付いた。

 慌ててポケットに手を突っ込んだ。けれど『それ』は綺麗さっぱりなくなっていた。

――スマホ――もしかして、落としたか――。

 僕はジャケットのポケットの中やバッグの中も注意深く確認した。

 けれど、スマホは蒸発してしまったかのように消えていた。

 僕は明かりもないトンネルに突入したような気分になった。

 狙っている企業の面接を受けたのが、つい数日前のこと。

 自分の中では一番の振る舞いが出来た自信があった。

 だから今回で就活にケリを付けられるんじゃないかと思っていた。

 もし、今企業から重要な連絡が入っていたら、どうしようもない。

「……はぁ」

 僕はジャケットを手早く着直し、革靴に足を突っ込んだ。そして一月の寒空の下に飛び出した。

 僕を冷やかすかのように、冷たい北風が全身に吹き付けた。

 途中、自販機のホットコーヒーをぐびぐび飲んだ。

 最寄りの交番に到着したのは、午後三時過ぎだった。

 僕は生まれて初めて、遺失届を出した。

 書き終えてから、当直の男性警察官に「よろしくお願いします」と伝えて交番を出ようとした。そのときだった。

「あの、すみません。スマホを拾いました」

 スマホを左手に持った、高校生くらいの女の子と、僕がばったり鉢合わせた。

 思わず女の子が左手に持ったスマホを凝視した。和凧のストラップ――九九パーセント、僕のスマホで間違いなかった。

「あ、あの……そのスマホ……」

「……えっ?」

 その子は僕の顔をまじまじと見つめた。そして、目と口を丸く開けた。

「……ひょっとして……あのときの……」

「どうされましたか?」

 警察官がその子に声をかけた。

「あ、いえ……何でも……拾得届を書きたいんですが……」

 僕は少しの間、二人のやり取りをぼうっと見ていることしか出来なかった。

 その子が拾得届に必要事項を記入し、警察官が確認する光景が目に映っていた。

「では、失礼します」

「どうもありがとうございました」

 その子が交番から出ていってから、僕はようやく我に返った。

「あの、さっきのスマホは、僕の物ですか?」

「少々お待ちいただけますか?」

 警察官は少しばかり事務的な作業をした末に言った。

「はい。間違いありません」

 その時、僕は真っ暗闇のトンネルを抜けることが出来た。

 僕は警察官にお礼を言うと、足早に交番を出て、あの公園に向かった。

 あそこなら、あの子にまた会えるかもしれないと思ったからだった。

 厳しい寒さの中、公園では子供たちが草野球を楽しんでいた。

 あの子の姿はなかった。僕は空を見上げてみた。

 凧は上がっていなかった。

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