5 白い獣

「ホムラぁ。終わったぞぉー」


 俊蔵に呼ばれ、ホムラは急いで縁側に向かった。

 右の前足に包帯を巻かれた白い獣は、今や犬用のソファにくるまり、落ち着いた様子でぐっすりと眠りについていた。


 突然、ホムラの前で倒れてしまった白い獣――。


 我に返り慌てて駆け寄ったホムラだったが、よくと見るとその獣は右前足に怪我を負っており、さらに呼吸すらも弱々しくなっていた。


 しかし、弱っているとは言え野生の獣だ。


 安易に手を出していいのか迷ったものの、やはり道端に放っては置けずホムラはひとまず獣を家まで抱えて帰ることにした。

 しかし、この田舎に夜間の動物病院はない。俊蔵と話し合い、ひとまず軽く手当てしてから一晩様子を見ようと決めたのだった。


「枝かなんかで前足、切っちまったんだなぁ。弱ってるみてぇだがひどくはねぇ。傷もそんなに深くねぇから、一晩休ませりゃ森さ帰ってくだろ」


「ごめん、じーちゃん。腰痛めてんのに」


「なぁに、タロみてぇに放っておけなかったんだろ。こんぐらい大した事ねぇ」


「……うん」


 茶の間に飾ってある写真が、ふと目に思い浮かぶ。


 家の玄関前に立つ俊蔵と、祖母の初子。その間に立つ幼いホムラが抱いている犬。それこそがタロだった。


 タロは、ホムラが青葉ヶ山にやってきてすぐの頃に出会った捨て犬だった。写真はそのタロを家で引き取りしばらく経った時期に撮った、唯一の家族写真だ。

 だが、それはもうずっと昔の話なのだ。


 今、この家に住んでいるのはホムラと俊蔵の二人だけになってしまった。


「なあ、じーちゃん。ヘンな事、聞いていいか」


「ん? なんだぁ?」


「コイツの事、タロと重ねてたのかもしれない。でもオレ、コイツを見つけたときヘンだった。初めて会ったのに、そうじゃないっつーか……。なんか上手く、言えないけど」


 何言ってんだオレ。


 よく分からない事を口走っているのは分かっている。

 呆れられるかもしれないと思ったが、俊蔵は何とも思っていないようだった。そればかりか「そりゃ、運命の出会いってヤツかもなぁ」とホムラの予想もつかない言葉をつぶやいた。


「運命の出会い?」


「そうだぁ。運命だ、運命」


「……なんかクセぇー」


「なぁに言ってんだぁ。すべては必然。決められた出会いよ。俺もそうだったよぉ。ばあさんの……初子の顔、初めて見た時は、コイツだぁ! ってビビッときたもんだ。暁美が産まれて、ホムラが産まれて、なんだかんだあってお前が今ココ青葉ヶ山にいんのも、何か意味があんじゃねぇかなぁ、って思ったり、なぁーんてな」


 ガッハッハと大口を開けて笑う俊蔵に、ホムラも「なにソレ」とつられて笑う。


「ともかくよ。おめえがそう、ビビッと感じたんならそいつはホンモノ、必然だぞぉ。大事に覚えておけぇ」


 ホムラの頭をポンと優しく叩き「そりゃそうとメシだメシ。俺は作っとくからよぉ、ホムラはそいつ見ておけぇ」と俊蔵は奥の台所へと消えて行った。


 側で眠り続ける獣の頭を優しく撫でる。

 まばらな黒斑のある白い耳。

 それが微かにぴくりと動いた。


 見れば見るほどに不思議な獣だ。


 野生だというのに身体はなぜかほとんど汚れておらず、獣特有の強い臭いもしない。

 それどころか艶やかな白い毛並みは、野生の動物とは思えない高潔ささえ感じる。


 そして、あの一瞬——ホムラの目を奪った、あの赤い瞳。


 そうだ。自分は何かを、忘れていた。

 そして少し、思い出したはずだったのだ。


 しかし、今となってはもう何を思い出したか、分からない。

 思い出した事は分かるのに、何だったのかは、もう分からない。




*  *  *




 黄と濃紫が混ざり合った空の中、太陽がゆっくりと山に向かって沈んでいく。


 黄昏時、もしくは逢魔時と呼ばれるこの時間。

 青葉ヶ山の麓近くの白狐沼——その林の中から小さな影が現れた。


 小さな影の正体は、架美来かみらだった。


 夕方に白狐沼に着いてから周辺を歩き周り、一周してまたこの沼に戻ってきたところだった。


 沼辺に咲き誇る白い彼岸花。

 残暑に咲くには珍しいそれを最後に見やり、架美来はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。素早く電話番号を入力し、続いて通話開始のアイコンを押す。


 呼び出し音はすぐに止んだ。

 すかさず「俺だ」と架美来が言う。



「出没地点はここで間違いない。昨日から探りを入れてるが大方睨んだ通りだ。


……ああ、だろうな。魔が物らしい気が残留してる。しかもかなり上物の匂いだ。それに聖の気も。こっちは微かにだけどな。


……だよな。何世紀も前に消滅したヤツが実は生き残っていたなんて俺も信じられない。ただそう考えれば全て辻褄が合うんだよ。確証は掴めちゃいないが、本当なら組織の奴らひっくり返るだろうな。


……分かった。俺はこれから家に戻る。計画は予定通り決行だ。準備を進めておいてくれ」



 通話を切り、架美来はスマートフォンから目を離した。


「お狐様の呪い、ねぇ」


 一筋の風が吹き荒び、沼地に滞留する生温かい空気が架美来の身体をおおう。


 じめついた泥にまじる、微かな腐敗の匂い。


 妖しく濁る赤茶色の白狐沼を振り向きざまに一瞥し、架美来は沼を後にした。

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