吾輩は犬である

嵯峨嶋 掌

チャーリー

 吾輩わがはいは犬ではない、断じて犬ではない。そう強調すればするほど、胡散臭うさんくさがられるのは承知の上で、もう一度、繰り返しておこう。

 吾輩は犬ではないのだ。


 ……いや、性格を期せば、たしかに前世は、犬であった。

 かすかながらも、ときおり、前世のワンダフルな日々をほんのワンタイムだけ思い出すこともある。

 もとより人間ごときに飼い慣らされているめめっしい家畜なんかじゃなかった。大いなる気概と野望をなかに秘めながら、気の向くまま、足の向くまま山野を跋扈かっぽしていた野犬であったはずである。

 野良犬……といった表現は、いささか野暮やぼというものであろう。むしろ、既成の枠組みや大組織の歯車になることを拒絶し、自由なる精神を愛し続けてきた、享楽型放浪犬といったほうがより適切であろう。

 それこそが吾輩の誇るべき生き(犬)ざまであった。

 ご主人様にクンクンり寄るようなぶざまな態度だけは、一度もみせなかった。

 けれど……ある季節とき、天候異変によるわれら自由犬じゆうけんにとっては未曽有みぞうの食糧難の時代が到来したのである。飼い犬どもの中でも、ご主人様一家の生計のガタツキで、給餌回数もお散歩犬数けんすうも急減したためか、突然、ポイと捨てられたり、勤務先をクビになったご主人様から理由もなく蹴られたりと、そんな時代になった。それでも飼い犬どもは、まだ恵まれていたほうだろう。われら、自由犬は、餓死犬数けんすうが急増し、より凶暴な獣どもに喰われる犬数けんすうは過去最大を記録したはずである。

 吾輩はといえば、持ち前の、のらりくらり戦術で、敵どもの餌を奪い、騙し……たりで、なんとか生き延びることができたのだった。

 ……そんな弱者必滅の競争社会では、ある程度の規模の仲間を集めることができる能力の有無も、また生存可能性を高めるために必至ひっしであった。本来、むやみにれないことで、孤高ここう犬道けんどうを突き進むことができるものなのだが、やはり、数犬すうけんから十犬じゅっけんぐらいのグループをつくることで、外敵防衛力維持につながる。(あ、念のために記しておくが、ひきとかとうとかいう単位は、われら自由犬じゆうけんは用いない……以下略)。


 さて、吾輩が自由犬道じゆうけんどうで生き残りを賭けた闘いの準備をしているとき、四犬しけんの仲間を得ることができた。(あ、何度も註釈をするようだが、吾輩たちは、飼い犬どものように人間が勝手に分類しやがって、名付けたフレーズなどは一切用いない。そういうことを拒否するのが、かの歴史的な自由民犬じゆうみんけん運動のはじまりなのであるが、煩雑ハンザツになるので、ここでは、これ以上は、述べないでおく。おゆるし……)


 犬種で呼ばないのなら、では、どういうふうに相手のことを規定していたのかというと、ずばり、見たままの表現なのである。

 おおっきいやつ、めちゃでっかいやつ、平凡なやつ、ちっちゃいやつ、めちゃめちゃちっこいやつ、縮れ手のやつ、黒いやつ、焦げ茶のやつ……などなど。

 吾輩が出会った四犬しけんのなかで、一番でっかいやつ……便宜上べんぎじょう、チャーリーと呼んでおこう。あ、便器上じゃないよ、念のため。


 ……チャーリーは、よくいう老衰期にきていたらしく、目やにをため、毛も抜けがちで、歯も黄色く臭く、あしを引き摺っていた。どういうわけか吾輩のあとをトボトボとついてくるもので、やっとのおもいでゲットした肉片を分けてやったりしていると、それに味をしめて、吾輩といっしょにいればラクができると判断したのだろう。

 吾輩は吾輩で、どうしても餌にありつけない最悪の事態が続いて、飢餓感がピークにきたら、遠慮なくガブリとやってやろうとおもっていたのだ。すると、チャーリーはさすがに年季がいっていて、

「いいさ、いつでも、くれても。どうせ、老い先短いいのちだからさ、遠慮なく。これまで世話をかけてきたお礼だし。キミの記憶に残るような終わり方を迎えたいとおもっていたのだよ」

と、淡々とした口調でそんなことを言い出すのだ。

「でもさあ」と、そのあとで、チャーリーはこう付け足してきた。

「……一度食べた牛タンの味が忘れられなくてなあ。最期にもう一度だけ、食べてからきたいもんだ」

 目やにがくっついた眼球のなかにこめられたみずからを憐れむなんともいえないような光を見てしまった吾輩は、おもわず息が詰まりそうになった。聴けば、路上に牛タン弁当を落とした人間が拾わずにそのまま置き去りにしたのを横取りできたのだそうだ。吾輩ですら、そんな高級モノを喰らったことは一度もない。

「もうずいぶんと前の話さ。まだ前途洋々として、当時はやりの自由民犬運動の闘士のひとりでもあった頃だよ。ひゃ、懐かしいやあ!」

 チャーリーが言う。味を聴けば、舌だけに舌触りはバツグンで、甘いとろけるような匂いがまとわりついた柔らかい断片は、この世のものとも思えない濃厚な味わいであったそうだ。

「それがな……」

と、チャーリーはよだれをダラダラ垂らしながら喋り続けるのだ。

「……あるとき出会ったグルメ犬が教えてくれたのがね、その味は、やや大きいやつ、そ、まさに、ほら、キミのような、垂れた耳たぶの柔らかさと感触に似ているのだそうだ。味もね、さほど変わらないようなんだ」

 チャーリーのよだれと目の奥の光のせいか、吾輩のなかに忘れかけていた同胞ともへの愛のようなものが、ふいに首をもたげてきて、吾輩はふうと息を吐いてから、大木の根っこのふもとに埋まっていたガラスの破片に耳をなすりつけた。激痛が走ったが、そういう一過性の感覚よりも、吾輩の義侠心のほうが打ち克って、チャーリーに吾輩の片耳をくれてやったっけ。いまでも、ときおり、前世のその頃のことをワンタイムで思い出すのさ、あのときのチャーリーの神か仏に遭ったような驚愕のまなざしを……。


 

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