第24話 天使の翼

 シエロの翼は、まだ数度しか見ていない。

 通常は二枚一対の翼が片方しかないが、その真っ白な片翼は大きく立派なものだ。長い風切り羽が印象的だが、翼の内側には柔らかそうな羽毛もある。以前ネーヴェは、彼から小さな羽の首飾りをもらっている。あれは内側の細かい羽毛だと思われる。

 鶏より圧倒的に大きな翼だ。

 手のひらいっぱいに、あの羽毛の海を撫でたら、一体どんな感触がするのだろう。


「……」

 

 どうしよう。触ってみたい。

 最近、モップを撫でているせいで、鳥の可愛さに目覚め始めたせいもある。ネーヴェは、急に好奇心がくすぐられて、うずうずした。

 見透かしたように、シエロはうっそり嗤う。


「俺は今すぐでも構わないぞ」

「天使様の翼を見られたら困るでしょう!」

「なら、お前の寝室に行けばいい」

 

 寝室と聞いて少し懸念を抱いたものの、シエロは決定的なことをしてこないという謎の信頼感がある。実際、一つ屋根の下で宿屋を営んでいた時も、何もなかった。

 ネーヴェは葛藤しながら、寝室に移動した。

 歩きながら、シエロは無造作に上着を脱ぐ。


「着たままだと、翼が引っ掛かるからな」

 

 シャツのボタンを外す手つきは、どこか色めいている。

 シエロは唯我独尊な態度で、勝手に寝台のへりに腰掛けた。半身脱いで背中をさらすと、白い翼が押し出されるように広がる。


「そら」

 

 ごくり、と唾を飲んで、ネーヴェは彼の前に座り、そっと手を伸ばす。

 恐る恐る、羽を撫でると、冷たくてさらりとした感触がした。夏の暑い時に触ったら涼しいかもしれないと、現実逃避気味に考える。

 第三者から見れば危うい事をしていると、分かっているつもりだ。しかしネーヴェにも、彼のことをもっと知りたい欲がある。

 思いきって手のひら全体で、翼の真ん中にタッチしようとすると、そのネーヴェの前のめりな動作と合わせるように、翼が包み込むように動いた。

 いつの間にか、シエロが音もなく接近している。


「!」


 力強い腕に腰を取られ、彼の膝に乗り上げるような体勢になった。

 こちらを真剣な眼差しで見つめるシエロと、視線が合う。

 束の間、二人は見つめ合った。

 このまま口付けされるかもしれないと、ネーヴェは予感する。しかし、予想に反して、その瞬間は中々訪れない。

 違和感を覚えかけた、その時。


「陛下、お茶をお持ちしました。お休みでしょうか」

「!!」

 

 侍女の声がして、ネーヴェは我に返り、シエロの胸板を押し返した。


「……ここまでか」

 

 外に聞こえないよう声を潜め、シエロが残念そうに呟く。


「そのようですね」


 ネーヴェは答えながら、いつの間にか動悸が早まっていた胸を押さえた。

 

「ここに、置いていきますね……」


 侍女は諦めて引き上げることにしたらしい。

 ティーセットをテーブルに置いた音がした。

 興醒めしたのか、シエロは衣服を整えて立ち上がる。


「接吻くらいは許されたいが、仕方ないな。これ以上は、俺もお前も困るだろう」

「そうですね」


 頷きながら、ネーヴェは、はたしてシエロが本気で自分に触る気があったか、うっすら疑問に思う。どこまで近づいても良いか、試している感じもあった。

 しかし、物思いを遮るようにシエロが話題を変える。


「そうだ、ネーヴェ。魔術の国アウラの王子の事だが」

 

 ベランダに続く窓を開けながら、彼は振り返って告げた。


「魔術師は、たった一人でも国をひっくり返す力を持つ。去年の虫害を起こしたようにな。アウラの王子も魔術師だ。注意した方が良いだろう。俺の守りは、王族が招いた客には通用しない」


 マイペースに警告すると、シエロはベランダから空に飛び立っていった。

 

「アウラの王子……」

 

 何となく、ネーヴェは予感を覚えて身を震わせる。

 王子とラニエリが親しいということが、妙に引っ掛かった。ラニエリは、何を企んでいるのだろう。

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