第33話 それは恋になる前の

 ネーヴェには野望があった。

 この無精髭にまみれた、ろくに風呂に入らない男を、風呂に入れる。そして、むさくるしい髭をカミソリでスパッと剥ぎ取ってやるのだ。

 汚れがしつこいほど、綺麗にした時の感動は大きいものだ。

 対象は、物でも人でも、同じこと。

 

「ま、待て!」

 

 シエロはガタンと椅子を蹴って立ち上がった。


「実は、明日以降の収穫祭で、教会の行事に参加するのだ! 今髭を剃る訳にはいかん!」

「逆ではありませんか。そんな行事に髭持参で赴くなど」

「髭持参?! とにかく、駄目だ。今、剃ったら……この髭を伸ばすのに何年掛かったと思っている?!」

  

 珍しく、シエロは動揺をあらわにしている。

 実のところ、わざと髭を伸ばしているらしいことは、ネーヴェにも推察できていた。しかし、彼女にはそういった事情よりも優先されるべき趣味がある。


「何年も……それは、さぞかしさっぱりするでしょうね」

 

 剃りがいがあると、ネーヴェは浮き浮きする。

 二人の会話がおかしいと指摘する第三者は、残念ながら、この場にいなかった。


「分かったから、とにかく待て。少なくとも、収穫祭が終わるまでは」

 

 シエロは項垂うなだれながら、額に手を当てている。

 男を追い詰めたネーヴェだが、今すぐ彼を襲うつもりはなかったので「承知しましたわ」と引き下がることにする。

 もうひとつき以上、待っているのだ。

 数日待つ程度は、許容範囲である。


「……ということは、シエロ様は収穫祭の間、教会の仕事をされるのですか」

「ああ。今回の件で、断りきれなくなったからな」

 

 貝殻の粉を各地に配るにあたり、教会の連絡網を利用し、聖なる粉だと箔付けもしてもらった。

 シエロの伝手つてを使ったので、彼が今、その分働かされそうになっているのは容易に想像が付く。ネーヴェの希望にシエロが協力してくれたから、今回の件は上手くいったのだ。

 ネーヴェは、この男に、並々ならぬ恩がある。


「行ってらっしゃいませ……シエロ様と祭日の屋台を見に行けないのは残念ですが、仕方ありませんわ。食事を用意して、帰りをお待ちします」

「ああ」

 

 一礼して言ったネーヴェに、シエロが頷く。

 二人の間に、柔らかい空気が漂う。それは色気や愛情といった明確な想いではなく、朝露に濡れる薔薇のつぼみのように、花開く前の形にならない純粋な好意だ。

 廊下に立って気配を消したカルメラが、苦笑して見守っているのを、当のネーヴェは気付いていなかった。

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