第19話 極秘任務
朝、香世は久々に寝過ごしてしまって、慌てて着替えてバタバタと居間に降りる。
居間にはいつものように新聞を読む正臣が居た。
「おはようございます。
申し訳ございません、遅くなってしまいました。」
正座をして深く頭を下げる。
正臣はふっと笑って、
「おはよう。
昨夜は遅くまで付き合わせたのは俺だから、気にするな。」
そう言って、女中に朝飯を持って来させる。
2人の女中は静々と2人分の朝食を膳に乗せて持って来る。
「ありがとうございます。」
香世は頭を下げてお礼を言う。
「昨日、夕飯をなぜ作らなかった?」
不意に低い声で正臣が言う。
2人の女中はおどおどと顔を見合わせて答えに詰まる。
「あの…私が要らないと言ったのです。
2人のせいではありません…。」
香世もビクビクしながらそう告げる。
「彼女は大事な客人だ。
例え本人が要らないと言っても三食作れ。
次は無いと思え、仕事を放棄したとみなして出て行ってもらう。」
冷たく放たれた言葉は昨夜とはまるで別人のようで、香世の心さえも凍らせる。
「も、申し訳ありませんでした。」
2人は正座して深く頭を下げる。
「香世は遠慮しなくて良い。自分の家だと思って寛いで欲しい。何かあったら逐一報告を。」
香世に向けられる目は昨夜と同じ優しさを感じ、ホッとする。
「食べるぞ。」
正臣が箸を持つから、香世も急いで箸を持ち頂きますと両手を合わせる。
女中は足速に頭を下げて部屋から下がる。
香世は少し可哀想だと同情し、襖を閉めて去って行く2人を目で追う。
「香世、気にするな。昨日は女中が悪かった。ちゃんと三食食べて俺を安心させてくれ。」
「は…い。すいませんでした。」
食べる手を止め正臣を見る。
「週末は一緒に花見に行く。
体調をを整えるよう良く睡眠を取って欲しい。それが香世の仕事だ。」
少し体調が思わしく無い事に気付いていたのかと、ドキッとしてしまう。
「それは…牛になってしまいますよ。」
香世はワザとおどけて言ってみる。
正臣はフッと笑って香世を見る。
「香世はそのぐらいでちょうど良い。」
朝食を食べ終え、正臣様の着替えを手伝う。
香世はいつものように正臣のシャツのボタンを止める。手首のボタンを止める時ふと手を止めてしまう。
手のひらに傷…不自然じゃ無く見る方法なんてあるのかしら?
「どうした?」
動きを止めた香世を不思議に思ったのか、
正臣が顔を覗き込んでくる。
「あ、いえ、なんでも無いです…。」
急いで取り繕って微笑む。
「香世、顔色が悪いな。
少し真子との勉強は休んで、横になっていた方がいいんじゃないか?」
「大丈夫です。ちょっと寝不足なだけです。
真子ちゃんが来てくれると元気を貰えるので、会えないのは寂しいです。」
「そうか…。」
日がな一日、1人で置いておくのも酷だしな…
どうしたものかと正臣は考え込む。
先に寝ていいと言っても、きっと昨夜のように待っているだろうし、出来れば香世と話す時間が欲しいと思ってしまう自分がいる。
頭を撫ぜて、
「あまり無理はしてくれるな。」
正臣は、香世の透き通るほど白い頬に触れようと、手を伸ばすが寸での所で止める。
触れてはいけない、怖がらせるだけだ。
正臣は自分を制し、軍服を羽織りボタンを閉め装飾品を取り付ける。
階級が上がる事に増えて行くバッチが重さを増す。
腰ベルトに短剣と小銃、警棒を取り付ける。
「ありがとう。」
と、香世にお礼を言う。
軍帽を香世が差し出して来るから頭を下げてみる。
「えっ⁉︎」
香世は戸惑い、どうするべきかと首を傾げる。
その仕草を可愛いな、と思いながら目で合図をする。伝わったのか恐る恐る頭に軍帽を被らせてくる。
正臣は満足してにこりと笑い
「ありがとう。」
と、お礼を言って部屋を出て行く。
香世は鞄を持ちいそいそと正臣の後をついて玄関へ向かう。
玄関には前田が待っていて、爽やかに笑いながら
「おはようございます。」
と、頭を下げてくる。
「香世様、おはようございます。
どうですか?ここの暮らしには慣れて来ましたか?」
香世は気さくな感じに話しかけられて、若干びっくりして瞬きをする。
「あ、はい…。だいぶ慣れて来ました。」
前田とはまだ挨拶程度しか交わした事が無かった筈…
人懐っこい人なのね。
と、1人納得して香世は微笑み返す。
「可愛らしい方だ。
何か困った事とか、心配事があったら僕に言って下さいね。
二階堂中尉よりは自由に動けますから。」
「ありがとうございます。」
香世は素直に頭を下げる。
正臣はブーツを履きながら、
若干面白くない顔をして前田を睨み付ける。
「カステラどうでしたか?結構並んでギリギリ買えたんですよ。」
「あっ、前田さんが買ってくださったんですね。とても甘くてしっとりしていて、美味しかったです。ありがとうございます。」
果穂の笑顔で前田が満足したらしく、にこりと笑って正臣の鞄を香世から受け取る。
「前田、勝手に香世に話しかけるな。」
正臣が前田を咎め、 シッシと手のひらを振って追い払う。
「では、行って来る。」
「はい。お気を付けて行ってらっしゃいませ。」
2人の女中と共に頭を下げる。
正臣は昨日と同じように、香世の頭を優しく撫ぜて出かけて行った。
「香世に慣れならしく喋りかけるな。」
正臣が車に乗り込むなり前田を咎める。
「ボスに怒られるのは想定内です。
でも、こうでもしなきゃ香世様と仲良くなれないでしょ?」
「仲良くならなくていい。」
前田と言う男、怖い者知れずで正臣にもたじろがず、ずけずけと物を申す。
こう言う奴は最近いないから貴重な存在だが、だからと言って香世に馴れ馴れしいのは正直腹が立つと、正臣は思う。
「今日も何か手土産を用意しといてくれ。」
腹立たしいが、こう言う事を気軽に頼めるのは前田しかいないから仕方がない。
「了解しました。
今日は何が良いですかねぇ。ああ、最近人気の喫茶店でプディングが人気らしいんですけど、食べた事ありますか?」
「ない。」
普段、正臣は甘い物を好き好んで食べる方では無く、昨日のカステラも実は始めて食べた。
香世が嬉しそうだったなと、思い返しても思わず笑みが溢れてしまう。
「ボスがそうやって笑うのは珍しいですね。」
前田がニヤニヤ笑って茶々を入れる。
「お前は、前だけ見てろ。」
今夜は早く帰れるだろうか…。
香世の体調も気になるから願わくば早く帰りたい。
極秘警護2日目、
特に問題無く総理を自宅に送り、今夜は前田の運転で自宅に戻る。
9時前、昨夜よりも若干早い。
香世は起きているだろうか…。
前田が用意したプディングを手土産に家路を急ぐ。
「しかし、この時間まで女性が1人って言うのも物騒ですね。守衛が必要じゃないですか?」
「お前がやるって言うんだろ?」
懲りない奴だなと思いながら適当にあしらう。
確かに物騒だとは思う。
どうするべきか思案中だ。
部下の誰かに頼めば早いのだが誰でも良い訳では無い。
香世に近付いても害の無い人物。
出来れば既婚者が1番安心だ。
意外と上司以外の既婚者が少ない事に思いあたる。
どうしたもんかと思案に暮れる。
「僕が1番安心安全ですって。」
「お前は何でそこまで香世に近付きたいんだ。」
正臣は冷めた目つきで前田を見る。
「だって僕が見つけ出したんですから、少しぐらいお近付きになりたいんですよ。
身分はわきまえてますし、
ボスから奪おうなんてこれっぽっちも思ってません。貴方を敵に回したら職を失う訳ですから。」
確かにそうだな。
「…分かった。
お前を信用して夕方空いた時間で、香世の様子を見守ってくれ。
ただ、3年前の事は絶対に言うな。」
「分かりました。
僕はボスの幸せを願う一下臣ですから、
香世様をお守りします。」
何処となく嬉しそうな前田に苛立ちながら、
正臣はため息を吐く。
車から降り玄関に急ぐ。
昨夜のように外灯は付いている。
先に寝ても良いと自分で言っておきながら、
今宵も香世が出て来てくれる事を心無しか期待してしまう。
鍵を鍵穴に通しながら、昨日の今日で流石に起きていられなかったかと、自分を納得させ家へ入る。
靴を脱ぎ、暗い廊下を歩くと居間の襖の隙間から灯が漏れている。
そっと中を覗くと、
部屋の隅に置かれた机の上にうつ伏せになって寝ている姿を見つける。
いつからこの状態なのかと心配しながらそっと近付く。
火鉢の側だがさすがに寒い。
そっと香世の頬を手のひらで撫ぜる。
ハッとする。
頬に涙の跡……。
泣いていたのか?何かあったのだろうか?
涙の跡をそっと指でなぞりながら考える。
女中に何か言われたのか?
このまま寝かせて置く訳にはいかず、
起こす事も憚られる。
抱き上げ部屋に運ぶ事にする。
そっと起こさぬように慎重に体勢を動かし抱き上げる。
カタン。
何かが床に落ちた音、
香世の手から落ちたようだ。
香世の負担にならないようにゆっくりしゃがみ、落ちた物を手探りで探し拾う。
触れた感触は時計のようだ。
香世の手に戻そうとその時計に目をやる。
ハッとする。
これは…男物の時計?
瞬間、
頭が真っ白になり心臓を手掴みで握られたかのようにズキンと痛む。
好いた男が…いる…のか…。
許嫁がいるとか婚約者がいるとかそういう類のものは一応調べた。
横恋慕するつもりは無く、奪い取るつもりも無かった…
誰かと幸せならそれで良いと思っていた。
表だって出てこない恋愛だってある…
時計を握りしめ、香世を抱き上げ部屋に運ぶ。
彼女の幸せはここには無い…。
好いた男がいるのなら…
その男の元に帰してやらねばならない。
そう思うのに心が張り裂けそうだ…。
唇を噛み締める。
頭の中は真っ白で上手く働いてくれそうも無い。
布団にそっと彼女を寝かせる。
涙の跡は…その男を想って流したのか?
時計を机にそっと置き部屋を後にする。
頭を冷静にしようと、あえて冷えているであろう風呂へ行く。
なのに…
薪は焚べらていてお湯は温かく保たれていた。
香世が俺の為を思って温め続けてくれていたのだろう。
その優しさを嬉しく思ってしまう。
彼女を今更手放す事なんて俺に出来るのだろうか…。
風呂から出て居間に行くと、
「正臣様申し訳ありません。」
目が覚めてしまった香世が頭を下げて待っていた。
早く帰りたいと、少しでも会って話がしたいと思っていたのに、
心が乱れている今、
会いたくなかった…と矛盾する心を持て余す。
「起きて来なくても良い、俺もすぐ寝る。」
どうしても心がささくれ立ち素っ気ない態度になってしまう。
そんな俺の一言で、香世がしょんぼりと俯いてしまうから、また心がズキンと痛む。
「寝に行くぞ。」
今は長く一緒に居たくないと、早々自室に向かう。
いそいそと香世が俺の後をついて来る。
階段で躓きそうになる彼女に、咄嗟に手を貸しそのまま握って部屋まで連れて行く。
この手を離したくないと心が叫び、ついぎゅっと握りしめてしまう。
俺の自室の前まで手を離せずに連れて来てしまう。
このまま部屋に連れ込み抱いてしまえばいいと黒い心が俺を誘う。
唇を噛み締め、葛藤し無理矢理手を離して
顔も見る事も出来ず、
「おやすみ…。」
と、呟き部屋に入る。
「おやすみなさいませ。」
襖の向こうで香世が頭を下げている気配がする。
「前田が、プディングという物を買って来たから…明日食べよう。」
襖越しにそう伝える。
それが今は精一杯だった。
「楽しみにしています。」
香世の嬉しそうな声にホッと安堵する。
傷付けたくはない。
幸せになって欲しいと願うのに、
それが俺の役目では無いと思うと心が痛い。
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